『白亜の琴』
大学一回生の冬だった。
その頃の俺は、地元のフォーラムに入り浸っていた。講義が終わって、安い晩飯を腹に入れて部屋に戻る。暖房は弱いし、机の上は教科書とレポート用紙と飲みかけの缶コーヒーでぐちゃぐちゃだ。そんな中でパソコンを立ち上げて、いつものページを開く。
夜になると回線が重くなる。更新ボタンを押してもすぐには切り替わらなくて、じれったくてもう一回押す。後からまとめて反映されて、同じ書き込みが二つ並んだりする。誰かがそれを見つけて「二重カキコ乙」と茶化して、また少し流れが動く。そういうしょうもなさが、俺は嫌いじゃなかった。
流れてくる噂の大半は焼き直しだった。井戸、踏切、廃屋、写真。どこかで聞いたような話ばかりで、スレッドだけが増えていく。俺も半分は鼻で笑って、半分は真面目に読んでいた。
その中で、一つだけ目を引く見出しがあった。
「白亜の琴と出会えたら」
白亜の琴。
琴っていうからには楽器のはずなのに、「白亜」という言葉にはなじみがない。単純に白い琴なのかと思ったが、なんだかそれも違うようだった。
気になってクリックすると、本文は驚くほど短かった。
「白亜の琴は真実を告げる」
「そのためには一週間、持っていなきゃならない」
「何があっても」
それだけ。説明も由来もない。
なのに最後の「何があっても」だけが、やけに生々しく見えた。
その後、少し調べてみたが、結局、正体らしいものは出てこなかった。だから余計に記憶に残った。寝る前に画面を閉じても、頭の片隅でその言葉がしつこく引っかかっていた。
*
次の日、師匠にその話をした。
昼休み前の空きコマだった。中庭を横切る風が冷たくて、売店の前では誰かが肉まんを頬張っている。俺はノートを抱えたまま自販機の前で立ち止まって、いちばん安い缶コーヒーを押した。金属の缶が落ちる音が響いて、指先が少し痛んだ。
師匠はいつもの場所にいた。人の流れから半歩外れたところで、何かを待つでもなく立っている。吐く息が白くて、俺の甘い缶コーヒーはぬるく感じた。師匠はいつも通りブラックを飲んでいた。
俺が昨夜見つけたスレッドの話をすると、師匠は一拍置いて、淡々と言った。
「危険だね」
俺が「え」と返すより先に、師匠は続けた。
「『何があっても』って書き方は、何かが起きる前提で作られてる」
「一週間、って期限を切ってるのは、不幸の手紙みたいだ」
師匠は両手を温めるように缶を握り、そこでいったん言葉を切った。
「ただ、一点だけ違う」
俺が息を呑むのを待たずに、師匠は言う。
「チェーンメールの類は、聞いた時点、見た時点で作用させる」
「でもこれは違う」
「作用するタイミングが別に用意されてる。……出会った時点だ」
「そこに危険性が集約してる」
師匠はそこで、こちらを見た。首は傾けない。視線だけが、まっすぐ刺さる。
「つまり、逃れにくい」
少し考えたあと、師匠は結論だけを落とした。
「見つけても、手は出さないほうがいい」
それからしばらく、俺の頭の中からその言葉が抜けなかった。
師匠が「危険だ」と認めたもの。
俺は「白亜の琴」に――出会ってみたかった。
*
それから数日、俺はその言葉を忘れようとして、結局忘れられなかった。
講義中、ノートを取っているふりをして、頭の片隅で「白亜の琴」という音のしない名前を転がす。学食でカレーをかき込んでいる時も、電車の窓にぼんやり映る自分の顔を見ている時も、気づけば同じフレーズが舌の裏に貼りついていた。
師匠は「手は出すな」と言った。
それなのに、俺のほうは「出会いたい」と思ってしまっている。
その夜、部屋でストーブを点けた。熱が回るまでの間だけ空気が冷たくて、キーボードを叩く指が鈍い。机の上のレポートは開いたまま、締め切りの日付だけが目に入る。そんな現実が鬱陶しくて、逃げるみたいにブラウザを立ち上げた。
いつものフォーラムを一通り流して、更新を押してまた流す。
どれも同じだ。くだらない。……と思いながら、指だけは止まらない。
そのまま、普段は覗かないリンクにカーソルが乗った。地元の噂を扱う雑談寄りの掲示板。オカルト専門でもないし、雰囲気も軽い。俺はこういう場所をどこか見下していた。断言と馴れ合いと勢いだけのグループが苦手だった。
