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帰送シリーズ  作者: 流浪
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『師事(上)』

 大学生活が始まって一か月が過ぎた頃、俺は不思議な体験をした。

 旧講義棟の裏にある坂を下り、林へ入る小道。深夜、そこに「列」が現れるという噂。その真相を確かめに行った。そこで俺は列の中に引きずり込まれそうになったのだ。

 結果だけ言えば、助かった。

 同じ大学の先輩に、ぎりぎりのところで引き戻されたのだ。


 自分の胆力がどれほど頼りないかを思い知らされた。

 「靴、ちゃんと清めて」

 それだけ言い残して、先輩は去った。

 それから俺は、何でもない日常に戻ってきた――はずだった。

 授業に出て、学食で安い定食を食べて、購買でノートを買って、帰り道に自販機の缶コーヒーを飲む。構内にはまだ新入生勧誘の看板が残っていて、色ペンで書かれた文字が風にばたばた揺れている。四月が終わり、空気が少しだけ湿り始めていた。夕方になると土の匂いが濃くなり、校舎のコンクリートから昼の熱が抜けきらず、薄い汗が背中に貼りつく。

 それでも俺は、なるべく考えないようにしていた。

 考えると、戻ってきてしまう気がした。

 あの夜の、焦げと湿り気が混ざった息苦しさ。靴底が柔らかい土に沈む感触。腕を掴まれたときの指の圧。

 日常の奥に押し込み、蓋をして――そうして二週間ほどが過ぎた。

 靴は新調した。

 あの夜に汚れたほうは塩水で洗って乾かし、それでも気が済まなくて近くの寺まで持って行った。寺の石段は雨上がりで黒く、苔が湿って光っている。玄関先に立つだけで線香の匂いが鼻に刺さった。

 事情を説明すると、住職は露骨に嫌そうな顔をした。

 視線が靴底に吸い寄せられて、すぐに逸れた。

 「……預かります」

 声は低くて、事務的だった。

 それで終わりだ。そういうことにして、俺は帰った。

 不思議なことに、あれだけ学食で飛び交っていた噂も、ぱたりと聞かなくなった。

 人の噂も何とやら。危険な話は、忘れられるのがいちばんいい――頭ではそう思う。

 なのに、胸のどこかが妙に落ち着かなかった。

 その落ち着かなさの正体に気づいたのは、一週間を過ぎたあたりからだ。

 先輩の姿を、まったく見かけない。

 旧講義棟から少し離れた、植え込みの奥。風が通りにくくて、時間の流れが遅い場所。昼休みのベンチ。

 そこを通るたびに、俺は「助かった」という感覚と、そのあと先輩と交わした少しの会話の温度を思い出してしまう。

 言葉は少ないのに、言い切る。迷いがない。

 そして何より、美しい人だった。

 講義棟の廊下。サークル棟の階段。図書館の入口。喫煙所の脇。

 学内のどこを見ても、白いマフラーの端は揺れていない。

 「気にしすぎだ」

 俺は自分にそう言い聞かせた。あの夜が異常だったせいで、先輩の存在まで大きく見えているだけだ、と。

 ――それでも。

 掲示板の前で立ち止まったときだった。

 ガラスに反射した廊下の端が、ほんの一瞬だけ黒く沈んだ気がした。

 袖でも、影でもない。

 そう思った瞬間にはもう、普通の廊下に戻っていた。

 目で追っても遅い。

 最初から、見せるつもりがないみたいに。

 結局、俺は動いた。

 確かめないと気が済まない性分だったのだ。

 昼休みの学内は相変わらず騒がしい。文化系サークル、体育会系サークルの勧誘看板が雨後の筍みたいに乱立し、通路の端から端まで色紙と段ボールの匂いがする。呼び込みの声が重なり、言葉の中身だけが溶けて、音の塊になる。

