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オフ・リミッツ  作者: 霜前七七五
第一部
3/28

1-2

広川千里・・・・・・友人

五付揺唄・・・・・・女子


     2


「見つかったよ」

「もうか!」

「なに驚いてるの。二時間もあれば、校内の人探しくらいヨユーで出来るから。あたしの人脈を甘く見ないで頂戴。姉貴はね、十世高リボルバー七不思議の調査に大きくコーケンした凄腕諜報局員なのよ」

 フン、とお高く留まるフリをする揺唄だった。ていうか揺籠さんは諜報局員だったのか。知らなかったぞ。

「というのはモチロン冗談でー。ほんとは最初に当たった友達が知ってただけなんだけどね。運が良かったってこと」

 ……というわけで、依頼当日(!)の放課後、予想に反して割合あっけなく、謎の彼女の正体が掴めたわけだった。

 ちなみに『十世高リボルバー七不思議』というのは、入れ替わり立ち代わり発生する十世高校の怪談話のことだ。一度に流れる噂が七つくらいに収まることからそう呼ばれているらしい。七不思議なのにリボルバーなのが八つめの不思議なのだとか。詳しくは知らない。興味ないし。よくある都市伝説の類だ。

「えっと、じゃあ、報告ね」

 揺唄は得意げに手帳を取り出す。……ああ。今なんか、揺唄のディア・ストーカーにチェックのマント姿が見えた気がするな。

「謎の彼女。名前は戸波節菜となみ・せつな。戸は、あの棚とかについてる戸、波は寄る年波の波に、節約する菜っ葉の菜。二年二組ね」

 節約する菜っ葉って……ビミョーな表現だな。ていうか揺唄の例示の全てがビミョーだ。分かるからいいけど。

「外見的容姿はほぼ一致するよ。背は高め、髪は長い。面倒臭がりな性格だけど、女子野球部所属。野球詳しくないから意味分からないけど、教えてもらったとおりに言うと、『四番ショートだけど、功走守揃っている上、全守備位置を守れる名プレイヤー。あまりに卓越した捕球技術が往年の牛若丸を思い出させることから牛若丸→義経→でも女の人→巴御前という連想によって』、女子野球部ではともえって呼ばれてるみたい」

「マニアックかつツッコミどころ充分なプロフィールだな……」義経から連想するのは静御前のはずだが。

「そんで肝心のかんざしだけど――」

 緊張した面持ちを作って、揺唄の小さな喉がこくんと小さな音を鳴らした。

 充分な間。

「常に髪に刺してるらしいわ」

「いやそこ溜めるとこちゃうし」

 突っ込んでみた。

「刺しているらしいわ」

「……そうか」

「そうよ」

 満足そうに言う揺唄だった。

 なにか負けた。

「そうか。分かった。さんきゅ。恩に着るよ」

 そうと分かれば、すぐに尋ねるに限る。善は急げ、思い立ったが吉日。僕は扉へ向けて踵を返す。

 が、

「ちょっと待ちなさいよ。ここは急がば回れ」

「うっ……」

 制服のカラーを掴まれた僕だった。ていうか思考を読まれた気がするのは気のせいか?

「ヒトの話聞いてたの? 部活入ってるんだから、今教室行ったっていないってば。ハルちゃんって、目標定まるとほんっと考えナシよね。もう少し物事考えたらどうなのよ」

「ああ……」そういうことか。

「『ああ……』とか溜め息交じりに言わない方がいいよ、馬鹿っぽいから。J○Aが主催するスポーツで走るお馬さんだって、昔からトラックくらい回れるんだからね? 走路が妨害されたらそれなりに速度緩めるんだよ、分かってるの? ……あ、でもハルちゃん、中学の体育祭ではトラック走ってたっけ。リレーやってたね。じゃあお馬さんと同じくらいの知能はあるってことなのかな。ねえハルちゃん、ハルちゃん自身はどう思うよ、自分の知能。なさそうじゃない?」

「ないのはお前の話の脈絡だよ」

 ……なんてことは言うはずもなく、僕は揺唄に制服から手を放すよう言って、向き直る。

「女子野球部って何時に終わるんだ?」

「え? たしか、六時」

 時計を見る。四時半。

「じゃあ、僕は適当に時間潰してくるわ。わざわざ悪かったな、付き合わせて」

 揺唄がお仲間連中との帰宅を断ってまでこっちを優先してくれたのだから、これまたレアなことである。あとでメールでも良かったのに。

 さてと、今日も晩飯作らなくては。今日は木曜だから、魚あたりがベターだろうか。そういえば風呂の洗剤がないんだった。ちょちょいと何か買って、家に一旦帰ってから――と僕は廊下へ進みかけた。