なのに、その板の一覧に、見慣れた文字があった。
「白亜の琴、譲る」
心臓が一瞬、変な打ち方をした。
クリックするまでに、無駄に息を整えてしまう。馬鹿みたいだ。
スレッドの中身は思った以上に現実的だった。由来も目撃談もほとんどない。代わりに、日時と場所の話が淡々と積まれている。
書き込み主のハンドルネームは「風鈴」。
過去ログを遡ると、火曜日に「白亜の琴、貰った」と書いていた。何度かオフ会を仕切った形跡もある。「いつもの面子で」とか、「駐車場あるし」とか、常連同士の合図みたいな言葉が並んでいた。
今回の告知は短い。
「ほしい人が何人もいるから、譲る人はこっちで決めるね」
「明日の日曜日、いつもの場所で」
すでに何人かが名乗りを上げていた。馴れた調子で冗談めかして「真実知りたいわー」と書いている。軽い。軽いのに、俺だけが勝手に重く受け取っている。
画面から目を離して、師匠の顔を思い出した。
「見つけても、手は出さないほうがいい」
俺は唇を噛んだ。
じゃあ、見つけなければよかったのか。……でも、もう見つけた。見つけてしまったんだ。だったらせめて、この目で確かめたい。
自分の言い訳が薄っぺらいのは分かっていた。それでも指は動いた。新参がいきなり飛び込めば浮く。そうなれば、排除されるかもしれない。
俺は過去ログを遡って、「いつもの場所」がどこかを探した。
それは市内のファミレスだった。駅前から少し外れた、車がないと微妙に不便な場所。常連が「例の席」と呼んでいるのを見て、勝手に居心地が悪くなる。そこで誰かと会う自分を想像して、背中がむず痒い。
カレンダーを開いて確認したが、日曜日に予定はない。
俺は書き込み欄にカーソルを合わせたまま、しばらく動けなかった。送信ボタンの手前で、文章を消しては打ち直す。馴れ馴れしくもできないし、丁寧すぎても浮く。
結局、いちばん無難な形に落ち着いた。
「初めてですが、立候補いいですか」
送信した瞬間、部屋が急に静かになった気がした。ストーブの燃える音と、遠くの車の音だけが聞こえて、更新ボタンを押す指が、さっきより硬い。
しばらくして、風鈴から返信が来た。
「OK。日曜ね」
それだけだった。
俺はもう引き返せない感じがした。
こうして、「白亜の琴」争奪オフが決まった。
*
当日、俺は遅刻しかけた。
集合は午後三時。なのに二時四十五分の時点で、まだアパートの玄関で靴紐を結び直している。こういうときに限って手がもつれる。
自転車で駅まで飛ばし、改札を抜け、反対側の出口へ走った。構内の暖かさが一瞬だけ身体にまとわりついて、外へ出た途端に剥がれ落ちる。
ファミレスの駐車場が見えたとき、胸の奥が少しだけ軽くなった。看板の光が冬の空気に滲んでいる。ガラス越しに、明るい店内と家族連れのざわめきが見えた。
扉を押して中に入ると、温い空気と油の匂いが出迎えた。ドリンクバーの氷が落ちる音、食器の当たる音、子どもの笑い声。平凡で、だから少し安心してしまう。
「いつもの場所」は、奥の禁煙席だった。
スレッドの段階で薄々わかっていたが、やっぱり年齢層が若い。中学生から高校生くらいだろう。制服じゃないのに、制服の匂いがする。声変わりの途中みたいな声も混じっている。
一年前まで自分も高校生だったのに、たった一、二歳違うだけで空気が違う。俺のほうが場違いに見えるのが分かった。
先輩風を吹かせるのは苦手だった。そもそも、吹かせるほど立派でもない。だから大学生だと気づかれないようにしようと思った。口数を減らして、目立たないように。
テーブルに近づくと、誰かが気怠そうに言った。
「うぃーす」
俺は反射的に頭を下げた。
「……すみません。遅れました」
席に滑り込む。椅子の脚が床を擦って、妙に目立つ音がした。視線が一瞬だけ集まって、すぐに散る。なんとも居心地が悪い。
そこで、風鈴が言った。
「で、これなんだけど」
黒いフリルの服が、ファミレスの明るい照明の下でやけに浮いて見えた。レース、鎖、十字架。飾りが多い。奇抜な服なのに、着ている本人は何ともない顔をしている。
風鈴は椅子の横の荷物から、小さな白っぽい木箱を持ち上げた。表面が擦れていて、角が丸みを帯びている。骨董品の箱みたいだと思った。
「おぉ……」
小さな声が漏れて、すぐに歓声に変わった。
