1章 左手
◆一章・左手
1
朝から体が重かった。
暖かな五月晴れを先取りした四月のある日。春に入学した高校にもそろそろ慣れてきたところであり、風邪かなぁそれとも五月病かなぁなんて思いながらも、この程度で学校をサボる気にもなれず、というか僕はむしろこういう逆境だと変に気合いが入るので、母さんには大丈夫だよと言っておいて、熱も測らずに家を飛び出してきたのだった。近道をしようと人通りの少ない路地に入って――
それが、このざまだ。
「あ……えっと?」
心臓を一刺し。
不思議なほどに呼吸は穏やかだった。おそらく精確なまでの刺突で、心臓のみが傷つけられているからだろう。狂いなんて微塵もない、呆気に取られるほどに技術に長けた殺人だ。痛みもほとんどない。だからだろうか、実感もなくて、思考も意外に波風立っていない。
まあ――そこまででなければ、こんなもので人間は殺せない。
僕は自分の胸に生えている凶器を観察する。といっても、実はそれは刃物ではない。
かんざし、と呼ばれる物だった。
中学の修学旅行で京都に行ったときに舞妓さんが髪に刺していた、アレ。二本の鉄針が繋がっているだけというシンプルな造形なのに、華やかさと慎ましさが同居している装飾物。
今目の前にあるものには、環が二つ、揺れている。色は、鮮やかな唐紅。血を連想させる色。人を傷つけるような用途はないはずなのに。
それはしかし、僕の血の色というわけではないのだろう。かんざしは未だ、僕の心臓の傷に栓をしている。抜けば赤い噴水くらい出るはずだ。そしてその噴水は、目の前の人物を返り血で染める。
――目の前の人物。
そこに立っているのは、見慣れた制服の女子生徒。僕の通う高校の制服だ。リボンの色からして二年生。先輩だ。今際の際で視界がぼやけているけれど、背が高めだってことと、髪が長いってことだけは見て取れる。さぞかし綺麗な人みたいだと妄想して、少し残念に思った。
長い黒髪をふわりと広げる――ざわりと広げる、女の子。彼女が僕の下手人だ。紛うことなく。違うことなく。何故って、その右手は、今もかんざしを握っているのだから。光景だけ見れば、それは彼女が、僕の胸からかんざしを抜こうとしているように見えるかもしれない。まあそれでもトドメを刺したのは彼女ってことになるのだろうけれど。
けれど僕は見ているわけである。彼女が僕の胸に、躊躇いなく凶器を突き入れる瞬間を。
普段の僕だったとしたら、或いは避けきれた奇襲だったと仮定してみるのは勝手だ。けれど前述のように、僕は朝から体が重かった。おまけに、昨夜皿洗いと米研ぎを忘れていたせいで今朝五時に飛び起きたことから、寝不足でもあった。
まあ――仮定の話をしても仕方ない。するとしたら結局は、僕が本調子だったとしても彼女の奇襲は避け切れなかったという結果に落ち着くだろうから。
「なんの……誤用ですか」
「御用じゃなくて?」
「僕……殺されるようなこと、しましたっけ……」
「ああ。そういう意味の〝誤用〟か。面黒いね、悪くない」
ぶっきらぼうで気だるげな口調。わずかな感心が入り込んでいると感じるのは気のせいだろうか。それにしても、『面黒い』ってどういう意味だろう。
……って、あれ。どうして僕、普通に会話してるの、殺人犯と。
「それに免じて教えてあげるとね、」
彼女の口が裂けた。
気がした。
「――単に、殺しに来ただけなのよ」
やっぱり何の感情も込めずに言って、彼女はかんざしを引き抜いた。肉が引かれる感触が、僕の髄液を凍りつかせた。
眼球から血が抜けていくみたいにしかいがせばまっていく。
ごがつ。
ははのひ。
かーねーしょん。
よやくしてあったのに。
しぬなんてだれがおもうかよ。
Intersect1.1
「五付。春詠に電話か?」
十世高校の一年二組教室で、ある男子生徒が別の女子生徒に声を掛けた。
