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帰送シリーズ  作者: 流浪
19/20

『鏡の音』

 大学一回生の秋だった。

 昼の熱がようやく抜けて、夕方になると肌が少し痛むような冷え方をするころだった。風が吹くたび木の葉が擦れ、乾いた音が足元を転がっていく。吐く息はまだ白くならないのに、指先だけが先に冷える。そういう季節だ。

 俺は師匠と、市街の外れにある廃屋へ向かっていた。山裾のほう、道が細くなり、家並みが途切れるあたりだ。

 師匠というのは、登山の師匠じゃない。オカルト道の師匠である。

 大学に入ってから、変な現象に見舞われることが増えた。そういうものにうろたえていた俺を、この人は拾った。

 それからは後ろをよちよちついていく弟子というか、子どものようなものだった。俺は師匠の背中を見失わないように歩いて、ときどき訳の分からないことを教わり、またときどき怒られる。

 その日も、師匠は前を向いたまま言った。

「確かめに行こう」

「……どこに」

 聞き終わる前に、もう歩き出していた。俺は当然のようについていった。

 廃屋は意外に形を保っていた。草に呑まれて崩れているのを想像していたのに、外側だけはまだ家の顔をしている。雨戸が残っている箇所もある。捨てられているのに、朽ち切ってはいない。そういう不気味さだった。

 師匠は門の前で立ち止まり、建物を見上げた。何かを測るみたいに。

「ここでは音がするという噂がある」

 淡々と落とした。

「音?」

「夜に。鏡が割れる音」

 そこで言葉を切る。

 風が通り、草が擦れる。遠くで車が走る。音は全部そこにあるのに、「鏡が割れる」だけが別の層から聞こえた気がした。言葉だけが場に浮いている。

 師匠は何でもない顔で言った。

「さあ、見に行こうか」

 その言い方に、小さな違和感を覚えた。

 師匠の右手にはガラスのランタンがあった。中で小さな炎が揺れている。電灯じゃない。わざわざそれを持ってきた理由が、きっとあるのだろう。

 師匠が一歩進む。

 光が遠ざかる。

 その円からこぼれそうになって、俺は慌ててあとに続いた。足元が急に頼りなくなり、土の匂いが前に出る。建物の影が、こちらへ伸びてくる。

 そうして二人、夜の廃屋へ入った。

 師匠はまず玄関に立って、ランタンの火を少しだけ掲げた。光が土間を舐める。靴箱は倒れていて、扉が外れ、棚板が床に散っている。靴が片方だけ転がっていた。サイズは小さい。女物だろう。

 踏み込んだ瞬間、足元で砂が鳴った。

 ただの土じゃない。細かいガラスの粒が混じった、乾いた音だった。遅れて、湿った木の匂いが鼻の奥に入ってくる。雨を吸って、もう乾くことを諦めた家の匂いだと思った。

 俺は思わず息を浅くする。

 師匠は何も言わずに先へ進んだ。ランタンの火が小さく揺れている。その橙色の輪の中だけが、かろうじて人のいる場所だった。師匠は足を置く位置を選んで歩く。俺もそれに倣って、半歩遅れてついていく。

 廊下の板は、踏むたびにじわりと鳴った。壁紙はところどころ剥がれ、その下の木肌が黒く湿っている。浮いた紙の端が、風もないのに影だけを揺らしていた。

 外から見た時は、まだ家の形をしていた。窓も壁も残っていて、遠目にはただの古い一軒家に見えた。けれど中に入ると、それはもう生活の形を失っていた。

 靴。鞄。雑誌。服。

 床に散らばっているのは、誰かが置いていった物というより、一度そこにあった暮らしを乱暴に掻き回したあとの残り滓だった。扉は蝶番ごと外れて壁にもたれ、襖は紙だけが裂けて枠を残している。畳は湿って黒ずみ、足裏にいやな柔らかさを返してきた。

 台所へ入ると、流し台が赤く錆びていた。シンクには雨水が溜まっている。暗い水面がランタンの火を受けて、ぬめるように揺れた。吊り戸棚は半分だけ開いていて、中はほとんど空だったが、皿が一枚だけ残っていた。