風鈴は箱を、ずい、とテーブルの中央へ押し出した。
「パパの友達からもらったんだよね。今日はこれをあげようと思って」
「一週間持ってたら真実が分かるらしーんだよね」
嘘か本当かより、面白いかどうかで喋っている口調だった。
「てかさ、白亜の琴って結局なに?」
誰かが聞いた。
「オルゴール」
風鈴は即答した。
「深夜、零時になると、きれいな音で鳴るの」
そう答えたのは、隣の凪だった。
凪も全身黒だった。風鈴の黒が洋なら、凪の黒は和だった。袖の形が少し違う。柄が沈んでいる。澄んだ目をしていた。
二人は顔が似ている。姉妹か――そう思うくらいには。
「え、中身どうなってんの?」
場の空気を軽くしたいのか、誰かが笑いながら蓋に手をかけた。
次の瞬間、凪がその手首を掴んだ。
「ダメ」
凪は真剣な目をしていた。
「……開けちゃ」
言いかけて止まる。止まったまま、手首を離さない。
「ったいな。そんな顔しないでよ」
止められた子が身を引く。そこで、テーブルの上が一度、静かになる。
誰かが、誤魔化すように言った。
「今、誰か通った」
別の誰かが笑って返す。
「霊か天使でしょ」
その言葉で、俺だけが気まずくなった。師匠が脳裏をよぎる。
――見つけても、手は出さないほうがいい。
この場の軽さの中で、師匠の言葉だけが嫌に重く浮いた。
やがて風鈴が、空気を破るみたいに笑って言った。
「じゃあさ。この中で、欲しい人?」
沈黙する。変に長い。笑い声も出ない。さっきまでのテンションが嘘みたいに落ちる。
白亜の琴に出会えたなら、知りたい真実がわかる。そのためには一週間、持っていなきゃならない。何があっても。
この言葉の意味が分からないほど、馬鹿じゃないということなのか。
あるいは、所詮、物見たさで集まっただけの腰抜けたちか。
どちらにせよ、この雰囲気で「欲しい」と言えるやつなんていないだろう。
俺を除いて。
風鈴がもう一度、少しだけ声のトーンを落として聞いた。
「誰もいらない?」
そこで俺は手を挙げた。
「……もらってもいいですか」
全員の視線がこちらに集まる。
胸の奥が熱くなった。どこか誇らしい気さえする。
「いいね かっこいい~」
風鈴がニッと笑った。
「お兄さんにあげるね。あ、箱も。開けちゃマズいみたいだから」
箱が俺のほうへ押しつけられた。意外に重い。中で何かが動く気配はないのに、そこに確かな存在感がある。
「期限は一週間だって。でも、まぁ、ねじでも探せば、もうちょい早まるかもね」
冗談みたいに言って、風鈴は笑った。
そのあとは普通のオフ会らしく、くだらない雑談と薄いノリが続いた。俺はぽかんとして聞いていた。なんとも無価値な時間だった。
結局、箱には誰も触れない。これのために集まったはずなのに。誰も“真実”の話をしない。さっきまで騒いでいた連中が、ポテトの塩加減で盛り上がっている。
解散になった時には、店の外はもう薄暗くなっていた。駐車場のアスファルトが冷たい色をしている。
箱を抱えて出ようとしたとき、背中から声がした。
「ねえ」
凪だった。
振り返ると、凪はテーブルの端に立っていて、俺の手元――箱を見ていた。
「本当にそれ、いいの」
口調は軽くない。抑揚が薄い。風鈴みたいに笑わない。
「本物だよ?」
なんだ、この子は。霊感アピールか。忠告でもしに来たのか。
俺が曖昧に返そうとした瞬間、凪が近づいてきた。耳元に顔が寄り、かかる息がひやりとした。
「気づかなかった?」
「会話中ずっと鳴ってたよ。あなたの名前」
俺は、ぞっとした。
「……ね、宗介さん」
なってた?
鳴るのって深夜、零時だけじゃないのか。
というか、なんで俺の名前を知ってんの。
え、怖い。どういうこと!?
言葉が喉に詰まって出てこない。凪はそれ以上何も言わず、すっと身を引いた。さっき蓋を止めたときと同じ、無駄のない動きで。
そのまま凪は店を出ていった。
俺はとっさに、その背中を追いかけて窓の外を見た。
駐車場の向こうで、風鈴がこちらを向いていた。
街灯の光の下で、黒い服が夜に溶けそうになっているのに、顔だけがやけに白く見える。
目が合った気がした。
風鈴は、笑っているのか、笑っていないのか分からない顔で、じっと俺を見ていた。
これ、もしかして、俺やばいの?