普段遅刻しないはずの友人の身を、彼は案じていた。携帯電話で連絡を入れようにも、彼は今時珍しく、そういった連絡手段を持たない男だった。かといって、こんなことを頼めるような友人は彼にはいなかった。結果として、彼の友人に日直としての責任を促すための電話を入れようとする女子生徒に、こう声を掛けなくてはいけなかったのだった。
「春詠が無事じゃなかったら、僕に教えてくれないか」
「? 何言ってんの、センリくん?」
「いや、なんとなくな……」
「なんなら、自分で話す?」
「いや……いい」
怪訝な表情の女子生徒に言葉を濁しながら、彼、広川千里は首もとに手をやる。制服のカラーに指を引っ掛けるのが、中学の頃からの彼の癖だった。時に自覚して、ときに無自覚に、ホック部分に人差し指を引っ掛ける。
春詠は、千里の数少ない――というか、ほとんど唯一と言ってもいい友人である。共に食事に行ったり、互いの家に遊びに行ったりするわけではないが、上から数えて最初に指を折る相手は、おそらく彼だろう。二本目以降を折る際には、その都度その都度、挙げた名前が本当に友人という概念に該当するか考えなくてはならない。千里にとって、春詠はそれだけ別格な存在だった。性格的な相性もあっただろうが、互いの〈何か〉、あるいは〈どこか〉に共感を覚えていたのもまた事実だった。
そんな存在が――殺されたような言い草が聞こえた。
それでも自分に出来ることは何もない。せいぜいで、安否を確認するくらいだ。長年で身についた諦観主義。
けれど一つ引っ掛かる――彼は、誰と話していたのか。
Intersect1.1out
『♪今はいいのさ全てを忘れて、独り残った傷ついたおれがこの戦場~で、あとに戻れば地獄に落ち~る~♪ シ――』
嗚呼悲しきかな、と僕は思う。悲しいけどこれって戦争なのよね、とも思う。自分ひとり残っても、引き返して待っているのは軍事裁判。戦争というのは、自分が生き残ればそれでいいんじゃないんだ。仲間をも生かして、それでこそ一人前の上官と言えるんだ――
「って違ぁぁう!」
制服の内ポケットから聞こえてくる渋い歌声に、僕は思わず飛び起きた。起床ノリツッコミ。
「多分戻っても軍事裁判待ってないし! そもそもなんでこの曲になっててこの曲が鳴ってるんだ、僕の着信はこれじゃない!」
被疑者はウチの親しかいない。また僕の着信設定変えやがったらしい。許可も取らずにこんなもの流しやがって。お叱り受けるぞ。懐で震えている携帯電話を取り出して、着信を確認せずすぐに出る。
それが間違いだった。
『へい、ハルちゃん!』
「ぐぁっ!」
大音響が僕の耳を貫いた。反射的にケータイを突き放す。空いている右手で耳を覆う。きーん。
『ちょっと? ハルやん、聞いてる? なぁによ、変な声出して』
耳から話しても充分に聞こえるきんきん声。クラスメイトのやかまし屋、五付揺唄だった。僕は口だけケータイに寄せる。無線機か。自分でツッコミ。
「聞いてるから。関西弁になるな。もうちょっと穏やかに喋れ、ちっこいの」
『ちっこいのって言うんじゃない! ハルちゃんだってちっこいでしょ! ってそうじゃなくて。それよりハルちゃん、どういうことよ。今何時だと思ってんの?』
「は? ……今何時?」
『二時間目始まるとこだよ。それにハルちゃん今日日直でしょー? ミキちゃんが一人で大変そうにしてるんだけど。いったい何があったのさ?』
「ああ、そ――」
言いかけて、止まる。
《寝坊? 寄り道? サボり? それとも痴漢に間違われたとか? もしかして逆におばあちゃん助けてた? やるぅ! それでこそ――》
思考が凍る。ある一点に。
胸に生えた唐紅のかんざし。後光のように広がった黒髪。心臓が貫かれる感覚、肉に穴が開く感触。僕は、確か、胸を刺されて死んだはずじゃ……?