 のだが、

「ちょっと待ちなさいよ」

 ぐい、とまたもカラーを掴まれた僕だった。そして今度は引き降ろされて、

「ぐえっ……」

 つまり、こう、後屈みたいな姿勢を無理矢理取らされる羽目になったのだ。背面に無茶な負荷がかかる。うわ、やば、腰やば。痛い痛い背中と腰が痛い。

「あたしも連れてきなさい」

「う。え、あ?」

「あたしもついてくわ。どうせ一人で帰っても暇だし。久しぶりに過去バナに花でも咲かせよ」

「うう、え……」

「ゾンビみたいな声出さないでよ。やっぱり知能ない?」

「ゆ、ゆり、うた」

 まずい。完璧に決まっている。回避しようにもこのまま横に無様に倒れこむしかないが、放課後とはいえ衆人環視の教室でそんな醜態を晒すわけにも、

「…………」

 ……っていうかカワイイ系女子に生殺しにされてる時点で、否、『ぐえっ』とか言ってる時点で、すでに僕の男としての沽券は消え去ったに等しいに違いないと今更ながらに思いましたよ。ええ気付きましたともさ。

 そのままがくっと尻をついた。

 荒く息をする。

 ……生殺しって表現もどうよ。ってことに今気付いた。

「返事は?」

「ポジティブ……だ」

「おっけぃ。んじゃあさ、園芸部の友達から、力仕事できるやつを探してって頼まれてたのよね。ほら、うちの園芸部って女子ばっかりでしょー。でも鉢植えとか肥料ってそれなりに重いじゃない。丁度ここに暇人がいるみたいだし、一緒に行こうよ。ね、ハルちゃん?」



Intersect1.2

『お疲れ様でしたーっ!』

 夕日に染まるグラウンドに向けて、一列に並んだ野球少女が帽子を脱いだ。すぐに散開して、半数がグラウンド整備、半数が用具片付けに移った。

 十世高校の女子軟式野球部員は、全学年と入部決定者を合わせても十四人しかいない。野球チームを一つ作るのにぎりぎりの人数だが、女子野球部という部の珍しさを考えれば、存続していること自体が奇跡とも言える。相手校もほとんどいないため、周辺の草野球チームとリーグ戦を組んでいるのが数少ない実戦だ。しかし部員は互いに仲が良く、上下関係もそれなりで、和気藹々といった言葉が似合う部だった。

 そんな中で、

「みんなー、お先に失礼しまーす」

「はーい、お疲れ、巴」「お疲れ様でした、巴先輩」「また明日ねー」

 一人が先駆けて校舎に戻っていった。

 身長は同世代の同性に比べて少し高め。日焼け対策が万全なのか、野球部にも関わらず肌の色は濃くない。線の細い感のある輪郭を汗が伝っていても、目元や唇には涼やかさを漂わせ、同時に意志の強い者特有の凛々しさと気高さが宿っていた。

 帽子の上にファーストミットを乗せ、マイバットの袋を肩に担ぎ、ヘルメットが四つ五つ入った大きな袋を二つ背負って、その二年生はグラウンドを横切っていった。彼女が校舎の時計に目をやると、時刻は六時を回るところだった。

 部室棟一階の女子野球部部室にヘルメット袋、ロッカーに野球用具を放り込み、代わりに自分のカバンを持って、少し離れた更衣室へ。汚れたユニフォームを脱いで、ついでに全部脱いでしまって、ユニフォームは汚れ物袋に突っ込む。走塁練習のとき、気が向いたのでヘッドスライディングをかましたら、自慢の髪が砂まみれになってしまったのだった。

 個室へ入る。ぬるいシャワーが火照った体をほどよく冷やす。温度変化で、一度体がぶるっと震えた。背中全体を緩やかに覆う黒髪を指で梳き、丁寧に洗った。ほかの部位は汗と砂を流す程度に。

 五分ほどして汗を流し終えた彼女は、個室の扉を開けて、何故か周囲の様子を窺った。

「……いないね?」

 誰もいないことを確認し、個室の扉を閉める。

 タイル張りのシャワー室に彼女の規則的な息遣いだけが小さく響き――途端、個室内で豪風が吹き上がった。

「ふいー」

 さっぱりした顔で出てきた彼女の素肌には、どこにも水滴が見当たらなかった。長髪にも水気はない。まるで乾燥機にかけたかのようにさっぱりとしていた。

 荷物をまとめて、制服を着る。そして、彼女はカバンから髪留めを取り出した。ただの女子高生には似つかわしくない、艶やかな意匠をした唐紅色のかんざし。

 ひゅんひゅんひゅん、と風切り音がしたときには、彼女の長い髪は、すでにひとまとまりに団子を作っていた。団子の中心のかんざしから手を離しても、まとまった髪が落ちることはなかった。


