『葬列』
ド田舎から、某中都市規模の街にある大学へ出てきた俺は、環境の変化のせいか、金縛りだの妙な夢だの、とにかく落ち着かなかった。
面喰ってはいたが、同時にオカルトへの興味も変に育っていた時期だ。
入学して一か月。俺はまだ友好関係らしいものを築けずにいた。
学食の隅で、一人さみしくカレーを突っついていると、噂話が耳に入ってきた。
旧講義棟の裏にある坂。
あの坂を下りた先に、林へ入る小道がある。
深夜二時四十四分。
そこに「列」ができる。
話していたのは同じ学科の先輩で、いかにも噂好きの顔をしていた。周りも箸を止め、妙に真剣な目で聞いている。
「黒っぽい服を着たやつらがさ、列作ってんだよ。んで、誰も喋んねえの。スーツみたいなのもいれば、コートみたいなのもいる。中には軍服みたいなのまで混じっててさ。みんな同じ方向向いて、ゆっくり……こう、並んで歩いてんだよ」
「二時四十四分ぴったり? 」
「ぴったり。携帯見てても、急に電波が死んでさ。時間だけ二時四十四分で固まるって話もある」
そして先輩は、最後に声を落とした。
「……列の最後尾の男がな、振り返るんだよ」
「は? 」
「目が合ったら最後、列に引きずり込まれて帰ってこれなくなる。……実際、見たってやつがいる。朝になったら旧講義棟の裏で座り込んでてさ。靴だけ真っ黒で、何も覚えてねえって」
学食のざわめきが、一瞬遠のいた。先輩の言葉が、頭の中に釘みたいに残る。
怪談としてはベタだ。「見てはいけない」「振り返るな」の類。
でも、そこが引っ掛かった。
「帰ってこれない」と言うくせに、「朝になったら座り込んでた」例がある。
じゃあ、帰ってきてるじゃないか。
しかも、戻ってきた本人は何も覚えてないのに、噂の中身だけが妙に具体的だ。
最後尾の男が振り返る。目が合うと引きずり込まれる。時間が固まる――。
誰がそこまで見て、誰が言い出したんだ。
どこまでが誇張で、どこからが事実なんだ。
疑問は、なぜか恐怖より先に膨らんだ。
自分でも面倒な性格だと思う。けれど、その晩、俺は確かめずにはいられなかった。
*
旧講義棟の裏へ向かった。
守衛室の明かりはまだ点いていて、視界に入らないように遠回りした。昼間は勧誘のビラで埋まっている掲示板も、夜になるとただの黒い板に見える。風が通るたび、紙の端がかさりと鳴った。
キャンパスは夜になると、昼間の人の熱が嘘みたいに引く。街灯の光は白く、木々の影が濃い墨みたいに地面に落ちる。旧講義棟は、普段から気配の薄い建物だった。昼でも廊下がひんやりしていて、壁の染みがどこか濡れて見える。
裏手に回ると、噂の坂はすぐに分かった。地形が少し落ち込み、途中から林が迫っている。そこだけ空気が違う。春先なのに、吐く息が細く白い。煤の混じったような匂いが、鼻の奥に残った。
坂を下り切ったところに、小道の入口がある。獣道みたいに細く、踏み固められているのに、人が通った気配がない。入口の脇には、古い注意看板が斜めに刺さっていた。「立入禁止」の文字だけが剥げずに残っているのが、逆に不自然だった。
俺の携帯は当時流行りのPHSで、細いアンテナを伸ばすタイプだった。
画面を見る。二時四十三分。
自分で選んで来たはずなのに、足が地面に吸い付く感じがする。
落ち着かない。俺の指は無意味に液晶を点けては消した。時刻の横で、電波のマークがふっと消えたり戻ったりする。圏外の表示が一瞬だけ出て、また消える。
二時四十四分。
その瞬間、液晶の数字が止まった。
秒の表示だけが進まない。バックライトの明るさが、わずかに不安定になる。電波マークは消えたまま、時間だけが二時四十四分に貼りついている。
ボタンを押しても反応が遅れる。閉じたはずの画面が勝手に点いたり、点いたまま暗くなったりする。
まるで、機械が「ここから先」を拒んでいるみたいだった。
風が止んだ。葉擦れの音も、遠くの車の音も、ぷつりと切れる。
世界が薄い膜で隔てられたみたいに、音が吸い取られる。
そのときだった。
小道の奥、林の暗がりがゆっくり濃くなる。闇が寄ってくるのではない。闇の中から、別の黒いものが滲み出す。
