『七不思議』
大学一回生の夏だった。
梅雨が明けきらない湿った暑さが、構内の空気に張りついていた。講義が終わっても汗が引かない。背中のシャツが肌に貼りつく。歩くだけで息が重くなる。夏は、そういうふうに人の身体を現実に引き戻す。
俺はサークル部屋にいた。
窓は半分だけ開いていて、外の蝉の声がそのまま流れ込んでくる。扇風機が首を振り、机の上の紙をめくり上げては落とす。誰かの飲みかけのペットボトルがぬるくなっていて、部室独特の匂い――埃と汗と湿ったカーテンの匂いが混ざっていた。
そんな中、竹原先輩が突然言った。
「今年の夏もやるか。七不思議探究!」
言い方は軽いのに、目だけが本気だった。どうやらこれが恒例行事らしい。
宮野先輩が即座に拾って笑う。
「出た、会長の季節行事。夏が来たらそれだよね」
言いながら、机の上のチラシを扇風機の風から押さえた。宮野先輩はこういう時の手つきが自然だ。空気も紙も、さらっと整える。
鎌田先輩は椅子にもたれたまま、目だけ動かして言った。
「去年、結構ガチだったじゃないですか。俺、機材抱えて走らされた記憶しかないですよ」
面倒くさそうなのに、否定はしない。鎌田先輩はいつもそうだ。嫌そうに言いながら、必要な時はちゃんと現場にいる。
竹原先輩は指を立てた。
「懲りるわけないだろ。夏だぞ」
「理由になってない」
宮野先輩が笑う。
俺は一拍遅れて口を挟んだ。
「……七不思議って」
思ったより素直に声が出た。
「うちの大学にも、あったんですか。七不思議」
竹原先輩が、にやっと笑った。
「あるある。どこにでもある。――っていうか、作られる」
宮野先輩が頷く。
「伝統芸能みたいなもんだよね。大学あるある」
「作られるって言い方、夢がないですね」
鎌田先輩がぼそっと言うと、竹原先輩が指を振った。
「夢がないんじゃない。夢が増えるんだよ。勝手に」
宮野先輩が首をかしげた。
「ていうかさ、なんで七個なの? 七不思議って」
竹原先輩は待ってましたと言わんばかりに胸を張った。
「“七”が一番それっぽいからだ」
「それっぽい?」
「三だと少ない。十だと飽きる。七はちょうどいい」
宮野先輩が吹き出す。
「雑っ」
竹原先輩は笑って続けた。
「でもほんとにそうだぞ。七日で一週間だろ。七夕だってある。七五三もある。――区切りがいい数なんだ。区切りがいいと、話が締まる。締まると回る。回ると“七不思議”になる」
あまりに単純な成立条件で、俺は笑ってしまいそうになった。
そこで、隅の席にいた佐伯が顔を上げた。
佐伯由梨。俺と同じ一回生で、まだ馴染みきっていない。普段は静かで必要なことしか言わないのに、こういう話になると反応が早い。言葉というより、身体が先に動く感じがある。
「……七つ、全部行くんですか」
声は小さいのに、よく通った。
竹原先輩は待ちかねていたとばかりに頷く。
「全部。七つ全部」
言い切ってから、少しだけ言い方を柔らかくした。
「で、新入生にも“自分の目”で見てもらう」
“自分の目”という言い方が、俺の耳に残った。
宮野先輩が俺のほうを見て、からかうように笑う。
「宗介、知らないんだ。うちの七不思議、割と出来がいいよ」
「出来がいい、って……」
「出来がいい。条件が揃うと、ちゃんと“それっぽく”なる」
鎌田先輩が机を指でとんとん叩きながら言った。
「まあ、だいたいは先輩らの悪ふざけだけどな。……だいたいは」
宮野先輩が俺の肩に軽くぶつかってくる。
「宗介、これ、夏の通過儀礼だから。逃げられないよ」
「え、いや、まだ入ったばっかで……」
「入ったばっかだから行くの。経験値が溜まる」
鎌田先輩がぼそっと言う。
「経験値じゃなくて、変なクセな」
竹原先輩は指を折り始めた。
「じゃ、解説するぞ。今夜回る順で言う」
扇風機の音が少し大きく聞こえた気がした。
「一つ目。北棟のエレベーター」
宮野先輩がすぐ言う。
「零時に勝手に動くやつだ」
「深夜零時。誰も乗ってないのに最上階まで上がって、開いて、閉まって、また下りる。監視カメラにだけ映る」