 その皿も割れていた。

 中央から放射状にひびが走っている。それでも誰にも片づけられないまま、棚の端に引っかかっている。

 師匠がそれを一瞥して、小さく言った。

「……乱暴だね」

 その言い方は、家の荒れ方だけを言っているようには聞こえなかった。

 俺は返事をしかけて、やめた。喉が鳴っただけだった。

 居間はもっとひどかった。箪笥の引き出しが全部引き抜かれ、床に投げ出されている。本は背表紙から裂け、湿ったページが何枚も床に貼りついていた。アルバムらしきものが開いたまま転がっている。けれど、そこに収まっていたはずの写真だけが、きれいになくなっていた。四角い糊の跡だけが残っている。

 俺はそこが妙に気になった。

 物取りだとして、金目の物を持っていくなら分かる。しかし、家電でも現金でもなく、写真を抜くというのは不自然だ。頭の中に、写真のないアルバムだけが嫌に残った。

 壁には丸い鏡の枠が掛かっていた。中央は空洞で、縁にだけ細い破片がいくつか食い込んでいる。割れたというより、中心だけ抉り取られたみたいな壊れ方だった。

 その下の床にも、鏡の名残が散っていた。

 洗面台の鏡は蜘蛛の巣みたいにひび割れている。足元には細かい破片が散っているはずなのに、踏んでも音がしない。ガラスが音を立てる前に、家の湿気がそれを呑み込んでしまっているようだった。

 静かだった。

 ただの静けさではない。遠くで水が落ちるような気配がする。いや、本当に音がしているのか、自分の耳の奥で鳴っているだけなのか、その判断がつかない。そういう曖昧さが、気持ち悪さを助長する。

 師匠はランタンを少し高く掲げた。小さな炎が揺れるたびに、壁の染みが動く。廊下の奥が伸びたり縮んだりして、家そのものが呼吸しているみたいに見えた。

 俺はその明かりの外へ出ないように、黙って後ろをついていく。

 階段の前で、師匠が立ち止まった。

 手すりには埃が厚く積もっている。触れれば跡が残るだろうと思った。二階は真っ暗だった。ランタンの光が届かない。闇がそこだけ深く溜まっていて、上へ続く階段ではなく、暗い井戸の口を見上げているような気分になる。

 師匠は一瞬だけ上を見た。

 それから首を振った。

「……上は後」

 その声は平坦だ。いつも通り、ただ順番を決めているだけの声。

 そうして、また廊下の奥へ進む。

 探索の最中、師匠はぽつりぽつりと語り始めた。

 こちらを向いて説明するでもない。立ち止まって講釈を垂れるでもない。ただ歩きながら、暗い家の中へ言葉を落としていく。ランタンの火が揺れるたびに、その声だけが少し先へ進む。