「あ。え……?」
今更ながらに恐怖がこみ上げてくる。涙目になって、視界がぼやける。学生服の上から第二ボタン近く、傷口と思しき場所に触れる。痛くは、ない。
いったい――どういうことだ。
『? ねー、ハルちゃん? ちょっとホントに大丈夫?』
「あ……ああ、大丈夫だ。揺唄、学校行ったら少し相談ある。昼、大丈夫か?」
『ん? 別にいいけど。なに。またマンガでも貸して欲しいってコト? でも最近は……って、あ、そうそ、センリくんが心配してたよ』
「センリが?」
『なんだか不安そうにしてて、《春詠が無事じゃなかったら僕に伝えてくれ》って。んでハルちゃん、無事だよね、その様子だと』
「あ……ああ、そうだな。無事だ」
『なら良かった。一応伝えとくね。時間だから切るよ』
「ああ」
二文字で答えて、携帯電話を頬から放した。右手の人差し指で通話を終える。
そうだ……。
冷静に考えたら、僕が生きているはずがない。
無事であるはずがないんだ。
これでも運動神経は悪くないつもりだ。身体感覚にも自信はある。だから、心臓が貫かれたなんて感触を間違えるはずがない。そりゃあ、体験したことはないけれど。ないけれど――
「あの感触は……」
忘れようったって、忘れられない。
体内の肉が、凶器に引かれてずり出るときの、あの不快感。思い出すだけで鳥肌が立つ。あんな感触は、人生で二度目だ。安心するつもりで胸に左手を当てる。穴が開いているような感覚もない。痛みもないし、違和感もない。けれど、夢とも思えない。
ついでに最期の思考も思い出した。あんな状況でもあんなこと考えられるあたり、僕も大物なのかもしれない。大物のマザコン。……マザコン、ね。それは自他共に認めるところだ。もっとも、母一人子一人ではファザコンになんてなりようがないし。
「……行くか」
そう呟いて、膝を立てて立ち上がった。
「お?」
不意に気付く。
体が軽い。周囲に人がいないのを確かめて、試しに飛び跳ねてみる。本当に軽い。不思議だ。今朝の倦怠感が嘘のようだ。
本当、いったいなんなんだ……生き返って元気になるってそんな、ロープレの魔法じゃあるまいし。
少なくとも携帯電話が操作できたんだから、多分、幽霊というわけでもないだろうけど……、このまま学校に行ったら誰も気付いてくれなくて、夕方頃に僕の死亡が確認され、揺唄が『じゃああの電話はあの世からだったんだ!』とか言い始めてスピリチュアルな番組に出演したりとかするのかな。
「……くだらねぇ」
軽く首を振る。
「くだらねぇにもほどがある。十世高リボルバー七不思議をこれ以上増やしてたまるか」
とりあえず――現状確認。僕は心臓を刺された、けれど生きていて、しかも元気になっている。おーけい? おーけい。それにあの子……あの女子、うちの制服着てたよな。多分二年生で、とても長い黒髪。そして、唐紅のかんざし。あれをいつもしているとは考えられないが、ヒント程度にはなるはずだ。
左手を見る。一・二度握ったり開いたり。
彼女から、話を聞く必要がある。
いや、聞きたい。
もしかすると――もしかするとこれが、十年間求めてきた『謎』への手掛かり、足掛かり、第一歩になるかもしれない。降って湧いた幸運。万に二つ目のタイミング。
これを逃す手はないはずだ。
そう決意を固めて、僕は昇りかける太陽の下、学校へと向かった。
「バカでしょそれ」
僕の体験談を聞かせた揺唄の第一声は、それだった。
プラス、第一反応、大爆笑。
ああ。でも『爆笑』という単語の正しい使い方は、対象が複数人いて大きく笑っている状態のことを指すらしいので、この場合、単に《大笑》と表現すべきかもしれないが。
それにしても、相変わらず人間離れした黄色い声で高笑いしやがる揺唄だ。ばしばし机を叩くな。うるさい。
「じゃあ、な、なに? ハルちゃんてば、『ボクは生き返りました~』って報告するためだけにあたしを呼んだわけぇ?」