佐伯が机の縁を掴むみたいに指をきゅっと曲げた。爪が白くなる。本人は気づいていない。
「二つ目。図書館裏の公衆電話」
「あったあった」
宮野先輩が笑う。
「深夜、十円を入れると砂嵐が聞こえる。受話器を上げてなくても、砂嵐だけが鳴る」
鎌田先輩が鼻で笑った。
「あれ、ただの故障でしょ」
「故障なら昼も鳴るだろ」
竹原先輩があっさり返す。
「三つ目。職員室前のコピー機」
宮野先輩が露骨に嫌そうな顔をする。
「うわ、それ、怒られたやつじゃん」
「夜。誰も触ってないのに刷り続ける。紙が詰まるまで止まらない。翌朝見ると、意味のない文字列が延々刷られてる」
鎌田先輩が一言だけ言う。
「紙もったいねぇ……」
「四つ目。旧図書館の返却口」
「それ、まだ使えるんですか」
鎌田先輩が眉を上げる。
「使えない。だからこそだ。使われてない返却口に本を一冊返すと、翌日、違う本が戻ってくる。内容は同じで、表紙だけ違う」
宮野先輩が珍しく本気で嫌そうな顔をした。
「うわ、出た。それやだ。地味に一番やだ」
「五つ目。中庭の像」
俺が思わず聞き返した。
「像って……ただの記念像ですよね」
「昼はな」
竹原先輩が言う。
「夜に見ると、向きが変わってる。正面が変わるんじゃない。見られてる感じが変わる」
宮野先輩が笑いで場を軽くする。
「それ、見てる側の問題じゃない?」
「見てる側の問題、ってのが一番タチ悪い」
竹原先輩は強調しすぎないように言った。
「六つ目。体育館裏の“影”」
竹原先輩が指を折る。
「夜、体育館の裏を横切ると、もう一人分の足音がついてくる。止まると止まる。走ると走る。振り向くと、いない」
鎌田先輩が軽く舌打ちした。
「……あれは、マジで嫌だった」
「七つ目。音楽棟の旧ピアノ」
宮野先輩がツッコむ。
「深夜に鳴るやつね」
「深夜二時。音楽棟一階の突き当たり。鍵の掛かった練習室から、一曲だけ鳴る」
竹原先輩の説明がやけに具体的で、俺は喉の奥が乾いた。
佐伯が小さく瞬きをした。目が揺れたのが分かった。
「……深夜ばかりなんですね」
佐伯がぽつりと言う。
竹原先輩が頷く。
「人が減る時間だからな。静かだと、変な音が目立つ。噂はそれで育つ」
宮野先輩が俺のほうを見て、にやっと笑う。
「で、宗介。どうする? 行く?」
俺は一瞬、言葉に詰まった。
暑いはずなのに、背中が少し冷えた気がした。
俺が詰まっていると、宮野先輩が間に入った。
「まあまあ。宗介、顔固い。今のうちに逃げ道用意しとく?」
からかうみたいな声なのに、目はちゃんと俺を見ている。宮野先輩はこういうとき、笑いながら空気を支える。
鎌田先輩が机の上のペットボトルを指で弾いた。
「逃げ道より先に、機材どうするんですか。去年みたいに途中でライト切れたら笑えないでしょ」
「ライトは俺が持ってく」
竹原先輩が即答する。
「……会長のライトって、だいたい怪しいやつじゃん」
宮野先輩が言うと、竹原先輩は短く返した。
「普通の懐中電灯も持つ。安心しろ」
鎌田先輩が半目になる。
「“普通”って言い方がもう信用できないですよ」
俺は笑うべきなのか分からなくて、曖昧に息を吐いた。
佐伯は黙って扇風機の首振りを見ていた。風が当たるたびに前髪が揺れる。その視線が部屋の隅へ流れていく。見ているというより、確かめている。
竹原先輩が机を軽く叩いた。
「よし。行く前にルールを決める」
宮野先輩が笑う。
「出た、会長の“ルール”」
「七不思議は、勢いでやると痛い目見る」
竹原先輩は指を三本立てた。
「一。勝手に離れない」
「二。返事をしない」
俺は思わず眉をひそめた。
「返事……って、誰にですか」
竹原先輩は俺を見て、にやりとする。
「聞こえたものに、だ」
宮野先輩がすかさず冗談っぽく言う。
「つまり、誰かが『宗介〜』って呼んでも無視ね」
喉の奥がきゅっと縮んだ。さっきまで笑っていた空気が、そこで少しだけ硬くなる。
鎌田先輩が気まずさを払うように言った。
「まあ、夜中に誰かに呼ばれたら普通に無視でしょ。面倒だし」
竹原先輩は続けた。
「三。盛らない」
