『トンネル』
「なぜ、霊はトンネルを好むのか? 」
師匠が、そう呟いた。
俺はその問いに答えられず、首を傾げた。霊が何を好むのかなんて、考えたことがない。けれど「トンネル」と聞いた瞬間、ひとつ思い出した噂があった。
大学一回生の冬だった。
吐く息が白くて、缶コーヒーの金属が指先の熱を奪っていく。学食の隅は暖房が弱く、窓際の冷気が床を這っていた。
「幽霊がトンネルを好む理由は分からないです。でも……トンネルの噂なら、この前聞きました」
師匠は、こちらに顔を向けないまま、聞く姿勢だけを取った。表情は動かない。缶のプルタブを小さく鳴らし、飲むでもなく、ただ音だけを立てる。
「旧道のほうに、古いトンネルがあるらしくて。出る、っていうより……声が聞こえるそうです」
「声」
師匠の反応は薄い。珍しくない、ということだろう。
「呼びかけると返事が返ってくるって。反響じゃなくて、会話みたいに……って」
怪談としてはまだ薄い。だが、噂には妙な禁則がもうひとつ付いていた。
「それと……トンネルの中では、一時停止しちゃいけないらしいです」
師匠の視線が、ほんの少しだけこちらへ寄った気がした。顔は相変わらず無表情のまま。
「止まると? 」
「返事が近づいてくる、って。声の距離が……変わるって言ってました」
師匠はうなずきもしない。否定もしない。ただ、その言葉を頭の中で並べ替えているみたいな沈黙があった。
そして、唐突に言う。
「行く? 」
俺の喉の奥が乾いた。けれど迷いはなかった。
「もちろん、行きます」
*
師匠の車は軽四だった。年式は新しくない。内装のプラスチックが少し色褪せていて、ドアを閉める音が軽い。助手席の足元に、折り目だらけの地図帳が突っ込まれている。ナビなんて便利なものはない時代だ。知らない道は、それだけで不安が増える。
エンジンをかけると、車体が小さく震えた。ヒーターが唸り、温風が出るまでの間、冷たい空気が足首を舐める。
師匠は迷いなくクラッチを踏み、ギアを入れた。足さばきが正確で、必要なところに必要なだけ動く。
暗い道へ出ると、街灯が減った。闇が増えるぶん、視界に「見えない部分」が増える。そこに勝手な想像が入り込むのを、俺は止められなかった。
そんな中で、師匠が言った。
「トンネルは、歴史がついて回る」
「歴史? 」
「昔は峠を越えるしかなかった。峠は境だった。村と村の境、山の外と中の境。だから祠が置かれる。道祖神とか、馬頭観音とか。通るたび手を合わせる人がいたのは、怖さの名残でもある」
淡々とした口調が、逆に重い。
「でも隧道は、境そのものに穴を開けた。山の腹に、通るための穴を作った。便利になったぶん、境界は雑に扱われる」
便利、という単語が嫌に響いた。便利さが怖さを連れてくることを、俺はもう知り始めていた。
「古い隧道は、人が掘る。機械だけじゃない。掘る人がいて、そこで亡くなる人も出る。崩落、ガス、水……。そういうものが“記録”にならない時代は特にね。新聞に載るのは事故。残るのは噂」
師匠は一拍置いて、俺が口にした禁則へ戻った。
「一時停止しちゃいけない、っていうのは面白い」
「面白いって……」
「トンネルは通過するための場所。通ることが前提で作られてる。そこに止まるっていうのは、役割上の矛盾だ。『通る』という行為が『居る』になる」
師匠は理屈を語るとき、言葉を短く切る。
短く、短く。
区切られるたびに、逃げ道が削れていくような気がした。
「返事が返ってくる、って噂も……」
俺が言うと、師匠は前を見たまま答えた。
「音が返るのは物理。でも『返事』って言い方はそうじゃない。返事は相手がいる前提。呼ぶ、返す……会話になる。その瞬間、立場が固定される」