 師匠の声は、前を向いたまま続いた。

「ここには一人の女性が住んでいた」

 廊下の隅に散った鏡の欠片が、ランタンの火を受けて鈍く光った。割れているのに、まだ何かを映そうとしているみたいで気味が悪い。

「彼女はとても美しかった」

 師匠は立ち止まらない。俺はその背中を見失わないようについていく。

「幾人もの男性に好意を向けられ、女性でさえも魅了した」

「その美貌は、町で行き交う人々が皆、振り返るほどだった」

「女性はそのことを鼻にかけた。他人を見下す癖があった」

 淡々とした声だった。責めるでも、庇うでもない。

「ある日、彼女は事故に遭った。とても大きな事故だった」

 そこで師匠の足が止まった。

 割れた鏡の枠が掛かった壁の前だった。火の揺れに合わせて、縁に残った小さな破片がかすかに明滅する。そこに顔を近づけたら、自分の目や口がばらばらに映りそうだった。

「それが本当に事故なのかどうかは分からない」

 師匠は鏡を見ているようで、見ていなかった。

 家の静けさが、その一言のあとに少しだけ沈んだ。俺は何も言わなかった。何か言えば、足元の破片までこちらを向きそうな気がしたからだ。

「彼女はなんとか一命をとりとめた」

「けれど、顔には大きな傷が残った。それは一生の傷だ」

 自分でも気づかないうちに、頬へ手が伸びかけていた。途中で止める。そんな仕草さえ、この家の中では見透かされる気がした。

「彼女は、美しかった自身の容姿が醜悪なものになったことに心を病んだ」

「美しかったことで愛された彼女も、傷をきっかけに見向きもされなくなった」

「人が離れていったんだ」

 師匠はまた歩き出す。ランタンの火が白い壁を撫で、黒ずんだ染みを浮かび上がらせる。

「自業自得だね。他者を見下していた自分が返ってきたんだ」

 きつい言葉のはずなのに、投げつける響きはなかった。あくまで事実を切って置くだけだ。

「罵詈雑言や嘲笑の声――幻聴が聞こえるようになった」

「指さされ笑われる。自分の醜い容姿がついて来る。そんな幻覚も見えるようになる」

「彼女はどんどん壊れていった」

 気づけば、浴室の前まで来ていた。

 扉は半ば外れ、斜めに口を開けている。そこから湿った空気が流れてきた。黴と錆の匂いに、古い石鹸の甘さがかすかに混じっている。長いあいだ閉じ込められて、腐りきれなかった匂いだった。

 師匠がランタンを少し上げる。

 浴室の白いタイルが、闇の底からぼんやり浮かんだ。ところどころに赤黒い染みが残っている。汚れなのか、別のものなのか、見分けたくなかった。壁の鏡は枠だけになっていた。中心はなく、そこだけぽっかりと空いている。割れたというより、持っていかれた跡みたいだった。

 師匠は浴槽を背にして立つ。俺は入口から中へ踏み切れず、敷居のあたりで足を止めた。光は師匠の肩越しに細く伸び、浴室の奥へ流れ込んでいる。奥は暗くて、排水口の穴だけがやけに深く見えた。

 師匠が言った。

「彼女は発狂した。全ての鏡を割った。一枚残らず」

「そして、風呂場で自らの首を切った」

「両目をくりぬいて」

 俺は震えていた。

 話が怖いからじゃない。

 さっきからずっと、家のどこかで音がしていた。

 鏡が割れる音だった。

 乾いていて、短い。ぱき、ぱん、と間を置いて鳴る。遠くで聞こえるのに、耳のすぐ横で砕けているみたいでもある。場所が定まらない。だから余計に気持ちが悪かった。

 そのうえ、耳鳴りがじわじわと強くなっている。高い音が、頭の奥の狭いところに溜まっていく。

 師匠はランタンを少し下げた。火が揺れ、白いタイルの上を影が滑る。

「……彼女は見たくなかった」

 ぽつりと落ちた声が、浴室の壁に吸われた。

「自らの醜悪を」

 その時だった。

 ぱん、と今まででいちばん大きな音が鳴った。

 反射的に肩が跳ねる。さっきまでの細かな破裂音じゃない。もっと近い。鼓膜の表面じゃなく、頭蓋の内側を直接打たれたみたいな響きだった。

 ランタンの火が大きく揺れた。

 揺れた光の端で、何かが立った。

 師匠の背後――浴室の入口の向こう、廊下へ抜ける暗がりの中に、黒い滲みのようなものがふらついている。煙というには重く、影というには輪郭がくっきりしている。頼りなく揺れているのに、そこに“いる”感じだけははっきりしている。

 人の形に見えた。

 女だ、と思った。

 その瞬間、背中から冷たいものが一気に落ちてきた。膝の裏が抜けそうになる。叫ぶより先に、呼吸が浅くなる。

 師匠は振り向かなかった。

 気づいていないはずがないのに、背中を見せたまま立っている。ランタンを持つ手もぶれない。視線だけが、まっすぐ俺を捉えていた。

「だから、鏡を割ったんだ」

 耐えきれなくなって、俺は叫んだ。

「もう鏡なんてないのに!」

 情けない声だった。廊下にぶつかって、細く割れて返ってくる。

 師匠が一歩だけ寄った。

 暗がりの中で、師匠の顔だけが近くなる。

 そして耳元で、ささやくみたいに言った。

「他者の瞳は――己を映す鏡だよ」

 その言葉が、ぞくりと皮膚の下へ入り込んだ。

 背後のそれが、ゆらりと動いた気がした。

 俺のほうへ、じゃない。

 俺の“目”のほうへ、だった。

 考えるより先に、目を閉じていた。

 両耳も塞ぐ。

 それでも遅かった。

 鏡の割れる音は消えなかった。

 外じゃない。

 頭の中で、何度も何度も鳴り続けていた。

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