それは竹原先輩の口癖だった。
「出た」
宮野先輩が笑う。
「話を大きくしない。面白くしたいからって足すな。足すと、あとで変な形で戻ってくる」
鎌田先輩が頷く。
「去年、それで変なことになったやついましたね」
「いたな」
竹原先輩と鎌田先輩の視線が、宮野先輩に向く。
「あ、あれは……! もう時効でしょ!」
宮野先輩が慌てたように手を振って、場が少しだけ和らいだ。
佐伯は背筋が伸びていた。目線は机の上じゃなく、窓の外――蝉の鳴く木のほうに向いている。でも、その目が見ているのは外じゃない気がした。
宮野先輩が、からかうでもなく柔らかく言った。
「由梨ちゃん、大丈夫? 顔色、ちょっと白いよ」
佐伯は一拍置いて首を振った。
「……平気です」
声は小さい。でも嘘じゃない感じがした。平気、というより「平気でいようとしてる」声。
竹原先輩が椅子から立ち上がった。
「じゃ、決まり。集合は――」
言いかけて窓の外を見た。蝉の声がうるさい。
「……今夜。零時前」
淡々と決める。理由は言わない。言う必要もない、という顔だった。
宮野先輩が笑う。
「うわ、急だね。会長、行動力だけは天才」
鎌田先輩が立ち上がりながらぼやいた。
「機材、俺が持つんですか。はいはい」
竹原先輩は指を二本立てた。
「懐中電灯。予備電池。あと水な。暑いから」
宮野先輩が伸びをして言う。
「普通に遠足じゃん」
佐伯は小さく頷いただけで、目線を落とした。机の木目を見ているのに、どこか遠い。
俺は一拍だけ置いてから頷いた。
怖い、というより――少しだけ胸が弾んでいた。七不思議なんて子どもの頃に聞いた怪談の延長だと思っていたのに、先輩たちはそれを“手順”として扱っている。そこがなんだかくすぐったい。
竹原先輩が俺を見て、軽く言った。
「宗介。無理するなよ。――でも、行くならルールは守れ」
宮野先輩がすぐに重ねる。
「返事しない、離れない、盛らない。ね」
鎌田先輩はもう鞄を肩に掛けている。
「じゃ、零時前で。遅刻した人は置いていきます」
それだけ言って、部室の空気はいつもの雑談に戻りかけた。蝉の声と扇風機の音が、さっきと同じように続いている。
なのに俺は、竹原先輩の言葉が頭の中で一度だけ鳴り直すのを感じた。
――七不思議は、勢いでやると痛い目見る。
その言い方が現実的で。だからこそ、少しワクワクしてしまった。
*
零時前……時刻は二十三時四十五分。俺たちは再びサークル部屋に集まった。
竹原先輩は手際がいい。紙切れに走り書きした「七不思議ルート」を机に置き、人数を目で数えて言う。
「よし、全員いるな。行くぞ」
宮野先輩が紙袋を持ち上げた。中でペットボトルが鳴る。
「水と飴。会長、倒れたら困るから」
「倒れない」
鎌田先輩は鞄のストラップを直しながら確認する。
「懐中電灯、予備電池、テープ……。荷物、多いですね」
「遠足だもん」
宮野先輩が笑うと、鎌田先輩は宮野先輩にだけ言う。
「遠足なら二時まで引っ張らないだろ」
「引っ張るのが会長」
「じゃあ俺は引っ張られ役か……」
佐伯は黙って頷いた。顔色は昼より落ち着いているのに、目だけが忙しい。周りを見ているというより、空気を確かめている。
俺は少し浮かれていた。深夜の学内で七不思議。先輩たちの恒例行事に混ざれることが、単純に嬉しい。――ただ、ここに師匠がいないことだけが惜しかった。
竹原先輩が軽く手を叩く。
「ルール、もう一回」
指を折る。
「離れない。返事しない。盛らない」
宮野先輩が俺と佐伯を見て、笑いながら念を押した。
「怖がってもいいけど、勝手に名乗らない。勝手に呼び返さない。ね」
俺は頷いた。佐伯も小さく頷いた。
竹原先輩がルートの紙を畳んでポケットに入れる。
「よし、出るぞ」
鎌田先輩が鍵束を鳴らした。
「戸締まりします。帰ってきた時に荒れてたら嫌なんで」
「荒れるのは祐二の机だけ」
「余計なこと言うな」
鎌田先輩は真顔で返した。
佐伯は無言で頷く。俺も頷く。
そして、夜の構内へ歩き出した。
*
最初は北棟だった。
竹原先輩が腕時計を見ながら言う。