笑い涙を拭いつつ言う揺唄。長髪が小刻みに揺れる。
「愉快だ愉快だとは思ってたけど、そこまで愉快だとは思ってなかったよ。そんな、そんな『ボクは死にましぇ~ん』じゃあるまいし! あははっ、これだけでも早食いした甲斐あったかも」
――時間は昼休み。場所は人のいない多目的教室。
僕は揺唄に、朝の不思議体験を語って聞かせていた。十分休みじゃ落ち着いた話が出来ないので、昼に回したのである。
五付揺唄。
丸顔低身長、長い髪の先っぽをリボンで留めているこの女子は、友達付き合いとしては最外縁に位置する友人である。女友達、という括りで見れば、多分一番仲がいい奴だろう。
少々頼みごとがあって呼び出し、それに関連する今朝の事情を話したら、その反応がこれだ。さっきから弁明、釈明を重ねているにも関わらず、腹が捩れんばかりの大笑はそのつど輪をかける様に広がっていて、もうなんか、為すすべなしって感じ。
「いっそそのまま腹ァ捻れ死ね」
「おー。出たね黒馬。英語でブラックホース。ブラックハルちゃん」
「うるさいちくしょーなんだよなんだよヒトが深刻なカオして相談してるって言うのによぉ。僕ァぐれてしまうぜオイ」
「んなこと言われてもさぁ……」と揺唄の笑いに苦笑が交じる。「信じろって方が無理だよ、それ。あたしじゃなかったら、笑いすらしないよ? おクスリ疑われるか引かれるかのどっちかだよ」
「それは、まあ、そうだけど。……じゃあ、証拠とかあったらどうだよ」
「証拠!」と瞠目する揺唄。さらにあははははっという哄笑のおまけつき。「ハルちゃんてば自分が殺された証拠探すんだ? いくらなんでもシュール過ぎるよ」
駄目だこりゃ。
それにしても……「証拠、ねぇ」となんとなく胸に触れる。自分が殺された証拠なんて、そうだよな、そんなの……ん? ちょっと待てよ。そういえば。
「ひやあああっ! ちょ、ちょっとハルちゃん、なんで制服脱ぎだすの!」
「証拠。見せる」
「何故に片言っ!」
「服。脱ぐ。証拠。見せる」
「もっとカタコトーっ!?」
「大切なもの。見せる」
「響きが卑猥っ!」
「ジョークだよ。大体揺唄、男の裸なんて見慣れてるだろ。名前とは逆の」
「二次元と三次元は違――はッ! な、なんてこと言うのよっ! あ、あたしは別にそういうのじゃないっ!」
悪い汗をたらたら流しつつ抗議する揺唄。あーあ。なんとなく振ってみたら、導火線持って来ただけで自爆なさいましたよ、この口軽ムスメ。
相手を焦らせることで注意を逸らす策戦は成功した。その隙を利用する形で僕は制服を脱ぎ終え、まだ喚く彼女に背を向けてワイシャツも開く。ホストっぽく三つ目のボタンまではだけると、そこには――
「《証拠》、みっけ」
「だいたい少女マンガとかだと……へ?」
もしかしたら、とは思っていた。心象的確率では懐疑と希望が半々だった。そこになければ揺唄にはやっぱり夢だったよ白昼夢だったわゴメンね時間取らせてと頭を下げてジュースの一本でもおごってお引取り願うところだったが、どうやら、そんなことはしなくて済むらしい。ただでさえ財布の中身がピンチなんだから。
僕は振り向いて、「ほれ」とワイシャツを開く。自分を示すように、左親指をとん、とその場所に突きつける。
「これが、《証拠》」
僕の鳩尾。
その位置に、痛々しい傷痕があった。
サイズは小指の爪ほど。かんざしで貫かれたとしたら、充分な面積だろう。真皮に達する(いわゆる『肉が見えるほどの』)傷が治ったのと全く同じ様相で、そこだけ色が変わって、肉が盛り上がっていた。こんな傷、僕には心当たりがない。――そう、今朝の出来事以外は。
「ハルちゃんの体、そんなのあったっけ……?」
「なかった。僕の体に残ってる傷痕は、腕にあるのがほとんどだ」確か前に話題にしたはずだ。「こんな微妙な位置に傷跡はなかった」
「だよねぇ……」