足音がした。
砂利を踏むようで、砂利じゃない。湿った土を踏む、重い足音が規則正しく近づいてくる。
最初に見えたのは、黒くのっぺりとした何かだった。
それが進むたび、人の形を成していく。
ひとり、ふたり、三人――。
列だ。
黒っぽい服。コートにスーツ、喪服に、軍服のようなものまで。けれど、そのどれもが傷んでいる。焼け焦げたような煤色が一つに連なり、影の帯になる。
誰も喋らない。咳払いすらない。息遣いも聞こえない。
歩調だけが揃っていて、遅いのに、逃げ道を塞ぐみたいに確かだった。
俺は看板の影に身を潜めた。心臓がうるさい。腕の先が冷えていく。
変だ。
列の連中はみんな前を向いている。顔は見えない。見えないはずなのに、「見られている」と直感した。
そして、最後尾が見えてきた。
男だった。背は高くない。痩せているのに、肩だけが妙に重たい。黒い襟元が、ところどころ灰色に白けている。煤みたいに。
本来なら、男も列に続いて奥へ進むはずだった。
男の歩みが止まる。
肩が、ゆっくりと回る。
振り返る。
その動きは、人間が後ろを確認する動きとは違う。
骨が擦れるような気配を立てながら、無理やり体を曲げている。
視線がそこに固定されるみたいに、俺は目を逸らせなかった。
顔が見えた。
……黒い。
土で汚れた黒じゃない。焼けた黒。乾いた炭の黒。
それでも目だけが、異様に濡れて光っていた。
目が合った。
瞬間、背骨の芯が冷たくなる。
体が勝手に前へ出た。
「――っ」
声が出ない。叫ぼうとしても喉が閉まる。
足が、俺の意思と関係なく小道へ踏み出す。
一歩。二歩。
入口の土が、ぐにゃりと沈む。妙に柔らかい。湿っているわけじゃないのに、足首が沈む。
煤の匂いが濃くなる。息が詰まる。熱いような錯覚が、皮膚の内側から湧く。
列の中へ呑み込まれる。
そう思ったとき、誰かの手が俺の腕を掴んだ。
指が、やけに冷たい。氷みたいな冷たさが皮膚の内側へすっと潜り込んで、握られたところから熱だけが抜けていく。
「見ないで」
近い。耳元じゃない。体の内側に直接響くみたいな声。
腕を引かれ、俺の視界が強引に逸らされる。男の目から、無理やり引き剥がされる。
次の瞬間、肺に空気が戻った。戻った途端、咳き込んだ。膝が抜けそうになる。
「下を向いて。土を踏まないで。……戻るよ」
彼女は淡々としていた。迷いがない。
言われるままに視線を落とす。足元に靴が見える。黒い靴、古い靴、上履きみたいなもの、泥のついた靴。
列の足音は、遠のいていくというより、こちらから離れていく。距離感だけが薄くなる。
彼女に引かれて後退する。
小道の入口から一歩、二歩と離れた。
すると、空気がふっと軽くなった。
遠くの音が戻る。犬の鳴き声。枝の擦れる音。街灯の電気の微かな唸り。
PHSの画面が、ようやく動いた。二時四十四分のまま固まっていた数字が、いきなり二時四十六分へ跳ねる。電波マークが戻ったのを見て、遅れて震えが来た。
顔を上げたときには、列はもうそこにいなかった。
林はただの暗闇に戻り、小道は薄い影の筋になっているだけだ。
彼女は俺を掴んでいた手を離した。奪われた腕の熱が戻るのを感じた。
「この場所には……来ちゃだめ」
それだけ言うと、坂を上がっていった。黒い髪が揺れて、白いマフラーの端だけが街灯に一瞬だけ浮かんだ。
「待っ――」
名も知らないまま、背中が闇に溶けた。
俺はしばらく、その場から動けなかった。
ただ、立っているだけで精一杯だった。
足元を見ると、俺の靴だけ不自然に黒く汚れていた。数歩しか踏み込んでいないはずなのに。まるで、あの列の中を長く歩いたあとみたいに。
*
数日後の昼休み。
大学構内の外れ、人気のないベンチで、俺は彼女を見かけた。旧講義棟から少し離れた植え込みの奥。風が通りにくくて、時間の流れが遅い場所だ。
彼女はベンチに座り、膝の上に大学ノートを載せていた。罫線の上を、シャーペンの芯がかりかりと走っている。
近づくと、彼女は視線だけを上げた。驚かない。まるで、俺が来ることを知っていたみたいに。