 通学カバンと運動着を持った彼女は、校舎内を歩く。一本筋の通った美しい動作だった。セーラー服の水色のリボンが揺れているが、適正な長さのスカートは、芯があるかのように整っていた。やがて彼女が立ち止まったのは、二階、『空き教室』とわざわざ書かれたプレートがある教室だった。

 がらがらがら。扉を開けると、

「あぁ、ん……。やっと来たの、節菜?」

 窓際の椅子に座っていた、カーディガンを羽織った女子生徒が、眠そうに目をこすった。リボンは赤、三年生の印。耳の上で二つに括った髪が赤く染まっている。

 扉を開けた彼女――戸波節菜は、窓際の彼女の近くの机に腰を下ろしてから答える。

「わたしには部活があるもの。寝てたの、三姫みひめさん?」

「? どうかした、ぼそぼそ喋って。ちょっと聞き取りにくいよ。気分でも悪い?」

「別に」

「ふうん? まあ気分悪いっていうか、不機嫌なのは今に始まったことじゃないか。そうそう、実は寝不足なのよ。昨日も遅くまで電話してて」

「彼氏か。……、ふん。彼氏、ね」

 節菜は繰り返して、不機嫌そうにグラウンドの方向を流し見る。チームメイトや男子野球部、ラグビー部、サッカー部、その他諸々が、ぱらぱらと引き上げていく様子が俯瞰できる。試験管の中を覗くような――あるいは、試験管の中から覗くような――冷めた目を細めて、節菜はそれを見ていた。その様子には、先ほどグラウンドでチームメイトたちと共有していた熱気や覇気、青春の躍動感といったものが全く感じられない。不機嫌や憂いさえ色を添える、精巧な玲瓏さがあるだけだった。

 それから節菜は教室内を見回して、

「たつみはいないのね」

「ん。いなくていいだろうって」

「そう」

「浮気ですか、許婚持ち?」

 意地悪そうな笑みを浮かべる三姫に、

「別に」

 節菜は無感情に答えた。三姫は意地悪そうな笑みを浮かべたまま、

「ほんっと不機嫌ねぇ。それよりさ、節菜。あんた、《子泣き》の回収に成功したんでしょ?」

「ええ。それから……そのときの宿主が、外にいるのよ。女の子連れでね」少し言いにくそうに、節菜は続ける。「どうやらわたしに興味を持ったみたい。部室から尾けてきていたわ」

「それはそれは。随分好奇心旺盛だね」

 無頓着にも、三姫は大仰に驚いた。ツインテールが連動して揺れる。

「そうね。まったく。……面倒臭いなぁ。引っ込んでればいいのに」

 無表情のまま視線を下げ、嫌悪感剥き出しで言う節菜。と、何かを思いついたように顔を上げる。

「三姫さん。今回は強い?」

「ううん。弱い。だからたつみくんも来なかったんだし。様子見てきたんだけど、『てけてけ』って知ってる? 知らない? 学校の怪談とかに出てるやつ。膝と肘で走って、口に咥えてる鎌で相手を切りつけるの。致命能力はなさそうよ」

「そのとき殺しといてくれれば良かったのに」

「だってさー、退治はあたしの専門じゃないもん。本ないし」

「この面倒臭がり」

「自分のこと?」

「…………。それで? また憑依系じゃないわよね?」

「地縛。こっち――北校舎の、二階B階段側の廊下。階段じゃないのが今一歩って感じ」

「……ふん。じゃあ、」

 節菜、面倒臭そうに嘆息。

「出歯亀ちゃんの方は……女の子だし、『篭絡』だけでいいでしょう。でも、出歯亀くんには、少し痛い目を見てもらうことにするわ」

「いいの、そんなことして?」

「いいのよ。本局としても、あまり公になるのは嫌だろうし。一度怖い思いをさせておけば、後から口止めが効くだろうし。体験談が並外れた恐怖であればあるほど、荒唐無稽であればあるほど、訴える言葉は真実味を失くしていくし」

「建前は分かった。本音は?」

「うざいのよね、付きまとわれるの」

「……はぁ。やれやれ。分かりやすいんだか分かりにくいんだか。それで、策とかあるの?」

「ある。その『てけてけ』、鎌を使うって言ったわね。なら、体に切り傷があって窓ガラスの一・二枚も割れてれば、あとは本人が何言っても、周囲からはとち狂ってたの一言で済まされると思う。これでいいんじゃないかしら。いざとなれば、わたしが叩きのめしてもいい」