*
家に帰るまでの道が、やけに長く感じた。
ファミレスの明るさから外へ出た瞬間、空気が一段冷えた。頬の皮膚がきゅっと縮む。吐く息が白く伸びて、街灯の下で薄く揺れた。箱を抱えた腕がじんわり痛い。木の重みが、骨の奥まで伝わってくる。
停めていた自転車にまたがる。ハンドルを握る指が少しかじかんでいた。路肩の凍りかけた水たまり。コンビニの自動ドアの開く音。すれ違う自転車のライト。全部が現実のはずなのに、箱ひとつ抱えているだけで、世界が少しよそよそしい。
ペダルを踏むたび、箱の重みが腕に返ってくる。落とさないように意識するほど、肩に力が入った。夜道は見慣れているのに、今日は信号待ちの時間まで長く感じる。
アパートの階段を上がると、廊下の電球が一つ切れかけていて、点いたり消えたりしている。普段なら気にも留めないのに、その瞬きがやけに気持ち悪かった。
鍵を回して部屋に入る。蛍光灯の紐を引くと、白い光がじわっと広がって、いつもの散らかった机が現実に戻ってきた。レポートの紙。開きっぱなしの教科書。飲みかけの缶。コップの輪染み。生活の匂い。
その真ん中に、俺は箱を置いた。 途端に、部屋が少し狭くなった気がした。箱の存在感が、空間を押し広げるようで。
近くで見ると、木箱は丁寧な作りをしていた。角は丸く面取りされ、蓋の合わせ目がぴたりと噛み合っている。安物の小物入れじゃない。どこかで長く使われてきた道具みたいな「ちゃんとした」感じがある。
指で縁をなぞると、木肌が乾いて冷たい。ワックスの匂いが微かにした。
中に本当に白亜の琴――オルゴールが入っているんだろうか。
噂には、箱に入っているとか、箱から出しちゃダメだとか、そんな注意書きはなかった。だから、凪が蓋を開けるのを止めたのが余計に引っかかる。冗談には見えなかった。
風鈴という少女に担がれたのかもしれない――そう思いかけて、今日の集まりを思い出す。
すると、今日の連中はどこか風鈴と凪目当てで集まっていたような気がする。少なくとも、あの場の男たちはそうだったのではないか。上下黒で揃えた、目立った二人。そしてなにより可愛かった。それだけで男子が惹かれる理由になる。
俺も同じだった、と言われると腹が立つ。けれど否定できるほど清廉でもない。箱だけじゃなく、あの二人にも目を引かれたのは事実だ。
箱の蓋に指をかける。
開けてしまおうか。
木の継ぎ目に爪が引っかかる。少し力を入れれば、簡単に持ち上がりそうだった。
どうするか迷った末に、やめた。
一週間あるしな。
そう言い訳する。つまり逃げたのだ。師匠の声がまだ頭の奥に残っていた。
「見つけても、手は出さないほうがいい」
俺はそれを、自分に都合よく解釈していた。まだ手は出していない――と。
「深夜、零時になると、きれいな音で鳴るの」
凪の言葉を思い出す。深夜、零時になれば勝手に鳴るという。なら、俺が何かをする必要はない。開けなくてもいい。触らなくてもいい。鳴ったら、そのとき考えればいい。そうやって自分を納得させた。
箱を机の横に置き、俺はベッドに寝転んだ。天井のシミを眺めながら夜を待つ。待っているつもりだった。寒さで肩が縮こまって、いつの間にか目を閉じていた。
目が覚めると、ついたままの照明が目に痛い。どうやら眠っていたらしい。時計を見ると十一時五十八分。間もなく零時になる。危うく寝過ごすところだったとホッとした。
胸が少しだけ高鳴る。どんな音がするのだろう。きれいな音、と凪は言った。小さいはずなのに、名前だけは大げさで――白亜の琴である。口の中で転がすと、しばらくは頭から離れないフレーズだ。きっと清澄優美な響きなのだろう。
俺は息を殺して待った。
零時。
何も鳴らなかった。
拍子抜けした。どれだけ耳を澄ませても、聞こえるのは冷蔵庫のモーター音と遠くを走る車の音だけだった。秒針の音だけが大きい。部屋の沈黙が、少しずつ厚くなる。
俺は箱のほうを見ないようにして電気を消した。その日はそれで寝た。
そして、白亜の琴は次の日も鳴らなかった。
やっぱり風鈴に担がれたのだ。そう結論づけたくて、俺はすぐにフォーラムを覗いた。騙された俺を、あいつらが笑っているんじゃないかと思ったからだ。
けれど書き込みは増えていなかった。スレッドは止まったまま、最後のレスだけが残っている。風鈴は元々書き込みが多いわけじゃないし、凪はそもそも発信しない。更新がないのは不自然でもない。
……一週間が経ってから、まとめて笑いものにする魂胆かもしれない。
そう考えると、逆に落ち着かなくなった。
俺はログを遡った。最初から読み返して、どこかに見落としがないか探す。
そこで一つだけ引っ掛かった。
「白亜の琴、貰った」
そう書き込まれたのが火曜日で、「白亜の琴を譲る」と言って集まったのがその週の日曜日。六日目だった。
あと、たった一日で一週間になったのに……。
なぜ、一週間目前で手放したのだろうか。
そんな小さな疑問が、指先に残るトゲみたいに刺さったまま、その日は師匠と心霊スポットに行った。
その日もこれでもかというくらい怖い体験をして、俺はビビり散らした。家に帰り着くころにはヘトヘトだった。
階段を上がり、鍵を開け、出迎えてくれる人もいないまま、すたすたと上がる。
明かりをつけてふらっと部屋を見回したとき、机の前で、俺は立ち尽くした。