「立場……」
「呼ぶ側と呼ばれる側。外と内。入口と出口。そういう二項が決まる」
師匠は小さく息を吐いた。
「止まるな、って禁則はね。固定した立場を、さらに固めるなってことかもしれない」
前方の暗さが濃くなっていく。木々は影になり、その影が壁になる。
師匠が言った。
「着いた」
*
トンネルは短かった。長大じゃない。だからこそ生活圏の延長に見える。入口の照明は弱く、黄色い光がコンクリートの汚れを浮かせていた。壁には水が染みた筋があり、そこだけ黒ずんでいる。
中を覗くと、穴の暗さがこちらへ押し返してくる。湿った空気が沈み、喉の奥に重たく触れる。水の底に潜る前の、あの息苦しさに似ていた。
俺は噂を思い出してしまう。
止まるな。
トンネルの中では一時停止するな。
師匠は速度を落とし、そのまま入口へ入った。灯りが等間隔に並び、黄色い光がフロントガラスを流れていく。外は空の暗さで、ここは穴の暗さだ。暗さの質が違う。
そして――師匠は、トンネルの真ん中あたりで車を止めた。
エンジンの振動だけが残る。
止まった、と思った瞬間に耳が詰まった。外の音が薄くなる。自分の呼吸だけがやけに大きい。排気の匂いが動かず、車内に溜まる。
「……師匠」
師匠は答えず、ただ言った。
「確かめたいことがある」
それだけだった。
師匠は左右の窓のスイッチに指を置いた。ウィンドウが下がる。外気が一気に流れ込み、冷たさと湿気が同時に頬を撫でた。濡れたコンクリートと、冷えた水と、古い排気の匂いが直接喉に触れる。
師匠が言った。
「何かしゃべってみて」
噂の通りなら、いまがいちばん危ない。止まって、窓を開けて、声を出す。禁則を重ねる。
俺は喉を鳴らして、暗がりへ声を投げた。
「……おーい」
声が吸い込まれる。湿った空気が喉に貼りつく。
少し遅れて、返ってきた。
「……お……い……」
ざらついた雑音が混じっている。言葉の輪郭だけが削れて、意味が残る。反響とも返事とも判断がつかない音だった。
師匠は窓の外を見たまま、もう一度促した。
「もう一回」
嫌だった。嫌なのに、声が出た。
「聞こえますか? 」
返事はすぐには来なかった。
空白がある。空白の間に、何かが間合いを詰めている気がする。見えないものが言葉を選んでいるみたいに。
「……き……こ……え……る……」
割れた音だ。けれど――俺の言葉に応じている。そう分かってしまった。
そして、距離が変わった。
さっきはトンネルの奥から戻ってきた気がしたのに、今度はこの辺りで声が鳴ったみたいに聞こえる。
背中が冷えた。
窓から入ってくる空気が、急に湿った布みたいに頬に貼りつく。
「……師匠、近づいてきてます」
師匠は返事をしない。顔が止まったまま、耳だけで聞いている。
「続けて」
その平坦さが、逆に怖かった。
俺は最低限の言葉だけを出した。
「誰ですか? 」
返ってきた。
「……だ……れ……」
人ではない何かが、人を真似しているみたいな声。
それが今度は、窓のすぐ外――真横から聞こえた。
壁を伝ってくる声じゃない。空気の中に、何かがいる。
そう理解した瞬間、俺は反射で身を引いた。肩がシートに当たる。
その時、師匠が言った。
「つかまって」
短い命令だった。
俺は助手席の取っ手を掴んだ。プラスチックが冷たく、指先が軋んだ。
師匠は左右の窓を一気に上げた。ガラスが上がる途中、外の湿気がまだ車内に残っているのに、外の音だけが削られていく。音が消えるほど、気配の近さだけが残った。
窓が完全に閉まった、その刹那。