「零時を跨ぐ。まずはエレベーターからだ」
「いきなり一番それっぽいの行くんだ」
宮野先輩が笑う。笑いながらも、歩幅は自然と小さくなっている。
鎌田先輩は小さくため息をついた。
「見回りに遭ったら、会長が説明してくださいね。俺、そういうの苦手なんで」
「大丈夫。見回りなんて来ない」
竹原先輩は即答した。根拠があるのか、ないのか分からない言い方だった。
夜の北棟は、昼より狭く感じた。廊下の色が鈍く沈み、音だけが響く。俺たちの足音が返ってきて、いつまでもついてくる。
エレベーターホールに着く。表示は暗い。誰もいない。何も起きていない。――今は。
宮野先輩が軽く言った。
「ねえ会長。これさ、ほんとに“カメラにだけ映る”ってやつ? ただの不具合じゃない?」
「不具合なら毎日だろ」
竹原先輩は言って、ボタンには触れなかった。
鎌田先輩が腕を組む。
「こういうの、録るならビデオ持ってくるべきだったな」
「盛るな」
竹原先輩が即座に言う。
「……はいはい。盛りませんよ」
鎌田先輩は口を尖らせたが、鞄に手を伸ばしてやめた。
佐伯は壁際に立ったまま、エレベーターの扉だけを見ている。視線が固定されているのに、焦点が合っていないように見えた。
二十三時五十九分。
竹原先輩は無駄口を叩かない。会長の顔で、時計だけを見る。
零時。
――表示がふっと点いた。
誰も押していないのに、矢印が上を向く。次の瞬間、扉が開いた。
中は空だった。空なのに、俺は一瞬だけ息を止めた。ここに誰かが立っていた気がしたからだ。きっと気のせいだ、そう言い聞かせる前に、宮野先輩の笑いが止まった。
鎌田先輩が声を落とす。
「……っ」
扉が閉まり、エレベーターが上がっていく。二階、三階、四階。表示が一つずつ進む。最上階で止まって開いて、閉まる。
それから下りてくる。
誰も乗っていないのに、確かに“運転”されていた。
佐伯が手元をきゅっと握った。本人は気づいていない。呼吸が浅い。
宮野先輩が佐伯のほうを一瞬だけ見て、すぐに視線を戻した。からかいを挟まない。いつもの顔じゃない。
竹原先輩は手帳に丸をつけた。動きが速い。確認したら次へ行く。行事を終わらせる、慣れた手つきだ。
「一つ目、確認。次行くぞ」
平然とした声だった。
それがかえって怖かった。
*
図書館裏の公衆電話は、暗い植え込みの近くにあった。
緑の筐体。黒い受話器。ガラスの曇り。街灯の端の光だけが当たっていて、番号のシールが中途半端に白く浮いて見える。昼間なら何でもないのに、夜だと「そこにある」こと自体が引っかかる。
竹原先輩が短く言った。
「十円、誰が入れる」
宮野先輩が俺を見て、にやっとする。
「宗介でしょ。新入生の儀式」
「儀式って……」
「儀式だよ。こういうのは。はい、やって」
押し付けるみたいな言い方なのに、宮野先輩の目はちゃんと優しかった。逃げ道も用意してる顔だ。逃げないなら、背中を押す。
俺は素直に十円玉を出した。掌に汗がにじんで、硬貨が指先で滑る。
鎌田先輩が、ぼそっと言う。
「落とすなよ。草むらに行ったら探すの地獄だから」
竹原先輩がすぐ重ねる。
「受話器は上げるなよ」
俺は頷いて、十円を投入口に入れた。
ちゃりん、と乾いた音。
次の瞬間、砂嵐が鳴った。
受話器を上げていないのに、ボックスの中だけが「ざざざ」とざわつく。耳の奥がくすぐったい。心臓が跳ねる。
「出た出た」
宮野先輩が笑う。笑いながらも、視線は公衆電話から逸らさない。見つめるその目は真剣だった。
鎌田先輩が眉をひそめた。
「……これ、やっぱ故障とかでしょ」
「故障なら深夜だけなんて話にはならないだろ」
竹原先輩があっさり返す。確認だけして、余計なことは言わない。
砂嵐の中に、一瞬だけ高い音が混じった気がした。ピアノの鍵盤みたいな、短い一音。
俺が「今の」と言いかけた時、佐伯が小さく首を振った。
「……聞かない方がいい」
声は小さいのに、言い切っていた。
砂嵐は、十円が返却口に落ちる音と同時にすっと止んだ。
竹原先輩が手帳に丸をつける。