「どうぞご自由に。いつ決行?」

 三姫のその問いに、節菜はゆるりと背を向けた。視線は入り口扉を射抜く。

「――今日」

 聞こえるか聞こえないかの音量で呟く。

 そして足音を全くさせずに扉の前へ移動し、がらあっ、と乱暴に扉を開け放った。

「ひゃっ!」

「……っ!」

 そこには二人の人間がいた。片方は背の低い、長い髪を先端で結った、気の強そうな女子生徒。胸のリボンは緑、一年生。悲鳴を上げたままの表情で固まっていた。

 片方はこれといった特徴のない、真面目そうな、おそらく同じ一年生の男子生徒。けれど彼の表情は真摯で、三白眼の瞳には力が宿り――左手は、学生服の胸元を握り締めていた。

 その顔に節菜は見覚えがあった。

「いい顔してるわ」

「……え?」

「もとい」

 節菜は首を振った。それから相手を見下すようにして、出来る限り高圧的かつ語気を強めて、

「盗み聞きは悪いことだと躾けられなかったのかしら、あなたたち」

 そう言った。

Intersect1.2out



 園芸部の力仕事を(僕だけ)手伝ってそれなりに爽やかないい汗を流し、満面の笑みでお礼を言われて、やっぱり女の子の笑顔は癒されるなぁなどと考えているうちに午後六時に迫ったところで、

「何でお前がついて来るんだよ」

「いいじゃん。今日バイトないし。暇なの」

 僕と揺唄は女子更衣室から出てきたターゲット・戸波節菜さんを尾行して、わざわざ『空き教室』というプレートのある教室の前で、良心の呵責に耐えながらも盗み聞きを敢行していたのだった。

 戸波さんの声はよく聞こえない。三姫さんというらしい先輩はタメ口を利いているから、きっと二年生か三年生か。

 話を聞いているうちに、左手にじっとりと汗が滲んできて、心なし胸の傷も疼いてきたような気がして、僕は左手を傷の辺りに当てた。盗み聞きをしているという罪悪感と緊張感と――目的に近付いていく高揚感で、脈が上がっている。

 右隣にいた揺唄が罰の悪そうな、不安げな視線を向けてきていた。盗み聞きをやめようと言い出さなかったのはありがたいが……揺唄もそれなりに居心地の悪さを感じているらしい。通じるかどうかは微妙だったが、視線を交わすに留めた。

 しかし、『こなき』って……? 僕についてた? 『てけてけ』とか『じばく』(自爆か?)とか『きおくろうらく』とか、意味の分からない単語ばかりだ。いや『てけてけ』くらいは知っているが、あれはもう少し違う妖怪だった気もする。リボルバー七不思議にあった話に似ているけど、何か関連があるのか……? あとで揺唄と話し合ってみるしかない。

『どうぞご自由に。いつ決行?』

 三姫さんの問いが聞こえた。どうやら話し合いはこれまでらしい。最後の答えを聞いてから出直そう、と揺唄とアイ・コンタクトを交わして、耳をそばだてる。

 ……? 数秒しても、戸波さんの返答がない。それまではぽんぽんとテンポ良く、仲良さそうに話してたのに。考えているのだろうか。それにしては――

 瞬間。

「ひゃっ!」

 がらあっ! と扉が開け放たれて、同時に揺唄の悲鳴が上がって――

 戸波節菜さんが、現れていた。

 その光景に、記憶がフラッシュバックする。髄液が凍る。肉が引き抜かれる不快感、心臓の異物感、驚怖と臓腑が一緒くたになって脳まで登りつめるが如き錯覚。夕の赤光。赤、赤、血の色、かんざし。逆光のなか佇む女性。見えない表情。見慣れた制服。水色のリボン。黒色の、

「……っ」

 黒色の後光は、なかった。そして戸波さんの手は左に伸ばされ、その先には例の唐紅のかんざしは握られていない。その数点がかろうじて僕の意識を保たせてくれた。そのうち一点でも満たされていれば、僕は吐くくらいはやってのけていただろう。

 かろうじて、かろうじて、息を飲むことで、僕は耐え切った。

「いい顔してるわ」

「……え?」

 その一言で意識が呼び戻される。呼気とも吐息ともつかぬ音を吐き出せるほどには。そして、

「盗み聞きは悪いことだと躾けられなかったのかしら――あなたたち」

 戸波さんが続けた言葉に、僕はようやく本来の目的を意識に取り戻した。――そうだ。僕は何のためにこんなことをしたのか。剣山並みの棘が込められた言葉が、痛みを通して僕を刺激した、といったところか。

