『鏡の音』
大学一回生の秋だった。
昼の熱がようやく抜けて、夕方になると肌が少し痛むような冷え方をするころだった。風が吹くたび木の葉が擦れ、乾いた音が足元を転がっていく。吐く息はまだ白くならないのに、指先だけが先に冷える。そういう季節だ。
俺は師匠と、市街の外れにある廃屋へ向かっていた。山裾のほう、道が細くなり、家並みが途切れるあたりだ。
師匠というのは、登山の師匠じゃない。オカルト道の師匠である。
大学に入ってから、変な現象に見舞われることが増えた。そういうものにうろたえていた俺を、この人は拾った。
それからは後ろをよちよちついていく弟子というか、子どものようなものだった。俺は師匠の背中を見失わないように歩いて、ときどき訳の分からないことを教わり、またときどき怒られる。
その日も、師匠は前を向いたまま言った。
「確かめに行こう」
「……どこに」
聞き終わる前に、もう歩き出していた。俺は当然のようについていった。
廃屋は意外に形を保っていた。草に呑まれて崩れているのを想像していたのに、外側だけはまだ家の顔をしている。雨戸が残っている箇所もある。捨てられているのに、朽ち切ってはいない。そういう不気味さだった。
師匠は門の前で立ち止まり、建物を見上げた。何かを測るみたいに。
「ここでは音がするという噂がある」
淡々と落とした。
「音?」
「夜に。鏡が割れる音」
そこで言葉を切る。
風が通り、草が擦れる。遠くで車が走る。音は全部そこにあるのに、「鏡が割れる」だけが別の層から聞こえた気がした。言葉だけが場に浮いている。
師匠は何でもない顔で言った。
「さあ、見に行こうか」
その言い方に、小さな違和感を覚えた。
師匠の右手にはガラスのランタンがあった。中で小さな炎が揺れている。電灯じゃない。わざわざそれを持ってきた理由が、きっとあるのだろう。
師匠が一歩進む。
光が遠ざかる。
その円からこぼれそうになって、俺は慌ててあとに続いた。足元が急に頼りなくなり、土の匂いが前に出る。建物の影が、こちらへ伸びてくる。
そうして二人、夜の廃屋へ入った。
*
師匠はまず玄関に立って、ランタンの火を少しだけ掲げた。光が土間を舐める。靴箱は倒れていて、扉が外れ、棚板が床に散っている。靴が片方だけ転がっていた。サイズは小さい。女物だろう。
踏み込んだ瞬間、足元で砂が鳴った。
ただの土じゃない。細かいガラスの粒が混じった、乾いた音だった。遅れて、湿った木の匂いが鼻の奥に入ってくる。雨を吸って、もう乾くことを諦めた家の匂いだと思った。
俺は思わず息を浅くする。
師匠は何も言わずに先へ進んだ。ランタンの火が小さく揺れている。その橙色の輪の中だけが、かろうじて人のいる場所だった。師匠は足を置く位置を選んで歩く。俺もそれに倣って、半歩遅れてついていく。
廊下の板は、踏むたびにじわりと鳴った。壁紙はところどころ剥がれ、その下の木肌が黒く湿っている。浮いた紙の端が、風もないのに影だけを揺らしていた。
外から見た時は、まだ家の形をしていた。窓も壁も残っていて、遠目にはただの古い一軒家に見えた。けれど中に入ると、それはもう生活の形を失っていた。
靴。鞄。雑誌。服。
床に散らばっているのは、誰かが置いていった物というより、一度そこにあった暮らしを乱暴に掻き回したあとの残り滓だった。扉は蝶番ごと外れて壁にもたれ、襖は紙だけが裂けて枠を残している。畳は湿って黒ずみ、足裏にいやな柔らかさを返してきた。
台所へ入ると、流し台が赤く錆びていた。シンクには雨水が溜まっている。暗い水面がランタンの火を受けて、ぬめるように揺れた。吊り戸棚は半分だけ開いていて、中はほとんど空だったが、皿が一枚だけ残っていた。
その皿も割れていた。
中央から放射状にひびが走っている。それでも誰にも片づけられないまま、棚の端に引っかかっている。