「……この前は助けてくれて、ありがとう」
「お礼はいらない。もう二度と行かないで」
言い切る口調に、背筋が伸びた。
俺は、あの夜の疑問をぶつけた。
「何で、あの場所にいたんですか」
彼女は少しだけ間を置いて言った。
「確かめてたの」
「何を」
「噂の出所」
出所。
その言い方が妙に冷たい。
「君も噂を聞いて行ったんでしょう」
俺は頷いた。
「はい。でも……納得できなくて。目が合ったら帰ってこれないって言うくせに、朝になったら座り込んでたやつがいるって。靴だけ真っ黒で、何も覚えてないって。それなのに、最後尾が振り返るとか、目が合うと引きずり込まれるとか、話だけ妙に細かい。誰がそこまで見たんだって」
彼女は少し息を吐いた。呆れたようにも、諦めたようにも見えた。
「……“帰ってこれない”っていうのは元の形じゃない。」
彼女はノートを閉じ、指先でベンチの木目をなぞった。
「あそこに出るのは、葬列。そう呼ばれてる。列の最後尾の男と目が合うと、あなたみたいに身体が引っ張られる。……本来は、それまでの話のはずだった」
「はずだった? 」
彼女は頷くでも首を振るでもなく、淡々と続けた。
「目が合って、引っ張られる。そこで気を失って、別の場所で目を覚ます。記憶が曖昧になる。時間が飛ぶ。靴だけ汚れる。――そういう“空白”だけを残して、終わる。」
言葉の切れ目ごとに、あの黒い目が思い出される。
「症状の度合いもまちまち。はじめはそういう怪異だった。だから噂になる」
俺は無意識に、足先へ力を入れていた。
「でも、ここ最近になって“帰れなくなる”なんて尾ひれがついた」
彼女の視線が、遠くへ向く。
「誰が言い出したのかは知らない。でも、その噂は広がりつつある。それが、とてもよくない」
俺は思わず言った。
「でも、たかが噂ですよ。そんなのが広がったところで……」
彼女は、首を横に振った。
「噂は記憶になる。記憶は語られて広がる。広がれば、みんなが『そうだ』と思い始める」
「……」
「はじめから言葉で伝わってきた怪談にとって、それは一番厄介なところ。思い込みは、伝染する。真意がどうであれ、ね」
彼女は一拍置き、言葉を落とした。
「そして、人の中で形が定まったとき――『人は帰ってこなくなる』」
心拍が上がった。
仮にそうだとして、あの夜、もしも彼女が助けてくれなかったら……。
「噂を消すことはできない。だから危ない」
言い切られて、背筋が冷えた。
俺は少し迷ってから、聞いた。
「葬列って……何なんですか。あれは、人間なんですか」
「人が、あの中にいたと思う?」
俺は言葉を失った。
彼女は少し考えてから、言葉を選ぶように続けた。
「旧講義棟、今はコンクリートで補強されてるでしょ。でも昔はそうじゃなかった。戦時中の話」
「戦時中……」
「この街には“大きな火事”があった。記録には、そう書かれてる」
彼女は一拍置いた。
「でも本当は、空襲だった」
背中が冷えた。
遠い話のはずなのに、あの夜の煤の匂いとぴたり重なる。
「下宿の集落が焼けて、学生も亡くなった。家族がすぐ引き取れない人もいた。だから大学が、旧講義棟の講堂を使わせた。通夜と焼香の場に」
「焼香の順番待ちが裏手の坂まで伸びた。黒っぽい服で、泣き声を殺して、喋らずに並んだ。……君が見たのと同じ」
「それが……葬列? 」
「本当の葬列は、その一夜だけだったはず。でも、そうはならなかった。」
彼女の声は平らだった。
平らな分だけ、底に何か沈んでいる気がする。
「その夜、火が出たのが二時四十四分」
俺の喉が、また乾く。
二時四十四分。あの止まった数字が目の裏で光った。
「逃げようとして、裏口に人が集中した。坂の小道。そこを抜けた先に防空壕があった。でも道は狭い。煙を吸うから、喋れない。喋れば煙を吸い、咳が出る。吸いすぎれば動けなくなる」
彼女の言葉が淡々としているのに、肺のあたりだけが苦しくなる。
あの夜、俺が一歩踏み出した瞬間の息苦しさが戻ってきた。
「最後尾の男は、誘導役だった。取り残しがないか、後ろを見る役」
彼女は俺の目をまっすぐ見た。