「な。な、なっ。な……」

 揺唄はといえば、横で『な』を繰り返していた。完璧に圧倒されている。こちら側にある左手を握ってやると、安心したのか、止まった。こちらを見ている風ではあるが、僕はそちらを見ない。戸波節菜さんの瞳を見る。揺唄を一瞥してから、彼女もこちらを見返していた。

 確信する。この人は――こわい人だ。きっと。恐ろしくて、強くて、堅い人だ。身長はそう違わないはずなのに、見下されている。と感じる。それだけ気圧されている。一度深呼吸をして、唾を飲んだ。

「盗み聞きしたことは、謝ります」

 謝罪する。

「ですが、僕もお話があるんです。戸波さん」

「――いいわ。聞きましょう」

 戸波さんが視線を外し、振り向いた。途端、一陣の涼風が吹いて――ふわっ、と体が軽くなった。

「ぁ……」

 漏れた声は揺唄のものだ。力が抜けたのか、膝を崩してその場にへたりこんでしまった。僕の手にしがみつくようにされていたので、僕も片膝をついた。……こんな時になんだが、その、当たっている。それにピンクだ。見ちゃってごめんなさい。不可抗力です。角度的に。

「だ、大丈夫か揺唄?」

 危険区域から目を逸らしつつ聞きながら、下心などと平穏なブツを出している自分に驚く。先ほどまでの重圧が、緊張感が、嘘のように吹き飛んでいる。――さっきの風が運び去ったかのように。

「――はわうっ!」

 と、突然揺唄が尻を突き刺された勢いで立ち上がった。いやそれは立ち上がったというよりは飛び上がってから足を突っ張ったとでも表現すべきもので、揺唄はそのまま疾風めいた速さで廊下を駆けていった。

 角に折れて、消える。

 一連の動作だけ見ると、くつろいでいた新米兵隊が怖い上官に秒数制限付きパシリを言いつけられた光景に似ていた。……ただ、顔が耳まで真っ赤だった理由が分からない。

「そうよね……普通はそうなるんだけど」

 戸波さんの呟きで、僕はようやく彼女に向き直った。訝しげな視線がこちらに向いている。人を値踏みするときのそれだ。

「あなた、随分肝が据わっているわね」

 僕が?

「ふてぶてしい、いえ、図々しいとまで言ってもいいわ」

 えー……。そこまで言いますか……。

「僕はどうでもいいとして……どういうことです? 揺唄――あいつ、彼女、五付揺唄っていうんですけど、何かあったんですか」

「知らぬが仏、言わぬが花でしょうね。彼氏に知られたら卒倒ものだわ。だからわたしも言わない」

「僕は彼氏じゃありませんよ」

「どちらにしろ卒倒ものよ。知らない方がいい。あなただって同じ状況だったら言われたくないはずだから。――むしろこれからの展開だと……五付? あの子がいない方がお互い助かるかもね」

「……分かりました」

 そこまで言うなら仕方ない。

「それから、口調は適当に砕けていいわ。面倒なのと堅いのは嫌い」

「分かりました」

「……」

 戸波さんは無言で鼻を鳴らして、僕を教室内へと招きいれた。

『空き教室』は幾つかの机と椅子が出されているが、基本的には空きスペースだ。赤と緑が混じって鈍色になったリノリウムの床が、八割方を占めている。

 夕日が眩しい。窓の方に目をやると、

「どーも。ストーカーくん」

 窓際にあった椅子から、人影――『三姫さん』が立ち上がった。窓側に向いている左半身に夕日が当たり、セーラー服の上に羽織ったカーディガンの左袖を赤く濡らしている。両耳の上で束ねた髪のうち、左側も赤い。リボンも赤色だ。三年生だったらしい。

「あたしは岡佐倉三姫ね。岡は大岡越前の岡で、間違われやすいんだけど、サクラはチェリーブロッサムじゃなくて、佐藤さんの佐に倉庫とかの倉。で、三番目のお姫様。三女なのよ、あたし」