箱が、パソコンの前に置いてあった。
ぞくりとした。
――置いた覚えがない。
あのあと、箱をパソコンの前に置いただろうか。そんなはずはない。俺は確かに引き出しにしまった。膝の上に乗せたときの重さも、置き場所を選んだ感触も覚えている。少なくとも、そう思っていた。
箱はキーボードの手前に、妙に行儀よく収まっていた。まるで、俺がそこに来るのを待っていたみたいに。
気持ち悪くて、俺はすぐに布団に潜り込んだ。頭までかぶる。呼吸が布の中で湿って、耳の奥が自分の鼓動でいっぱいになる。
耳を澄ませたが、その日も音は鳴らなかった。
ただ、箱がそこにある気配だけが、部屋の中に残っていた。
四日目。大学から帰ると、部屋の空気がいつもより冷たく感じた。暖房を入れていないから当たり前なのに、理由はそれだけじゃない気がした。
机の横に、あの箱がある。俺はそれをテーブルの上に乗せた。
白亜の琴は鳴らない。
もう三晩、待って、待って、待って。何も起きなかった。
冷静に考えてみる。……と、口の中で言い訳みたいに呟きながら、俺は箱と向き合った。
二人の言葉を思い出す。
「オルゴール」
「深夜、零時になると、きれいな音で鳴るの」
そして、あの速い動き。
「ダメ。……開けちゃ」
――開けちゃいけない。なのに、どうして中身が分かるんだ。
オルゴールだと断言できるのは、鳴ったからだ。音を聞いたからだ。
でも鳴らない。
オルゴールなら仕組みはいくつかある。手で回すタイプ、ぜんまいを巻くタイプ、ディスクを差し替えるタイプ。いずれにせよ、こちら側が何かしないと鳴らないのが普通だ。
けれど、触っていないのに深夜、零時に鳴る。そこが怪談の核じゃないのか。勝手に鳴るから“白亜の琴”で、真実を告げるから噂になる。わざわざ俺が手を加えて鳴らすなら、話の格が下がる気がした。
鳴った、と言った彼女ら。鳴らない、と困っている俺。
俺と、あの二人の間に、何か決定的な違いがあるんじゃないか。
そう考えて――俺は、ふと一つの言葉に違和感を覚えた。
そこで俺は気づいて箱を開けた。
蓋はあっさり外れた。拍子抜けするほど抵抗がない。木が擦れる乾いた音がして、中身の白が見えた。
そこには白い素材でできた小さなオルゴールが入っていた。骨のような白さで、陶器でもプラスチックでもない。指先で軽く叩くと「コツ、コツ」と硬い音が返ってくる。
そして――見た瞬間に分かった。
ねじがあるはずの場所に、穴が開いている。
つまみがない。回す部分がない。引きちぎられたみたいに、ぽっかり欠けている。壊れていた。
やっぱりだ。
俺は息を吐いて、鼻で笑った。
あの日、風鈴は言った。「ねじでも探せば」
つまり、中のオルゴールがねじ式であることを知っていたということ。
それだけじゃない。もし“一週間の期限が早まる”という軽いジョークなら、「ねじでも回せば」と言うはずだ。
それを「探せば」と言った。
最初から、欠けていることを知っていたのだ。
人には「開けるな」みたいな顔をして止めておきながら、自分たちは開けているじゃないか。何が「深夜、零時に鳴る」だ。くだらない。
馬鹿馬鹿しくなって、俺は白いオルゴールを引き出しにしまった。
その夜だった。
激しい頭痛に襲われた。こめかみの奥を一定のリズムで拳打されているみたいな痛み。目を閉じても、痛みが治まらない。
ふわふわとした意識の中で、音がした。
「ギギギ」
古びた金属がこすれるような音。さびれた何かを、ゆっくりとねじっているような音。
「ギギギ」
「ギギギ」
頭が働かないのに、その音だけは鮮明だった。
それは引き出しのほうから聞こえる。
まさか、と思う。けれど体が動かない。布団から出ることを、身体が拒んでいる。
そのうち、甲高い音がした気がした。オルゴールの薄い金属の歯が震えるような……。
そこで気づくと朝だった。
頭が重い。汗をかいている。喉が乾いている。
夜のことを思い出しながら、俺は引き出しを開けた。
そこには白いオルゴールがあった。
ぞくりとした。
そこにはオルゴールしかなかった。
俺は部屋を見渡した。
箱は、どこにやった?
昨日、白亜の琴を引き出しにしまった。そのとき箱に戻さなかったのか。……だめだ、思い出せない。
引き出し。棚。パソコンの前。ベッドの下。
焦って探して結局テーブルの下で見つけた。
きっと、取り出したときに無造作に置いたのだろう。そういうことにして、俺は大学に向かった。
帰宅してから、俺は白亜の琴をテーブルの上に出した。
白亜の琴。
その名前の通り、骨のような素材でできている。指先でこずくと「コツコツ」と乾いた音がする。ずっしりとした重さは、中に金属の基板でも詰まっているからなのだろうか。
昨夜を思い出す。ずきずきと痛む頭。薄い意識。夢とも現実ともつかぬ世界で、確かにねじを回すような音を聞いた。それは引き出しのほうから聞こえた……気がした。
あれは何だったのか。
俺の頭が作り出した幻聴か。白亜の琴が聞かせた音か。
目の前のオルゴールは沈黙している。こいつにはねじがない。
……あぁ、ここにねじがあれば。
もう一度、あの曲を聞きたい……。
そこで、俺はぞっとした。
俺は無意識に白亜の琴を持ち上げ、ねじを回そうとしていた。ねじなんてないのに。
もう一度、あの曲を聞きたい?