「二つ目、確認。さぁ、次だ」
*
職員室前のコピー機は、物理的に一番厄介な噂だった。
廊下の匂いが昼の学校のままで、「俺たち何やってるんだ」という気持ちが湧く。紙と、空調の乾いた匂い。昼間の生徒の声が消えただけで、場所の性質がそのまま残っている。
ばれたら怒られる。
コピー機は職員室の横、壁際に置かれていた。大きい。白い。昼間は人が並ぶところだ。今は誰もいない。廊下の非常灯だけが、機械の角に薄い影を作っている。
ディスプレイは暗かった。電源が落ちているのか、節電モードなのか判断がつかない。紙トレーも閉じていて、排紙口も静かだ。
竹原先輩は近づく前に足を止めた。
「触るなよ」
誰にともなく言った。
鎌田先輩が鞄の口を少し開け、懐中電灯を取り出しかけてやめた。灯りを当てるほうが目立つと判断したんだろう。こういうところは現場慣れしている。
宮野先輩が、わざと軽く言った。
「ねえ会長。これ、ほんとに七不思議に入れていいやつ? 怖いっていうか、怒られるやつじゃん」
「怒られるのが怖いなら、七不思議なんて最初から成立しない」
竹原先輩は小声で返した。言い方は強いのに、足は一歩も前に出さない。
俺はコピー機の前で立ち止まった。距離を詰めるのが怖いのは、機械が怖いんじゃない。ここが職員室前だからだ。昼間なら当たり前に立てる場所が、夜だと急に禁忌になる。
佐伯が何も言わずに掲示物を見ていた。掲示板の紙が少し浮いている。風もないのに端が揺れた気がして、俺はすぐに「気のせいだ」と思い直した。今夜はそういう“気のせい”が増える。
鎌田先輩が小さく言った。
「ほら。普通です」
普通。
その言葉が逆に嫌だった。普通なら、ここで立ち止まる理由がない。普通じゃないから来たのに、普通だと言われると、期待だけが宙に残る。
宮野先輩がわざと明るく言った。
「はい解散。怒られる前に次行こう」
笑いを作る声だった。
その瞬間、コピー機の奥で「うぃん」と短い音がした気がした。
ほんの一瞬。モーターが回り始める前の、機械が目を覚ますみたいな音。電源が落ちたはずの場所から出る音じゃない。
誰も触っていないのに。
俺は息を止めた。廊下の非常灯が急に明るく見えた。
鎌田先輩が動きを止めたまま、目だけでコピー機を見た。
宮野先輩は笑いかけて、口を閉じた。
竹原先輩が即座に言う。
「……三つ目、確認したな。次だ、次」
“気がした”で済ませるには、現実的すぎる音だった。背中が薄く冷える。夏の夜の冷えじゃない。コピー機の白い筐体が、大きく見えた。
*
四つ目は旧図書館の返却口だった。
旧図書館は今は使われていない。入口は閉じられていて、看板の文字が古い。灯りの落ちた窓が並んでいて、生きていた場所が眠っている感じがした。
裏手に回ると、返却口だけが残っている。小さな金属の口。雨だれの跡がついて、縁が黒ずんでいる。そこに本を一冊返すと、翌日、別の本が返ってくる――表紙だけが違う、という噂だ。
宮野先輩が鞄から薄い文庫本を取り出した。
「これ、ちょうどいいでしょ。家にあっても邪魔だし」
「雑」
竹原先輩が言いながら止めはしない。むしろ手帳を開いて準備している。
宮野先輩が文庫本を返却口に差し込む。するり、と入る……はずが、一瞬だけ引っかかった。
「……あれ」
宮野先輩の指が止まる。
その瞬間、佐伯が顔を上げた。
「……冷たい」
俺は反射的に返却口を見た。確かに、そこだけ空気が冷えている気がした。夏なのに。夜風じゃない冷たさだ。金属の冷たさとも少し違う。奥に冷蔵庫みたいな空気が溜まっている感じ。
鎌田先輩が眉をひそめる。
「……どうした? 本、入らないのか」
宮野先輩は笑って誤魔化す。
「いやいや、気のせい気のせい。入って、お願い」
文庫本がすっと吸い込まれて、音もなく落ちた。落ちたはずなのに、落下音がしない。底が浅いのか深いのか、それすら分からない。
竹原先輩が手帳に小さく丸を付ける。
「四つ目、確認。……結果は明日以降だな」
「戻ってくるの、明日なんですっけ?」
俺が聞くと、竹原先輩が頷く。