「えっと……分かりました、三姫さん。とりあえずストーカーくんはやめてください」

 流行っているのか、この手の名前の言い方。何故かきょとんとしている三姫さんに、僕は名乗る。

「僕は明馬春詠です。年が明けるの明け、動物の馬で、春を詠む、です。読むは読書じゃなくて、短歌を詠むとかの詠むです」

「ふむん。春を詠む、か。いい名前だねー」きょとん、をやめて、感心した風に言う三姫さんだった。「で、あっちが、揺唄ちゃん?」

「ええ、はい。……えっと、漢数字の五に、付着の付、揺らす、子守唄、です。ウタは口偏に貝ですね」

「知ってる知ってる。揺籠の妹でしょ?」

 ん? 揺籠さんを知っているのか。

「同じクラスよ」

 僕の疑問を読み取ったらしく、そう言って、胸のリボンをつまむ三姫さんだった。そりゃ確かに勿論だ。

「ほら、今度は節菜の番よ」

 僕らのやりとりを冷めた目線で見ていた戸波さんに、三姫さんが水を向けた。向けられた戸波さんは、

「そんな必要ないでしょう。わたしは戸波節菜、戸口の戸に海の波に節約する菜っ葉だなんて」

 至極冷徹な口調で応じた。

 何気にお茶目な人なのかもしれなかった。

 節約する菜っ葉は同じなんだ……。

「それより、そろそろ本題に入って欲しいわ」

 お茶目とはお世辞にも見えない視線を扉に向けたまま、戸波さんが言う。

「……。そうですね」

 三姫さんを一瞥して――彼女は邪気のない顔で、促すように首を傾げてみせた――僕は気を引き締める。三姫さんは多分、こちら側の人間、ということなのだろう。これから話す事項は、揺唄にだけ関係のない事だ。

「単刀直入に聞きます。今日、僕に何をしました?」

「何も」

 即答だった。

「何の話? 何をしましたなんて人聞きの悪い問いかけしないでくれる? わたしはあなたとは初対面だし何の接点もないし何のことか分からないし心当たりもないから人違いだと思うんだけれど。今朝は至って普通の朝で何事も無く起床し水浴びをして朝食を取り家を出て登校したまでよ。あなたが何者で誰なのか知らないけれど、わたしには関係のないことではないかしら」

 長答だった。

 どんな肺活量と滑舌してるんだこの人。

「ほほぅ。ですが……何の話、というのはこちらの台詞ですよ」

 だがしかし、ここではその長広舌が命取り。僕は怯まず問題点を指摘する。

「何故あなたは『朝の出来事』を話したんでしょうね? 僕は今日何をしましたかと聞いたはずですが」

「…………」

 チッ、と露骨に舌打ちする戸波さん。それは見様によっては生意気な口を利いている後輩君に対する宣戦布告だったのかもしれないが、見様によっては自分の失策への苛立ちとも取れなくないわけで。

「ちなみに僕の今朝の行動ですが……笑わないで聞いてくださいね。前日米を研がずにさっさと眠ってしまったせいで、悪夢にうなされて飛び起きて家事をし」息継ぎ。「寝不足のせいか体全体がとても重く、それからぼーっとする頭で二人分の弁当を詰めて母さんを送り出してから」息継ぎ。「昨夜のうちに回してあった洗濯機から洗濯物を取り出して、洗濯物を干し終えてから着替えて家を出ました」

 視界外から、母子家庭なんだ、という呟きが聞こえてきた。聞き慣れすぎて、もはやなんとも思わない単語だ。

「そして」

 戸波さんを示す形で掌を向け、一語一語に力を込めて、

「――あなたに心臓を刺されました。体が軽くなるおまけ付きで」

「フン……そうは見えないけれど、クスリはあなたの将来を奪うわ」

 不機嫌そうに瞳を細めて、戸波さんは言う。

「やめるなら今のうちよ。それとも素面で随分かっ飛んだ夢でも見た? あなたの言い分が本当なら、どうしてあなたは今ここで生きてるのよ。ここは天国かしら?」

「違うでしょうね」僕はクールに首を振る。左手を、胸に当てる。「残念ながら、そうじゃない。原理は分かりませんが、僕は確かに、心臓を貫かれていたはずなんです」

「そんな妄想には付き合ってられないわよ、ストーカー君。あなたやっぱりアブナイ人だわ。証拠でも持ってきてから言いなさい」

「そうですか……」

「ええ。分かったらさっさと行きなさい。彼女も迎えに行ってね。文芸部にでも入ってればいいわ。まだぎりぎり仮入部期間だったはずでしょ」

「仕方ありませんね。解りました。証拠、お見せします」

「……なんですって?」

 またここでも服を脱ぐのか……。まあ、仕方ないといえば仕方ないのか。このまましらを切り通されるよりは建設的だ。眉根を寄せる戸波さんの前で、僕は手早く学生服を脱いで、ワイシャツの前をはだけた。

 そこには無論、心臓部の傷。

 それを目にした二人の反応は、絶句だった。その内容は同じようなものだったはずだ。驚愕と疑惑が半々。軽い調子の三姫さんも、冷徹な雰囲気の戸波さんも、今ばかりは一様に表情を崩していて。

「これでどうですか。証拠になると思いますけれど」

 その事実が僕を少しばかり得意にさせる。

 戸波さんは答えず、今までにない大きな動作で三姫さんを見遣ってから、

「……仕方ないわね」

 砂利を噛むような表情で、大きな溜め息と共に、盛大なる不満を吐き出した。

「どうして今回ばかりこう厄介事が来たのかが分からないわ」

「僕のせいですね。お察しします」

「黙って頂戴」

 憎悪を込めて唾棄された。

 戸波さんはもう一度大きな溜め息をついて舌打ちしてから、す、と視線を僕の背後――入り口に向けた。僕が視線を追って振り向くと、足音が聞こえて、揺唄が戻ってきた。……聞こえたのか、足音が?