ドアのすぐ向こうから声がした。ノイズがない。息づかいだけが生々しい。
「……こ……こ……」
次の瞬間、無数の何かがドアやサイドガラスやフロントガラスを叩き出した。
最初は雨粒みたいに軽い音だった。
すぐに数が増える。場所が増える。音が重なる。乾いた叩打と、湿った擦過が一緒に来る。ガラスが細かく震え、車体が小さく揺れた。
叩かれた場所が、曇りの中で丸く透明になる。
手形だった。大小様々な手形。指の長いもの、短いもの、掌が丸いもの、細いもの。泥土の色が混じっている。湿った土の黒、乾いた砂の茶。
俺はバックするべきだと思った。入口へ戻る。境界から離れる。
けれど師匠は、ためらいもなくアクセルを踏み込んでいた。
軽四のエンジンが甲高く唸り、車が前へ跳ねた。トンネルの奥へ突っ込む。穴の中へ、さらに深く。
叩く音が増す。
ドアも、窓も、フロントガラスも、同時に“触られている”。ワイパーが一度だけ動き、泥が薄く伸びた。手形が崩れるのに、次の瞬間には別の場所に新しい手形が増える。減らない。
灯りが流れていく。黄色い光が、車内の影を一定のテンポで切り替える。
そのテンポに合わせて、叩く気配の間合いも変わる。近い。遠い。近い。遠い。
距離感を、玩具みたいに弄ばれている。
出口が見えた。
外の暗さが、空の暗さとしてそこにある。
抜ける――その瞬間。
耳元で、一番はっきりとした子供みたいな声が言った。
「どこいくの? 」
右耳のすぐ横。息が当たる距離だった。
鮮明すぎる声だった。ノイズがないぶん、人の形をしているようで、気持ちが悪い。
車がトンネルを抜け、叩く音が止まった。
止まった瞬間、世界の音が戻った。風の音、遠くの車の音、自分の呼吸。
俺はようやく息を吐いた。車内は温かい。温かいのに、手のひらだけが冷たい。
安堵が遅れて胸に落ちてきて、そのせいで胃がむかついた。
俺は震える指でフロントガラスを見た。
手形が残っていた。泥土が貼りつき、乾きはじめている。外側から押し付けられた跡だ。
――でも、ひとつだけ違った。
ガラスの内側。暖房で薄く曇った面に、指の跡が浮いている。外の泥とは別の、乾いた白さで。まるで、内側からゆっくり押し当てて、そのまま離したみたいに。
師匠が、黙ってそれを見た。
瞬きが少ない。視線の焦点がぶれない。運転席の横顔は相変わらず平らなのに、目だけが妙に生き生きとして見えた。
師匠は車を路肩に寄せ、短く停めた。
そしてフロントガラスの内側――その指の跡を、指でなぞった。
キュ、と乾いた音がして、曇りの膜が一本だけ剥がれる。指の通ったところだけ透明になる。その線が、まるで“中にいるもの”の輪郭を確かめるための印みたいで、背中が粟立った。
師匠が、ぽつりと言った。
「そうか。なんでトンネルなのかが分かった」
俺は息を呑んだ。
「何だったんですか? 」
俺が聞くと、師匠はちらりとだけこちらを見た。口元をほんの少しだけ緩める。笑っているのかどうか、判別できない程度に。
「秘密」
「……秘密って」
「君は、知らないほうがいい」
それきり師匠は何も言わなかった。
軽四は夜道を淡々と走り、街灯の白い光がフロントガラスを流れていく。外側の手形は乾いていった。内側の指の跡は、曇りが晴れるまで残った。
*
師匠が一人で立てて、一人で結論を出したその話は、二度と話題に上ることはなかった。
けれど、今ではトンネルを通るたびに思う。
この世の理から切り離された死者たちが、誰かに見つけてもらうために、トンネルというこの世とあの世の媒介に現れるのではないだろうか。
橋や道端ではだめなのだろう。
その先が、境を繋ぐ道でなければ。