揺唄は少々怯えを含んだ顔で頷く。それなりにショックを受けている模様だった。まあ、なんだかんだ言って女の子だからな。非常に忘れがちだが。傷痕なんて、見ていて気持ちいいものじゃないだろう。男だって気分が良いはずがないが。
「……。ところで揺唄」
「うん……なに?」
「お前どこ見てんの」
「えっ? ど、どこ、どこって?」
どうも視線を追うと、目標点の右上と左上にある一対の点をうろうろしているように見えたんだが。色と形には密かに自信あるが、そうまじまじ見られたいモノでもない。
「そそそりゃ、このキズに決まってるでしょ!」
「うひゃっ」
女の子特有の長い爪でつつくもんだから、くすぐったくて声を出してしまった。にやりと嗜虐趣味な笑みを浮かべる揺唄。そして更に突いてくる。
「んー? くすぐったいのかい、くのくのぉ。あたしを辱しめた報いだ、たぁんと受けてもらわないとねぇ」
「調子ん乗んな」
「いてっ」
丸顔のてっぺんを軽く叩いてみた。あと《辱めた》とか言うな。誰かに聞かれたらどうする。互いにやばいぞ。
「ちょっとハルちゃん、女の子をぶつなんてどういう了見よ!」
「ぶつって言うな」殴ったみたいだ。
「意味は一緒! そもそも女というものはねぇ――」
と、揺唄はきんきん声で高説をのたまわり始めた。犬の遠吠えと女性の高説は聞き流すが吉。母さんから学び取ったことの一つである。
そして数分。
「いーい? 分かった?」
「はいーはい。こーさんです」
僕は両手を上げた。揺唄は、悪役よろしく足を組んで《だんっ》と机の上に乗っけ、ふんぞり返って、「で、何の話だったかしら、ハル」と女王様気取りで命じた。かなりレアな態度だった。相変わらず愉快なやつ。
スカート丈は一年生だから落ち着いているけれど、今は際どいところまで素肌を露出している。揺唄はいわゆるトランジスタグラマーとかいうらしいやつなので(そんな歌があったなぁ)、まあ、それなりに眩しい光景ではある。
「…………」
ワイシャツを閉じて、学生服もラフに羽織る。女子の短いスカートって、見てるこっちが寒くなるよね。
「で、だ」
空気をリセットするつもりで、声に重みを込める。
「ともかく、これで僕の話、信じてもらえただろうか」
揺唄は脚を下ろして(ようやく自分の太股に気付いたらしい)、身を乗り出した。そして神妙な顔で頷く。
「本題はここからなんだよ。実は、揺唄に頼みたいことがある。そのための《相談》なんだから」
「で、それって――なに?」
「謎の彼女を探すこと」
タメも演出もなく、僕は即答した。
「全ての鍵は、絶対に彼女が握っているはずなんだ。だから、彼女に話を聞きたい。別に捕まえてどうにかしようってわけじゃないけど、せめて事情くらいは聞きたいんだ。どうして僕にこんなことしたのか、僕はどうなったのか、ね」
「だーからあたしがお呼びなわけね」
「そういうことだ」
――そう。この揺唄は、なかなかに顔が広い。人当たりがいいというか、如才がないというか、とにかく色んなところに知り合いを持っている。それに揺籠さんという姉がいるため、人脈は上の学年にも伸びているのだ。人付き合いを面倒臭がる僕とは大違い。
「じゃあ……ごめんだけど、その先輩さんの特徴、もう一回お願い」
僕は頷いて、再び記憶を整理する。
おそらくここの学校の二年生。
女子にしては高めの身長。
綺麗な黒髪は多分、腰まで届くだろう長さ。
感情のこもっていない声音。
そして――唐紅のかんざし。
「ふむむ。了解だわ」思慮深げなポーズを取りながら、揺唄。「えっと、その髪、多分あたしより長いってことだよね」
「と思う」
後光かマントかと思うほどに広がっていたのだから、髪の長さはおそらく揺唄以上だ。こいつの髪は長く見えるが、そのじつ身長が低い。相対的には同じくらいに見えても、長さは幾分違うだろう。
「うん。だとしたら、結構絞れるかも」
「そうか。助かる」
僕は揺唄に向かって、軽く頭を下げた。気付けば、左手を無意識に握っていた。意識的に、開く。
視線を上げると、