 サークル棟の前で、俺は見知らぬ先輩たちの会話を拾った。

 「最近、『白い天使』見ないな」

 「白い天使?」

 「ほら、白いマフラーの……無表情の人。変な噂の」

 「ああ、あの人な。夜にキャンパスに出没するとか言われてる」

 白い。無表情。

 胸の奥がざわついた。

 俺は勇気を出して声をかけた。

 「あの、すみません。『白い天使』って……白百合先輩のことですか? 」

 男が俺を見て、少しだけ眉を上げた。新入生だと分かったのだろう。顔が「面倒だけど教えてやるか」という形になる。

 「そう。白百合先輩。綺麗で、無表情で、近寄りがたいだろ。だから白い天使」

 笑いながら言う。

 けれど言葉の選び方が妙に丁寧だった。からかいというより、距離の取り方だ。

 俺が「探している」と言うと、空気がわずかに変わった。面白がりが引っ込み、代わりに遠巻きの興味が出てくる。

 「このところ見てないんだよな」

 「もともとそんなに見かける人じゃないけど」

 「変な噂ばっかだし。探偵やってるとか、旧棟に夜中出るとか」

 「触れないで物動かす、ってのも聞いたことあるぞ」

 「それはさすがに盛りすぎだろ」

 笑い声が出る。軽い。

 ただ、その下に「触れたくない」という気配があった。

 俺はそのあとも何人かに聞いて回った。返ってくるのは、どれも噂だった。見た、らしい。聞いた、らしい。そうらしい、ばかりだ。

 総じて白百合先輩は「変人」扱いされていることだけが、やけに確かだった。

 ただ、その中でひとつだけ、先輩にたどり着けそうな糸口が出た。

 「昔、仲よかった人なら知ってるかも」

 そう言われて紹介されたのが、小川先輩だった。柔らかい口調の女性で、小柄な人だった。

 学食の外、風の通る自販機の横で、俺は頭を下げた。

 「白百合先輩のこと、ご存じですか」

 「ああ、歩夢のこと? 知ってるよ。仲よかった時期もあった」

 名前を呼ぶ距離。

 その一言だけで、二人の間柄が分かった。

 小川先輩は缶コーヒーのプルタブを開け、甘い匂いを漂わせながら言った。

 「一回生のころはよく遊びにも行ってたね。ご飯とか、雑貨屋とか。あの子、無表情だけど案外ノリ悪くないんだよ」

 「……今は、どうなんですか」

 「秋くらいからかな。交流が途切れ途切れになっていった。忙しいのもあったと思うけど」

 小川先輩は、少しだけ眉を寄せた。

 「なんていうか……変わった気がする。少しずつ。最初からちょっと変わった子だったけど、今みたいな感じじゃなかった」

 「変わった、って……」

 「うまく言えないけど、変なものを見るみたい。幽霊っていうのかな。悪い子じゃないんだけどね。でも、そういう話って聞くと怖いでしょ? 」

 それ以上は小川先輩にも分からないらしかった。本人が話さなくなり、それっきり。

 「……どこにいるか、心当たりは」

 「引っ越してなければ、この辺に住んでたよ」

 メモ用紙に、駅から少し外れた地区名を書いて渡してくれた。紙は薄く、シャーペンの跡が裏に透けている。俺はそれをポケットに入れた。

 「動物ショップ、好きだったな。あと古着屋。カフェも。……ひとりでぼーっとするのが好きだったよ」

 「ありがとうございます」

 頭を下げると、掌に残った缶の熱がやけに心細かった。

 その日の午後、四限目が終わったところで俺は大学を出た。

 駅前には安いチェーン店が並び、古い商店街の匂いと混ざる。焼き鳥の煙、クリーニング屋の溶剤、パン屋の甘い匂いが、風向きで入れ替わる。

 小川先輩から聞いた店を、ひとつずつ当たった。

 動物ショップはガラス越しに温い空気がこもり、木屑と餌の匂いが濃かった。ケージの中でハムスターが回し車を回している。

 古着屋は、柔軟剤と古い布が混じった匂いがした。ラックの間を歩くと、袖が腕に触れてひやりとする。

 カフェも見つけた。落ち着いた外観で、ガラス越しにオレンジ色の照明が見える。中からコーヒーの香りが漏れてくる。けれど先輩はいない。

 俺は店の前で立ち尽くし、ようやく現状に気づいた。

 何をしているんだ、俺は。

 礼を言いそびれた。それだけのはずだ。なのに、町を歩いて探している。――ストーカーみたいじゃないか。

 笑えなかった。

 気がつくと、人通りの少ない道に入り込んでいた。

 住宅の裏手。車が一台通れるかどうかの幅。アスファルトの継ぎ目から草が生えている。遠くの国道の音だけが薄く聞こえ、近くの生活音がやけに少ない。

 そこで、祠を見つけた。

 コンクリートブロックの上に乗った小さな木の箱。屋根の板が少し反り、鈴の代わりに古い縄が垂れている。供え物はない。けれど周りの土だけが妙に固く踏まれていた。誰かが時々ここに来ている。

 祠の前に立った瞬間、湿った土の匂いが鼻の奥に差し込んだ。水気を含んだ石の匂いもする。

 風が止まり、耳が静かになる。

 そのとき、視界の端で――黒いものが、すっと落ちた。

 俺は追わなかった。

 追えば消える。そんな気がした。理由はない。ただ、そう感じた。

 代わりに、祖父のことを思い出した。

 ド田舎にある実家の裏山にも、同じような祠があった。子供のころ、祖父に連れられて盆の前に草を刈りに行った。鎌の金属音、草の青い匂い、汗が乾いて塩になる感覚。祖父は腰を叩きながら、祠の前でいつも手を合わせた。

 「こういうとこはな、家や。見えんもんの家。人の家に入る前は、挨拶するやろ」

 祖父は笑いながら、そんなことを言った。

 「夜に道で、知らん手が出てきても、握ったらあかんぞ。握手は人間の約束や。約束したら、連れていかれる」

 当時は分からなかった。

 けれど今は、笑えない。

 俺は財布から十円玉を探した。指先がもたつく。小銭は冷たくて、金属の匂いが指に移る。賽銭箱の代わりみたいな器にそっと入れると、薄い音がした。鳴ったのか鳴っていないのか分からない音だ。

 祠の前で、俺は自分の手を見た。指先が少し震えている。冷えているのか、怖いのか、自分でも判然としない。

 それでも手を合わせた。

 掌が触れた瞬間、自分の体温がかえって気持ち悪かった。指の間に汗が薄く滲む。そのぬるさが、今の俺を現実につなぎとめているようだった。

 「よろしくお願いします」

 何をよろしくなのか、自分でも分からない。ただ、口から出た。

 祠は何も答えない。風が木の葉を揺らして、かさ、と乾いた音がした。遠くで犬が鳴いた。

 世界が薄い膜で隔てられた感じはしない。ここは日常だ。

 けれど日常の縁が、どこか欠けている。


 夕方の空がくすみ、街灯がひとつずつ点き始めた。祠の影が長く伸びて、足元のアスファルトを黒く舐める。

 俺はもう一度だけ祠を見て、歩き出した。

 どこにいるかは分からない。それでも、会わなければならない気がした。


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