俺は曲を聞いていない。聞いたのは「ギギギ」という摩擦音だけ。曲なんて知らない。
怖くなった俺は、逃げるように布団に入った。
その夜も頭痛がした。昨日よりも激しい。釘を打ち付けられるようなズキズキという痛みにうなされながら目を閉じる。心なしか体調も悪い。朦朧としてきた。
白亜の琴に出会えたら……。それは真実を告げるオルゴール。
真実とは何だろう。俺の知りたい真実は――。
あぁ、回さないと。
手のひらに、ずしりと重い感覚が落ちてきた。右手に、飛び出た冷たいつまみがある。
俺はそれを握って、ゆっくり回す。
「ギギギ」
「ギギギ」
そこでハッとして目が覚めた。
汗をかいていた。手には嫌な感触だけが残っている。金属の冷たさ。ねじの硬さ。回した感触。
あれは――。
そう思ってとっさにテーブルへ視線を向けた。
そこには、箱から出た白亜の琴があった。
息が詰まる。
違う。テーブルになんか置いてない。俺は出していない。箱にしまって、引き出しに戻した。……はずなのだ。
はずなのに、その部分の記憶だけが抜け落ちている。残るのは手のひらの重さと、金属の冷たさだけ。
「気づかなかった? 会話中ずっと鳴ってたよ。あなたの名前」
「……ね、宗介さん」
凪の言葉と、最後に見た風鈴の視線だけが、頭蓋の中を怪しく回る。
吐き気がこみ上げた。
今日で六日目。
風鈴が手放した六日目だった。
俺は居ても立ってもいられず、師匠の家へ向かった。
夜の冷気がまだ残る時間だ。明けきらず空も暗い、頭の中がガンガンと痛む、視界の端が薄く霞む。箱を抱える腕が重い。
いくつもの道を辿り、師匠の部屋の前で一度だけ呼吸を整えた。
はた目にも、まったく迷惑な話だと思った。夜も明けない時間にこんなものを持って、突然現れるなんて。
それでも……。
ノックをすると、すぐに鍵が開いた。
師匠は俺の顔より先に、腕の中の箱を見た。
そして、あきれた顔をした。
口元がほんの少しだけ歪む。眉も動かない。表情が大きく変わるわけじゃないのに、それだけで胸が沈んだ。――やっぱり、という顔だった。
「……とりあえず、上がって」
師匠はそう言って、俺を通した。
部屋の中は相変わらず生活感が薄い。散らかっていないわけじゃないのに、物の置き方が静かだ。空気が乾いている。紙の匂いがする。
俺が座るより先に、師匠は台所へ行き、湯を沸かし、茶を出した。
その間、俺は箱をテーブルの上に乗せて動けなかった。
師匠は湯気の立つ湯呑みを俺の前に置き、自分の分を持って向かいに座る。
そこでようやく、俺はことの経緯を話し始めた。
フォーラムの噂。オフ会。風鈴と凪。箱。鳴らない夜。
四日目に蓋を開けたこと。欠けたねじ穴。頭痛と夢。目が覚めたら机の上に出ていたこと。今日は六日目だということ。
言葉にするほど、自分の浅はかさが浮き上がる。途中で「……馬鹿ですよね」と言いそうになって、飲み込んだ。
師匠は黙って聞いていた。相槌は打たない。時々、湯呑みに口をつけるだけだ。最初から先が見えているみたいに。
全部話し終えると、師匠は一度だけ頷いた。
「話は分かった」
そこで言葉を切る。
表情は変わらないのに、圧だけが増した。
“私は忠告したよね”という圧だ。声にしないのが、余計に痛い。
俺は耐えきれなくなって、頭を下げた。
「……俺が間違ってました」
喉がひりつく。情けない声が出る。
「師匠、なんとかしてください」
師匠は小さく息を吐いた。ため息だった。
「Hopeless... but you’re mine.」
英語が口から滑った。俺は自慢じゃないが英語は得意じゃない。どういう意味かは分からなかった。
けれど、それが不肖の弟子に向けられた師匠の優しさであることは分かった。
師匠は箱に視線を落とし、指先で蓋に触れた。躊躇がない。
蓋を開け、白亜の琴――白いオルゴールを取り出す。
師匠はそれを掌に乗せ、しばらく見つめた。目で撫でるように、輪郭だけを確かめている。
「これ、なにでできてると思う?」
唐突だった。俺は分からず答えた。
「……陶器じゃないです。プラスチックでもない。石みたいに硬い何か……」
師匠は首を横に振る。
「違う」
そして、そこで初めて断言した。
「これは、人骨でできている」
声が少しだけ低くなる。
「人の業だ」
その一言でこの場の空気が一段締まるのを感じた。
「……“業”って言ったのはね、なにも善悪の話じゃないんだ」