「戻るって噂な。戻る“らしい”ってやつ」
鎌田先輩がため息をついた。
「明日まで引っ張るの、嫌なやつだ」
俺は少し笑った。確かに嫌だ。でも、その嫌さが、怪談らしい。
*
次は中庭の像だった。
夜の構内は、昼より広く感じる。人が少ないだけで空間が余る。街灯の下を歩くと、自分たちの影が伸びたり縮んだりして、それが気味悪い。
像は中庭の中央に立っていた。昼に見ればただの記念像だ。夜に見ると、顔が白く浮いて見える。目鼻の陰影が、光の角度ひとつで別の表情になる。
竹原先輩が指を折って言った。
「五つ目」
「向きが変わる、ってやつですか?」
俺が聞くと、宮野先輩が手のひらを上に向けた。
「“変わった気がする”ってやつ。便利な言い方だよね」
鎌田先輩が少しだけ真面目に言う。
「これ、毎年やっても結論出ないですよね」
「結論出ないのが七不思議だろ」
竹原先輩は像の正面に立った。足元のタイルの線を見て、視線の高さを決める。
「一回回って確認する。宮野、基準になれ」
「はいはい。ピースしとく?」
「するな」
宮野先輩が足元の線に立つ。竹原先輩が「ここが正面」と言って、俺たちは像の周りを一周した。
横顔。背中。肩。台座の文字。どこから見ても、ただの像だ。
――何も変わらない。
なのに元の位置に戻った瞬間、違和感があった。
宮野先輩が、冗談にしきれない声で言った。
「……さっきより、見られてる感じしない?」
竹原先輩が即答した。
「それだよ」
「それって何」
「向きが変わった、って部分。その一端」
竹原先輩の言い方は軽いのに、核心に迫ることを言った。
佐伯が小さく息を吐いた。
「……目が合う、みたいな」
その言い方があまりにも具体的で鳥肌が立った。
俺は笑って流そうとしたのに、笑えなかった。像は何もしていない。していないのに、視線の違和感だけが残った。
鎌田先輩が、あえて軽く言った。
「見てる側の問題ってやつだ」
宮野先輩が短く笑う。
「そう。たぶん」
竹原先輩が手帳に丸をつけた。
「次」
*
体育館裏の“影”は、噂を聞いただけで嫌なやつだった。
灯りが届かない。砂利を踏む音だけが大きい。歩くたびに音が返ってきて、どれが自分たちの足なのか曖昧になる。
竹原先輩が言った。
「何か聞こえても、返事するなよ」
俺たちは横切った。
最初は五人分の砂利の音だった。
次の瞬間、音が増えた。
もう一組、少し遅れて同じリズムが重なる。
足音が一人多い。
背中が冷たくなる。呼吸が浅くなる。俺は前だけを見る。振り向いたらそこにはなにもいない気がする。
佐伯の歩幅が乱れた。足が半拍遅れる。
俺はとっさに佐伯の袖を掴んだ。
返事はない。けれど袖が、わずかに引き返された。「ここにいる」と返されたみたいに。
砂利の音が続く。五人分と、もう一人分。近づいたり離れたりする。からかうみたいに。
体育館裏を抜けた瞬間、音が減った。
五人分に戻った。
俺はそこで初めて息を吐いた。喉の奥がひりつく。口の中が乾いているのに汗が出ている。
鎌田先輩も息を吐いた。
「……これは、マジ嫌。毎回、慣れない」
宮野先輩が、笑っていいのか迷う顔で言う。
「慣れたら終わりだよ、それ」
竹原先輩は手帳に丸をつけた。
「六つ目、確認。……残り一つ」
佐伯は顔色が落ちていた。けれど「帰りたい」とは言わない。口を結んだまま、目だけが周囲を拾っている。
竹原先輩が時計を見る。
「二時まで、まだ少しある。時間になったら音楽棟行くぞ」
宮野先輩が俺と佐伯を見て言った。
「寝ちゃだめだよ、新入生」
俺は笑って頷いた。
*
最後に残ったのは、音楽棟の旧ピアノだった。
体育館裏を抜けた時点で、俺たちの口数は減っていた。怖さが増したからじゃない。言葉を足すと、余計なものが混ざりそうで、誰も喋らなくなっただけだ。
竹原先輩が腕時計を見て言う。
「……二時だ。行くぞ」
俺は正直、期待していた。
ここまでの七不思議は、思ったより手応えがあった。冗談で済まない瞬間が、確かに混じっていたからだ。だから竹原先輩がこれを最後に残したのにも、きっと理由があるはずだ。