「……なんだ、その手」
揺唄が右手を出してきていた。掌を上にして。
えっと……。
「報酬ちょーだい」
「……………………」
「丁度財布がぴんちなのよ」
それからしばらく繰り広げられた賃金闘争により、僕の財布から英世さんが一人誘拐された。
彼はきっともう見つからないだろう。
では、彼の功績を称えて。
乾杯。
「乾杯だ……」
昼休みの教室は、普通、それなりに閑散としている。が、今日はどうやら数人の男子が腕相撲しているらしく、今の声は負けた男子が発したものらしい。時々流行るんだよな、腕相撲。男子のサガとでも言うべきか。
……。ということは、さっきのは『乾杯』じゃなくて『完敗』が正しいみたいだな。
というわけでもう一度やり直し。
『完敗だ……』
揺唄とは多目的教室で別れて自教室(一年二組)に戻ると、がっくりとした様子のそんな声が聞こえてきました、と。なかなかの激戦だったようで、彼の顔は真っ赤になっていた。周囲にいた男子連中からどよめきが起こっている。
机を挟んで反対側にいるのは、
「いやいや、お前も強かったぜ?」
腕っ節なら学年一と謳われる(誰が謳ったんだか)、飯出だった。高校生とは思えないくらいにガタイのいい体を持つ、男臭い男の中の男だ。ラグビー部に入るとか言ってたので、益々男臭い男の中の男という形容が適ってきたところ。
すると、ん、と飯出が僕に気付いた。
「おう、明馬じゃねえか。待ってたんだよ」
「…………」
っちゃあ……。逃げ損ねた。そんなヒマはなかったけど逃げ損ねた。ていうかタイミング悪かった。
「なに上見てんだよ。こっち来い。またやろうぜ」
「またかよ……おれ、いい加減疲れるんだけど」
「いいからこっち来い。オレはお前とやらないと気が済まねえんだ」
手招きされて、やんややんやとはやし立てるギャラリーをなるべく意識せず、僕は渋々椅子に座る。
「右? 左?」
「左に決まってんだろ」と飯出。言われた通りに左手を組み合わせる。肉厚で暑苦しい、グローブみたいな飯出の左手が、僕の左手を包む。
高校に入って早々、僕はある出来事から飯出に目をつけられた。それが腕相撲である。一度やって、手応えがあったとかなんとかで、それ以来ことあるごとに対戦を申し込まれている。
「……」
僕は一瞬目を閉じて、左手に精神を集中させる。
組んだ手の上にレフェリー係が手を置いて、
「レディー……、ゴォ!」
ぐぅっ! と一気に決めに来る飯出。互いの手が、握力で鬱血して白くなる。筋力のぶつかり合いで、腕がぶるぶると震える。歯を食い縛り、机の下の左足も踏んばる。
「うぐ……くぅ!」
「――っ!」
僕は声にならない声を上げる。
――全部、そんなフリだが。
当初は毎度毎度全力でやっていた僕だったが、それにも次第に疲れてきた。しかし手を抜くとやっぱり付きまとわれるので、どうするかと思案した結果、腕相撲で苦戦するフリというすんげぇ無意味な特技を身に着けることにしたのだった。本当は飯出の手を強く握っているくらいで、他の筋肉にほとんど力は入れていない。
それでも飯出は顔を真っ赤にして全力を出しているので、面白いを通り越して、ちょっと申し訳なくなる。フェアプレイの精神にも反するし。かといって、今更フェアプレイをしてしまうと、「本気でやれ」の叱責が来てしまうのだよなぁ……。本当、最初にあんなことしなきゃ良かったよ。ただの遊びのつもりだったからなぁ。
そろそろいいだろう、と僕は踏んで、
「うぅ、うおっ……」
演技と共に、左手への精神集中をゆっくりと解いていった。僕の左手の傾きはじわじわと劣勢へと沈み込み……、
「うおらぁ!」
飯出の気合と共に、僕は肩ごと左へ倒れこんだ。勝利の雄叫びと共に、飯出はガッツポーズ。
そこへ、
「うおおーすげーっ!」
「なんて試合なんだ!」
「ワンダホゥ!」
「明馬ってマジでここまでやんのな」
「いいバトルだったぜ!」
ピューイ! ピュ、ピューイ!