師匠は白いオルゴールを掌に乗せたまま、動かずに淡々と言った。
「原因と結果の話でもない。もっと手前。人間が世界に触れた瞬間に、必ず残してしまう“痕跡”みたいなもの」
「私たちは世界をそのままの形で受け取れない。切り分ける。内と外、山と海、天と地、生と死、聖と穢れ。意味づけをすることで、自分の立ち位置を確かめて、安心する」
「宗教や風習の手順っていうのは、その切り分けを社会の形にしたもの。個人の感情じゃなくて、世界の綻びを縫うための縫い方だよ」
師匠の目線は掌のそれに落ちている。けれど言葉だけは、真っ直ぐこちらに届く。
「本来、死体は弔う。焼く、埋める、納める。順序があるのは、気持ちの整理のためだけじゃない。境界を固定するためなんだ。こっちとあっちが混ざらないように」
「でも、人間って時々、その順序をわざと踏み外す。踏み外して、踏み外した場所に意味を作る。境界そのものを土台にする。あっち側とこっち側、その間だね」
師匠はオルゴールの縁を指でなぞった。無機質な白が光を吸う。
「骨はその代表だよ。仏教でもキリスト教でも、遺骨が“聖”に寄る文化がある。舎利や聖遺物。箱に納めて祀って、そこに人が集まる。骨が“場の芯”になる」
「一方で、死は穢れとして避ける。触れたら清める。家に長く置かない。納骨のタイミングに理由を付ける。……これも同じ。境界の管理だ」
「面白いのは、同じ骨が“聖”にも“穢れ”にもなるってこと。どっちに転ぶかは人の都合次第。畏れ、敬意、罪悪感、欲、救い。それが増すほど、人間の意味付けが強くなる」
師匠は少しだけ間を置いた。
「――でね。そこから先に進む人がいる」
「祀るだけじゃ足りない。怖がるだけでも足りない。死に強要する。死に答えさせたい。死を道具にしたい。そういう狂気は、昔からずっとある」
「骨を鳴らすものにしたり、器にしたり、護符や呪具に組み込んだりするのは、その延長。死を遠ざけるんじゃなく、生活の中に引きずり込んで飼い慣らそうとする」
「そうすることで生物としての域から脱したいのかもしれない。『死をも超越したものの側』に立ちたいってね。……立てるわけがないのに」
師匠は何かを憐れむような表情を浮かべる。
俺は唾を飲み込んだ。
「この“白亜の琴”も、その系統だ。音の器にして、『真実を告げる』なんて札をぶら下げてる」
「真実って言葉は便利でしょ。宗教でも裁判でも、真実は最後の札になる。人はいつでも飢えている。自分という存在に。だから真実を知りたがる」
「でもね。たいていの人が欲しがってるのは“真実”そのものじゃない。真実という形をした安心だよ。自分の中の揺れが止まる言葉。世界が一枚に見える言葉」
「だから真実は、しばしば暴力になる。矛盾を一つの答えで塗り潰すからね。……それを快楽として覚えると、手放せない」
師匠の瞳に、怪しい光が灯っている気がした。
「“白亜”って名前も同じ。白い、清い、骨っぽい。触る前に連想を誘導してる。名付けた時点で、もう半分回されてる」
師匠は欠けた穴に指先を寄せた。
「じゃあ、なんで人骨で作るのか。それは、一線を越えるためだよ。木や石でも形は作れる。でも骨は違う。元が人間だからね。そこには意識があった。魂がね。……魂の行方がどこか、なんてのは議論が尽きないけど……」
「重要なのは、骨が『かつて私だった』という質を残してるってこと。素材なのに人格の影が剥がれない。だから器として強い」
「人骨を削って道具を作るっていうのは、作った側にとっても“罪の現存”になる。そうして一線を越えれば、戻れなくなる。それが大義名分のない個人的な探求心なら、なおさらね」
「そして人は、戻れなくなった地点で初めて、自分が何者かを確かめられる気がする。……その錯覚が、狂気を育てる」
師匠は欠けた穴を軽く叩いた。
「ねじがないのも、ただの破損じゃない可能性が高い。ねじは“回すための口実”になる。回す行為は儀式になるし、責任も持ち主に移る」
「自分で回したんだから、聞いたのは自分でしょ――って、犯行の認識を与えられる。怖いけど、すごく人間的だ。やりたいのに、自覚は持ちたくない。そんな考えを苗床にしている」
師匠は湯呑みに口をつけ、静かに息を吐いた。
「一週間って区切りもいやらしい。七日って数字は弔いの感覚に近い。初七日とかね。風習の文脈が勝手に背中を押す」
「つまりこれは、弔いの形をした呪具だ。慰めるふりをして縛る。綺麗な音のふりをして、不協和音を聞かせる。仏教で言うなら、不浄の音とでもいうべきかな」