音楽棟は昼間と違って背が高く見えた。窓は暗く、廊下は長い。白い壁が夜に溶けて、建物そのものが影になっている。
鎌田先輩が、懐中電灯のスイッチを入れたり切ったりしながら言った。
「……ほんとにやるんですか、これ。見回り来たら怒られますよ」
竹原先輩がため息交じりに答える。
「見回りは来ないって言ったろ」
宮野先輩が笑って場を和らげる。
「怒られる前に曲が鳴ったら勝ち、ね」
「勝ちってどういう……」
「勝った気がするでしょ」
竹原先輩は前を照らしたまま言った。
「ルールは守れよ。離れない。返事しない。盛らない」
佐伯は返事をしなかった。頷きもしない。ただ、音楽棟の暗い入口を見ていた。肩が少し上がっている。夏の夜なのに、寒がっているみたいだった。
俺は少し遅れて頷いた。
音楽棟の一階。廊下の突き当たり。鍵の掛かった練習室。そこが“旧ピアノ”の部屋だった。
竹原先輩がドアノブに手をかけようとして、やめた。
俺は壁際に座り込む。床は冷たい。虫たちの声はここまで届かない。代わりに、空調の唸りと、どこかの自販機の低い振動音がある。
宮野先輩が、わざと明るい声で言った。
「宗介、眠い?」
「眠くないです」
「うわ、元気。若い」
鎌田先輩がぼそっと言う。
「一年しか変わんないだろ」
竹原先輩は時計を見ていた。会長の顔だ。毎年の行事を成立させようとする顔。
佐伯はずっと黙ったままだった。目を閉じたり開けたりしている。指先が冷えるのか左で包んだり、右で包んだりしている。俺はそれが気になって、声をかけようとしてやめた。
一時五十九分。
廊下の空気が変わった。
佐伯が、ほんの少しだけ顔を上げた。
竹原先輩が小声で言う。
「……二時」
その瞬間だった。
練習室の中から、音がした。
最初の一音は柔らかい。ピアノの音だ。確かにピアノの音なのに、距離が掴めない。床を伝ってくるというより、壁の中から染み出してくるみたいな響きだった。
次の音が重なって、旋律になる。
聞いたことがあった。それは確か、ショパンの『夜想曲第20番 嬰ハ短調』だ。高校の頃授業で習った気がする。
哀愁と切なさがある。まるで暗い夜の底で、一人静に祈りを捧げているような。
先輩たちの表情がみるみるうちに変わっていく。
宮野先輩の顔から笑いが消える。
鎌田先輩が、ゆっくり口を開く。
「……え」
竹原先輩が青ざめている。さっきまでの会長の顔が剥がれて、今日初めて見る動揺の顔になる。
「……違う」
竹原先輩は、自分に言い聞かせるみたいに呟いた。
「去年も、おととしも……鳴ったのは『月光』だった」
おそらくそれは、ベートーヴェンの、あの月光のことだろう。
旋律は続く。まるで、俺たちがここにいることを知っているみたいに、速度も強さも変わらない。
佐伯が息を吸って、止めた。喉が震えているのが分かった。
俺は目が離せなかった。怖いのに、聴きたい。胸の奥がぞくぞくする。
――その時。
曲が、ぷつりと止んだ。
余韻だけが廊下に残って……足音が近づいてくる。練習室の中から、こちらへ向かってくる音。
扉のガラス窓の向こうで、影が一度だけ揺れた。
息を吸う音すら止まる。
次に聞こえたのは、床を踏む音だった。こちらへ近づく足音。
そして、蝶番が鳴る。
がらり、と扉が開いた。
暗闇から出てきたのは、師匠だった。
予想だにしないことに、一行は固まった。
「なんで」そんな言葉が頭をよぎる。
師匠は俺たちを一瞥して、首を少し傾けた。
「……こんな時間に、何してるの」
――こっちのセリフです。
喉まで出かけて、飲み込んだ。言ったら言ったで、余計なことになる気がした。
代わりに竹原先輩が口を開いた。
「いえ、なに。例の七不思議探究でして……」
思いもよらない事態に、口調が硬い。会長の声なのに、さっきまでの勢いがない。
師匠は小さく頷いた。
「毎年のアレね」
その言い方が腹立たしいほど自然だった。まるで、授業の課題みたいに扱う。
宮野先輩が疑問を口にする。
「白百合先輩こそ、何やってるんですか。こんな時間に」