「どうも~。お話終わりました?」

「終わったわ」

 戸を開けて尋ねた揺唄に、戸波さんは即答した。抗議の声を上げようとした僕は、彼女の視線に押し留められる。その視線はそのまま三姫さんの方に滑る。

「じゃあね、お二人さん」

 と、三姫さんは腰掛けていた机からひょいと飛び降りた。

 戸波さんはすれ違い際、僕の傷の辺りを軽く突いて、

「珍しい他人の空似もあったものね。……それから、君。制服を直した方がいいと思うわ」

 二人は連れ立って帰っていった。

「…………」

 僕は左胸に手を当ててから、すぐに学生服を閉じる。これは随分とまあ、器用な手先だ。入り口で横に避けていた揺唄に向き直り、言う。

「じゃあ……帰るか、揺唄」

「あ、そう? じゃあ帰ろ。ところで、結局あの人たち、どうだったの?」

「外れだったよ」僕は首を振った。「どうなんだろうな……やっぱ夢でも見てたのかもしれない。悪かったな、手間取らせて。ていうかお前、どこ行ってたんだ?」

「あ、えっと、トイレよトイレ。ちょっとね。あは、ははは……」

 両手と首を振って揺唄は言った。

 帰り道で別れるまで、揺唄は妙なテンションだった。何があったんだか。



Intersect1.3

 目の前に立っていたのは、奇妙な紳士だった。

 全身真っ白な、高級そうなスーツ。被っている中折れ帽、ワイシャツ、ネクタイ、ローファー、果ては手袋までして両手も真っ白。白以外の色を探すとならば、かなり色白ではあるが顔、金色のタイピン、鳶色の瞳、帽子から覗いている黒髪、といったくらいだ。

 年の頃は三十周辺だろうか、瞳の色と相まってギリシア彫像のように整っていて、青年と呼べる容姿ではある。

「今……なんと言いましたか?」

 訝しげに男を質すのは、ジャケットを羽織り、眼鏡をかけた理知的な高校生。声はややこわばり、普段より堅く聞こえる。彼が夜の散歩に出て郊外まで来たところで、その謎の紳士は、忽然と道路の中央線上に現れたのだった。

 恭しく一礼をしたのちに、開口一番言った言葉を、男はもう一度繰り返す。

「あなたの〈耳〉を聞こえなくして差し上げる――そう申し上げたのだ」

 気負いのない、世間話でもするような声が風に流れてくる。

 広川千里はとにかく身構えたが、今後どう対処すべきかと決めあぐねていた。警察を呼ぶ。逃げる。無視する。しかし、この男……。

「判断しかねているようだな。無理もない。突如出現して〈耳〉を聞こえなくするなどと言われれば、当然そうもなろう」

 直立不動の姿勢を崩さぬままに、男は一つ頷く。それで理解を示したつもりなのだろうか、千里には分からなかった。ただ胡散臭さが増しただけだ。

 ――だが、その胡散臭さも、次の瞬間には吹き飛んでいた。

「では、こちらから歩み寄ろう」

 男が指を鳴らしたと同時に――

「な……馬鹿な」

 千里の〈耳〉から、〈音〉が消えた。

 あらゆる家庭内の談笑、喧嘩、相談、説得。歓楽街の怒号、罵声、喚声、闇取引。川沿いに数件あるホテルからの嬌声、睦言、痴話喧嘩。ビルオフィスからの商談、世辞、陰口、指図。塾帰りの学生達の溜息、文句、悲嘆、暗唱。混んできた飲食店に飛び交う注文、会話、要望、会計。

 それまで全て聞こえていた町中の声と言う声が、

 綺麗さっぱりと、千里の耳から拭い取られていた。

 涙が――無意識に涙が溢れる。

 これが聞こえ始めたのは、はたしていつからだっただろうか。聞こえないはずの声が聞こえ、聞きたくもない会話が耳に届き、苛立たしい喧騒や笑い声はひっきりなしに頭に響く。小学生の時分から卑猥な単語を幾つも幾つも知ってしまって、本来隠すべき人間の恥部を強制的に聞かされていた。