師匠がそれを一瞥して、小さく言った。
「……乱暴だね」
その言い方は、家の荒れ方だけを言っているようには聞こえなかった。
俺は返事をしかけて、やめた。喉が鳴っただけだった。
居間はもっとひどかった。箪笥の引き出しが全部引き抜かれ、床に投げ出されている。本は背表紙から裂け、湿ったページが何枚も床に貼りついていた。アルバムらしきものが開いたまま転がっている。けれど、そこに収まっていたはずの写真だけが、きれいになくなっていた。四角い糊の跡だけが残っている。
俺はそこが妙に気になった。
物取りだとして、金目の物を持っていくなら分かる。しかし、家電でも現金でもなく、写真を抜くというのは不自然だ。頭の中に、写真のないアルバムだけが嫌に残った。
壁には丸い鏡の枠が掛かっていた。中央は空洞で、縁にだけ細い破片がいくつか食い込んでいる。割れたというより、中心だけ抉り取られたみたいな壊れ方だった。
その下の床にも、鏡の名残が散っていた。
洗面台の鏡は蜘蛛の巣みたいにひび割れている。足元には細かい破片が散っているはずなのに、踏んでも音がしない。ガラスが音を立てる前に、家の湿気がそれを呑み込んでしまっているようだった。
静かだった。
ただの静けさではない。遠くで水が落ちるような気配がする。いや、本当に音がしているのか、自分の耳の奥で鳴っているだけなのか、その判断がつかない。そういう曖昧さが、気持ち悪さを助長する。
師匠はランタンを少し高く掲げた。小さな炎が揺れるたびに、壁の染みが動く。廊下の奥が伸びたり縮んだりして、家そのものが呼吸しているみたいに見えた。
俺はその明かりの外へ出ないように、黙って後ろをついていく。
階段の前で、師匠が立ち止まった。
手すりには埃が厚く積もっている。触れれば跡が残るだろうと思った。二階は真っ暗だった。ランタンの光が届かない。闇がそこだけ深く溜まっていて、上へ続く階段ではなく、暗い井戸の口を見上げているような気分になる。
師匠は一瞬だけ上を見た。
それから首を振った。
「……上は後」
その声は平坦だ。いつも通り、ただ順番を決めているだけの声。
そうして、また廊下の奥へ進む。
探索の最中、師匠はぽつりぽつりと語り始めた。
こちらを向いて説明するでもない。立ち止まって講釈を垂れるでもない。ただ歩きながら、暗い家の中へ言葉を落としていく。ランタンの火が揺れるたびに、その声だけが少し先へ進む。
師匠の声は、前を向いたまま続いた。
「ここには一人の女性が住んでいた」
廊下の隅に散った鏡の欠片が、ランタンの火を受けて鈍く光った。割れているのに、まだ何かを映そうとしているみたいで気味が悪い。
「彼女はとても美しかった」
師匠は立ち止まらない。俺はその背中を見失わないようについていく。
「幾人もの男性に好意を向けられ、女性でさえも魅了した」
「その美貌は、町で行き交う人々が皆、振り返るほどだった」
「女性はそのことを鼻にかけた。他人を見下す癖があった」
淡々とした声だった。責めるでも、庇うでもない。
「ある日、彼女は事故に遭った。とても大きな事故だった」
そこで師匠の足が止まった。
割れた鏡の枠が掛かった壁の前だった。火の揺れに合わせて、縁に残った小さな破片がかすかに明滅する。そこに顔を近づけたら、自分の目や口がばらばらに映りそうだった。
「それが本当に事故なのかどうかは分からない」
師匠は鏡を見ているようで、見ていなかった。
家の静けさが、その一言のあとに少しだけ沈んだ。俺は何も言わなかった。何か言えば、足元の破片までこちらを向きそうな気がしたからだ。
「彼女はなんとか一命をとりとめた」
「けれど、顔には大きな傷が残った。それは一生の傷だ」
自分でも気づかないうちに、頬へ手が伸びかけていた。途中で止める。そんな仕草さえ、この家の中では見透かされる気がした。