いつものようには笑わない。真面目な顔だ。後輩二人のことも、ちゃんと視界に入れている顔。
師匠はあっけらかんと言った。
「弾いてたんだ。ピアノ」
鎌田先輩が、半分呆れた声で突っ込む。
「いや、こんな時間にですか」
俺も佐伯も、言葉にならずに頷いた。
師匠は何でもないみたいに言う。
「この時間がいいんだよ。静かだし、邪魔されない」
その言葉に、俺たちは一瞬だけ白けた。
白けた、というより、緊張の置き場所がなくなった。さっきまで身体のどこかに刺さっていた針が、急に抜けたみたいな感じだ。抜けたのに、穴だけが残っている。
竹原先輩が、咳払いをして言った。
「……あの、じゃあ。私たちは、これで」
師匠はまた首を傾ける。
「うん。帰りな」
びっくりするくらいあっさりしている。
それで終わり、という調子だった。
宮野先輩は師匠の顔を見て、何か言いかけて、やめた。言うなら「月光じゃなかった」とか、「鍵が」とか、そういうことなのに、口に出すと“盛る”気がしたのかもしれない。
宮野先輩は一度だけ俺と佐伯を見て、目で「大丈夫?」と聞いてきた。
俺は頷いた。佐伯も遅れて頷いた。ただ、頷き方が小さかった。
鎌田先輩が最後に言う。
「……じゃあ、失礼します」
それが締めになった。
竹原先輩が歩き出す。宮野先輩と鎌田先輩が続く。佐伯もその後ろに混ざる。夜の廊下に足音が戻り、遠ざかっていく。
俺もついていこうとして――止まった。
師匠が、俺のほうだけを見ていた。
視線で引っかけられた、という感じがした。
さらに、師匠の手が動く。
俺の袖口を、指先でつまむ。掴むというほど強くない。引っ張るでもない。
ただ、袖が一ミリも動けなくなる。
その気配に、先に気づいたのは宮野先輩だった。
足音が止まる。振り返って、俺と師匠を交互に見る。
「……宗介?」
鎌田先輩も足を止めて、少し眉を上げた。
「一緒に帰らないのか?」
佐伯は何も言わない。ただ、俺のほうを見て、すぐに視線を落とした。見てはいけないものを見てしまったみたいに。
竹原先輩は一歩だけ戻ってきて、師匠に短く頭を下げた。
「……あの、宗介は白百合先輩が?」
師匠は宮野先輩たちではなく、俺を見たまま答えた。
「うん。送る」
竹原先輩はそれ以上聞かなかった。会長の顔に戻って、頷くだけ頷く。
「分かりました。……じゃあ、佐伯。行こう」
宮野先輩はまだ何か言いたそうに口を開きかけて、閉じた。最後にだけ、俺を見て目で言う――無理すんなよ。
鎌田先輩も小さく言った。
「……じゃ、明日」
佐伯が、ほんの一瞬だけ振り返った。暗くて表情までは分からない。けれど、その目線だけははっきり俺に刺さった気がした。
みんなの足音が、また遠ざかっていく。
角を曲がる直前、竹原先輩が振り返らずに言った。
「宗介。盛るなよ」
それが、いつもの調子で、でも今夜だけは妙に重かった。
廊下の向こうが静かになってから、師匠が言った。
「宗介」
名前を呼ばれて、心臓が一度だけ跳ねた。さっきまでの「返事するな」が遅れて効く。けれど、これは師匠の声だ。
「……はい」
師匠は袖口を離さないまま、目を逸らさずに言った。
「君は、送ってく」
師匠は俺の歩幅に合わせるでもなく、先に歩き出した。相変わらず半歩前だ。追いかけると、追いかけた分だけ距離が保たれる。
音楽棟を出ると、夜の湿った空気が戻ってきた。遠くで虫が鳴いている。街灯の光が、地面に薄い楕円を作る。
俺は師匠の横に並びかけて、結局、半歩後ろに戻った。
歩きながら、言いたいことがいくつも浮かんだ。
月光じゃなかったこと。
どうしてそこにいたのか。
なぜ、二時に合わせたみたいに鳴ったのか。
そして、俺たちが見たものは、本当に“七不思議”だったのか。
でも、どれも言葉にすると止まらなくなりそうだった。
師匠は振り返らない。
ただ一度だけ、夜の構内を見上げて言った。
「人が形づくり、夜が意味を深める。曲はそれをただ広めるだけ。時にはそういう循環が必要」
何を、とは言わなかった。
俺はただ、「はい」とだけ言って、師匠の後ろを歩いた。