 いつしかその能力を呪うこともやめ、ただ聞こえるならば聞こえるままにしておこうと、半ば悟りに近い諦めの境地に達していた。それがいつのことだったのかも、もう正確なところは覚えていない。オールリピートを繰り返すMDプレイヤーのように、耳から離れない二十四時間ラジオのように、延々と耳に付きまとう千以上もの声。

 一つ一つに区別が付くそのなかに、無論、クラスメイトや知人の声もあった。誰も彼もが多かれ少なかれ裏表はある。誰かの前で白と言っていたものを他方では黒と言っているなど、日常茶飯事もいいところだ。相手によって違う態度、どれもが欺瞞でどれもが本心。

 ――こんなチカラを持っていることを、他人に相談したこともあった。無論、その彼彼女が他人に話していれば、その内容は聞こえる。その大半は嘲笑であり、たまにいる理解を示す人間も、その相手に言われた一言で簡単に意見を覆していた。

 そのなかでたった一人だけ、千里のこの〈耳〉を裏表なく信じた人間――それが、明馬春詠だった。

「わたくしの声は聞こえるだろうね」

「……」

「よろしい。では、試聴は終了だ」

 男が指を鳴らす。

「うぅ……っ」

 途端、津波のように戻ってきた大量の〈声〉。激しい頭痛が起こった錯覚すら覚えるほどの情報の奔流に、思わず唸り声を上げた。

〈地獄耳〉。

 春詠は、これに対してなんと言っていただろうか……。

「わたくしの力を持ってすれば、今ほどの状況を作り出すなど容易だ。きみは真っ当で平穏な人生を送ることが出来るのだよ」

「タダでは……ないんだろうな」

「無論だ。物分かりが良くて助かる。といっても、なに、そこまで非道なことも悪辣なこともさせない。頼みたいのはただ一つ――ただ一人の、人探しだ。《時神刹那》という人間を探して欲しいのだよ。きみの〈耳〉を持ってすれば、そう難しいことでもないと思うがね。どうだろう?」

「……」

「確かに。なにも即決する必要はない。わたくしは気が長いという自負はある。それに時間も持て余している。急ぐ話でもないゆえ……そうだな、処断したならば、この時間この場所に、いつでもお越しいただきたい。午後八時ちょうど」

 ベルトも文字盤も――おそらく針も真っ白な時計を見て、男は言った。

「では、お話は以上だ。こちらからはもう何もない。あなたからは?」

「あんたは――」

 敬語すら崩して、千里は訊ねる。

「あんたの目的はなんだ。あんたは何者だ。どうしてあんたの声は二重に聞こえなかった……!」

 二重。

 本来の生物学的な耳と、おそらく超精神・超身体的な〈耳〉。二つの耳の作用によって、本来ならば千里は人間の声が常に二重に聞こえるはずなのに。男の声は、そう聞こえない。普通の耳でしか聞こえない。単一なのだ。か細い声でしか聞こえない人間――それもまた春詠なのだが――は知っていても、そんな人間に、千里は出会ったことがなかった。

「演出的効果上、先に三つ目の質問に答えさせていただこう。わたくしは本来、物事の順序を大切にする性質なのだがね。否、したい性格というべきだろうか。可能な限り、ということだが」

 男は咳払いを入れる。

「それはわたくしが、あなたの〈耳〉の適用対象ではないからだ。きみの隔体知覚――きみの持つような超能力の類をわたくしどもは〈隔体知覚〉と呼んでいるのだが、きみのように〈隔体知覚〉をただ保持しているのみの場合は、わたくしどものような存在には効果を発揮しない場合が多い。心当たりはないだろうか?」

「……」

 千里は眉根を寄せる。

 春詠の言葉は……不明瞭な場合が多い。

「ふむ。心当たりがなくとも不思議なことではない」千里の表情をどう受け取ったか、男は見当違いな見立てをした。「わたくしどものような存在の方が、むしろ少数派だろう。超能力者は世に出るが、〈志術〉が世に出ることは稀だからな」

「〈志術〉……?」

「そう、〈志術〉。ではここで二つ目の質問に答えよう。わたくしは、その〈志術〉を悪用する集団に所属している。正式な名称はまだないが、こんな風に呼ばれているのだ――〈媒介師団〉とね」

 かくん。

 突然足から力が抜ける。

「最後に一つ目の答えだが――それは、《仲間集め》だよ」

 咄嗟に手を突いて即座に視線を上げたが、そこにはすでに人影は見当たらなかった。黒々とした顔を見せる水田に挟まれた道が、真っ直ぐに伸びているだけだ。

 千里の背筋に悪寒が走る。見えざる悪魔の手が、爪を立てて登っていったような悪寒だった。



Intersect1.3out.



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