「目が合った人がいた。その人は瓦礫に阻まれて、外へ出られなかった」
そこで彼女は、少しだけ視線を落とした。
「救えなかった。……それでも、列を前へ進めた」
「もう少しだった」
声色は変わらない。なのに、その一言だけが妙に重い。
「二度目の爆撃だった」
俺は絶句した。
「逃げ場はなかった。火の回りが早くて、大勢が亡くなった」
そんな惨劇がここにあったなんて、俺は知らなかった。
「戦争が終わって、そこに木が植えられた。戦後復興として」
彼女は静かに言った。
「でも、戦争が終わっても、彼らは帰れなかった」
胸の奥がざらついた。悔しいとか悲しいとか、そういう言葉じゃ追いつかない。
「最後尾の男は、誰かを連れ去るために振り返るんじゃない。誰も失わないために振り返る。見つけた相手を“取り残された誰か”だと思い込んで、列に戻そうとしてる」
その言葉が胸に刺さった。目尻が熱くなる。
「……何もしてあげられないんでしょうか」
彼女は小さく首を振った。
「このことは忘れなさい」
彼女は立ち上がった。ベンチの影が揺れる。
「もう、こういうことには関わらないほうがいい」
そう言ってから、ほんの少しだけ表情を緩めた。
歩き出しかけて、彼女はふと思い出したように振り返る。
「……靴、ちゃんと清めて」
そう言われて靴を見る。洗っても薄く残った黒い汚れが、確かにそこにあった。
「清める? 」
「塩と水。……それでも落ちないなら、落ちないなりに気をつけて。靴を引きずって歩かないで」
意味深な言い方だった。
「あなたの……名前は」
彼女は一拍、沈黙した。
それから、首から下げていた学生証を指で押さえ、こちらに向けた。
白百合歩夢。
「……白百合って読む。あとは、忘れてもいい」
それだけ言って、彼女は歩き去った。植え込みの向こうへ消える背中を、俺は追えなかった。
*
その夜、俺は部屋の電気を全部つけたまま、机に座っていた。
――葬列。
講義も忘れて、過去の資料を漁った。図書館へ行って縮刷版の棚を端から端まで見た。背表紙の年号は、俺が生まれるずっと前の昭和の数字だった。
地下の閲覧室にはマイクロフィルムの機械が並んでいる。金属の匂いと、古い紙の匂いが混じる。フィルムを回して、レンズの向こうの文字を追う。指先が黒くなる。
それでも足りなくて、下宿へ戻ったあと、部屋の隅の古いパソコンの電源を入れた。
モニターの奥がじわりと明るくなる。ファンの音が一定で、画面が立ち上がるまでの間が妙に長い。
回線をつなぐとき、モデムが甲高く鳴いた。あの音は、いま思い出しても落ち着かない。つないでいる間は電話が使えない。だから、妙な時間に繋ぎっぱなしにするのが怖かった。
それでも打ち込んだ。
「空襲」
「講堂」
「火災」
出てくるのは、断片だけだった。
それでも、記録は確かにあった。
旧講義棟の講堂付近で火災発生(原因不明)。死者数は伏せられている。記事は短く、妙に淡々としていた。
空襲なんて言葉は、どこにもない。彼女が言った「記録では火事」という意味が、嫌なほど分かった。
画面の端に、白黒の写真が出た。
焼け跡の前に、黒い服の人々が写っている。講堂の裏手、坂のあたり――列のようにも見えた。
写真の端、最後尾のあたりが、煙かブレかで滲んでいる。
なのに俺は、そこに“視線”を感じてしまった。
慌てて画面を閉じた。
時計を見る。二時四十三分。
PHSの液晶は暗く、時刻だけが淡々と光っている。
胸の奥がざわつき、俺は無意識に足元を見た。黒い汚れがついている気がして目をこする。
見間違いだ。そこには汚れのない白いソックスがあるだけだった。
二時四十四分。
遠くで、何かが擦れる音がした。
キャンパスの方角から――湿った土を踏む、規則正しい足音。
俺はカーテンを閉め、布団にもぐりこんだ。
そうして両耳をふさいだ。
葬列――彼らの行進は、今も止まりはしないのだろう。
あの日、最後尾の男が見失った“誰か”を見つけるまで。あるいは、見つけたと錯覚するまで。
柔らかく沈む土の感触が蘇りそうになって、俺は息を殺し、祈った。
どうか、彼らが帰れますように、と。