……等々、ギャラリーが囃し立てる。ちなみに最後のは指笛だ。このクラスで指笛が出来るのは衣笠しかいないから、きっと奴だろう。
僕は左手をいたわるように揉みほぐし、ぷらぷらさせる。この辺のアフターケアも大事だ。
「だから言ってるだろ? おれは飯出には敵わんって」
「まあそう言うなよ。いい勝負してんだから。またやろうぜ」
そう言って僕をどついて、飯出は自分のクラス(一年一組)へ帰っていった。悪気は無いが乱暴者。僕とは少々反りの合わないタイプだったりする。
予鈴が鳴った。出払っている人たちが帰ってくるだろう。
「しかしよー、ハル」と衣笠が不思議そうに言った。「お前、背とか低いじゃんか。体重もないだろ。なのになんであんな力あるんだよ?」
周囲もうんうんと頷いている。
その問いに僕はいつも、適当なことをでっち上げて答えを濁す。「――つうわけ。みんなもそのうちやってみろよ」などと締め括って、説明タイムは終わりだ。不満半分疑い半分で、クラスメイトたちは自分の席へ散っていく。
そのとき背後から、二次方程式を連想させる声が聞こえた。
「相変わらずだね」
「おう、センリか」
振り返ってみれば、そこにいたのは広川千里だった。
長めの髪に銀縁眼鏡。物腰や振る舞いはおとなしそうな人間なんだが、悲しいかな、この男には『電波』で『変人』という特性がある。そんなんだから、頭はいいが友達は少ない。ま、害があるわけでもない、基本的にはいい奴である。
「相変わらずだね」
と、センリは繰り返した。その声は、適度な柔らかさを持ちながら整合性と論理性を併せ持っていて、僕はなんとなく二次方程式のグラフを連想させられるのだ。
「相変わらず見事なものだ。どう見ても非科学的としか言いようのない勝ち方をしている。むしろ不科学的、と言うべきなのかな。明らかに春詠は力を抜いているにも関わらず、腕は微動だにしていない」
「まあな」
「ときに春詠。君、本当に体はなんともないのかい? 殺されたり殺したりはしていないだろうね?」
「だからするわけないだろって。どんな異世界だよ、それ。また電波ですか?」
「まあ、そんなところだ」
などと頷くセンリは、妙に勘が良いところがある。こいつには僕のパフォーマンスは通用しないし、僕に今朝何かがあったということも、どうやら微妙に悟っているようだ。以前その理由を聞いたとき、冗談めかして「地獄耳なんだよ」とうそぶいていたが、最近その単語は聞かない。続いて地獄耳の〈地獄〉の意味を語るのが、センリの以前の口癖だった。内容は……覚えていないが。
まあ、大丈夫ならいいんだ、とセンリは首を振った。
「妙なことを言ったな。授業が始まる、そろそろ席につこう」