「彼女は、美しかった自身の容姿が醜悪なものになったことに心を病んだ」
「美しかったことで愛された彼女も、傷をきっかけに見向きもされなくなった」
「人が離れていったんだ」
師匠はまた歩き出す。ランタンの火が白い壁を撫で、黒ずんだ染みを浮かび上がらせる。
「自業自得だね。他者を見下していた自分が返ってきたんだ」
きつい言葉のはずなのに、投げつける響きはなかった。あくまで事実を切って置くだけだ。
「罵詈雑言や嘲笑の声――幻聴が聞こえるようになった」
「指さされ笑われる。自分の醜い容姿がついて来る。そんな幻覚も見えるようになる」
「彼女はどんどん壊れていった」
気づけば、浴室の前まで来ていた。
扉は半ば外れ、斜めに口を開けている。そこから湿った空気が流れてきた。黴と錆の匂いに、古い石鹸の甘さがかすかに混じっている。長いあいだ閉じ込められて、腐りきれなかった匂いだった。
師匠がランタンを少し上げる。
浴室の白いタイルが、闇の底からぼんやり浮かんだ。ところどころに赤黒い染みが残っている。汚れなのか、別のものなのか、見分けたくなかった。壁の鏡は枠だけになっていた。中心はなく、そこだけぽっかりと空いている。割れたというより、持っていかれた跡みたいだった。
師匠は浴槽を背にして立つ。俺は入口から中へ踏み切れず、敷居のあたりで足を止めた。光は師匠の肩越しに細く伸び、浴室の奥へ流れ込んでいる。奥は暗くて、排水口の穴だけがやけに深く見えた。
師匠が言った。
「彼女は発狂した。全ての鏡を割った。一枚残らず」
「そして、風呂場で自らの首を切った」
「両目をくりぬいて」
俺は震えていた。
話が怖いからじゃない。
さっきからずっと、家のどこかで音がしていた。
鏡が割れる音だった。
乾いていて、短い。ぱき、ぱん、と間を置いて鳴る。遠くで聞こえるのに、耳のすぐ横で砕けているみたいでもある。場所が定まらない。だから余計に気持ちが悪かった。
そのうえ、耳鳴りがじわじわと強くなっている。高い音が、頭の奥の狭いところに溜まっていく。
師匠はランタンを少し下げた。火が揺れ、白いタイルの上を影が滑る。
「……彼女は見たくなかった」
ぽつりと落ちた声が、浴室の壁に吸われた。
「自らの醜悪を」
その時だった。
ぱん、と今まででいちばん大きな音が鳴った。
反射的に肩が跳ねる。さっきまでの細かな破裂音じゃない。もっと近い。鼓膜の表面じゃなく、頭蓋の内側を直接打たれたみたいな響きだった。
ランタンの火が大きく揺れた。
揺れた光の端で、何かが立った。
師匠の背後――浴室の入口の向こう、廊下へ抜ける暗がりの中に、黒い滲みのようなものがふらついている。煙というには重く、影というには輪郭がくっきりしている。頼りなく揺れているのに、そこに“いる”感じだけははっきりしている。
人の形に見えた。
女だ、と思った。
その瞬間、背中から冷たいものが一気に落ちてきた。膝の裏が抜けそうになる。叫ぶより先に、呼吸が浅くなる。
師匠は振り向かなかった。
気づいていないはずがないのに、背中を見せたまま立っている。ランタンを持つ手もぶれない。視線だけが、まっすぐ俺を捉えていた。
「だから、鏡を割ったんだ」
耐えきれなくなって、俺は叫んだ。
「もう鏡なんてないのに!」
情けない声だった。廊下にぶつかって、細く割れて返ってくる。
師匠が一歩だけ寄った。
暗がりの中で、師匠の顔だけが近くなる。
そして耳元で、ささやくみたいに言った。
「他者の瞳は――己を映す鏡だよ」
その言葉が、ぞくりと皮膚の下へ入り込んだ。
背後のそれが、ゆらりと動いた気がした。
俺のほうへ、じゃない。
俺の“目”のほうへ、だった。
考えるより先に、目を閉じていた。
両耳も塞ぐ。
それでも遅かった。
鏡の割れる音は消えなかった。
外じゃない。
頭の中で、何度も何度も鳴り続けていた。