師匠はオルゴールを置かず、まだ掌に乗せたまま言った。
「……君の頭痛も、記憶の抜けも、『回したい』って衝動も、全部それに沿ってる。物が暴れてるんじゃない。君の“真実への飢え”を、手順に変えて動かしてる」
師匠がそこで笑った気がした。
「こういう代物を見るたびに思う。興味っていうのは根源的な業だよ。知りたい、確かめたい、触れたい――その衝動が、世界の縫い目をほどく」
師匠の視線が、初めて俺に戻ってきた。
「“業”っていうのはね、踏み外した人だけじゃなくて――拾った人にも伝染する」
「……君、拾ったでしょ」
俺は何も答えられなかった。
師匠の「見つけても、手は出さないほうがいい」という言葉の意味を、いまさらになって理解する。
師匠は白いオルゴールを掌に乗せたまま、しばらく黙っていた。考えている、というより、頭の中で“手順”を並べ替えている顔だった。
やがて、ぽん、と軽く机に置く。
「……終わらせよう」
声は静かだった。
師匠は立ち上がり、押し入れを開けた。畳まれた布団の奥から古い風呂敷包みを引っ張り出す。布の角が擦れて、埃っぽい匂いが一瞬だけ立った。
包みを広げると、いくつかの品が収まっていた。どれも小さいのに、それだけで空気が重くなる。息が詰まるようだ。
師匠は机の上に並べる。
黒い組紐。
赤黒い染みの残った布。
掌に収まる小さな袋。
用途は分からない。ただ、師匠が押し入れの奥に隠していた――その事実だけで十分だった。
俺が言葉を失っていると、師匠は手を止めずに言った。
「これが何かは説明しない」
口調は柔らかい。柔らかいのに、命令だった。
「今はね。……君、相当まいってる」
そう言って、師匠は黙々と作業を始めた。
布を広げ、白亜の琴を包む。白が消えていく。次に組紐で縛る。結び方は見たことがない。ほどけない結び目じゃない。“ほどく順番”がある結び目――そういう印象だった。
そのときだった。
玄関の扉が、どん、と叩かれた。
俺は驚いて肩が跳ねた。来客の予定なんて聞いていない。叩き方が雑で、苛立ちが混じっている。
どん。どん。どん。
師匠は手を止めない。視線も上げない。
「返事しないで」
小さな声だった。けれど、それだけで体が固まった。
玄関の音が止むと、今度は窓が叩かれた。がん、がん、と鈍い音。カーテン越しに影が揺れた気がして、俺は思わずそちらを見そうになる。
「見ないで」
師匠が声で制止する。
「見ると意識に入ってくる」
さらに、電話が鳴り出した。部屋の隅の固定電話。古いベルの音が室内に響く。
師匠はようやく顔を上げた。
「私以外の言葉に反応しないで」
その目は恐ろしいほどに真剣だった。
俺の心臓が、ベルと同じ間隔で跳ねる。
そして、耳鳴りが来た。
キーン、という高い音が頭蓋の内側から立ち上がって、鼓膜が押し広げられる。目の前が一瞬だけ白くなる。痛みじゃない。痛みの手前の、耐え難い圧だ。
俺が思わず耳を押さえると、師匠が低く言った。
「反応しないで」
それは念押しの言葉だった。
師匠は最後に、小さな袋へ滑り込ませる。口を絞り、組紐の端を一度だけ引く。そこで手が止まった。
師匠は少し首を傾ける。
「……うん。これでいい」
耳鳴りの残る中、玄関や窓の音は遠のいたり近づいたりしている。電話のベルも途中で途切れてはまた鳴る。
俺は“何かが来ている”のを肌で感じていた。理由はきっと白亜の琴のせいだ。ざらついた空気が体調不良に突き刺さる。ただ、そんな中でも師匠が平然としていることだけが救いだった。
包み終えた白亜の琴は、さっきまでの威圧感が消えていた。布と紐と袋に隠されて、ただの小さな塊に見える。けれど、その存在感だけは増している。
師匠はそれを風呂敷で包み直し、立ち上がった。
「行くよ」
「……どこに」
師匠は答えず、玄関で靴を履きながら言った。
「海」
玄関を開けた瞬間、外の廊下の空気が冷たく刺さった。さっきまで叩かれていたはずの扉の向こうには誰もいない。静かすぎて逆に気持ち悪い。
車に乗り込むと、エンジン音にホッとする。だが、安心しかけたところで耳鳴りがまた強くなる。さっきの不協和音が車内という狭い箱の中で増幅する。
どこかでベルが鳴った気がした。車の中で。そんなはずはないのに。
俺が身をすくめると、師匠がハンドルを握ったまま言った。
「気にしないで」
「……でも」
「返事しない。反応しない」
師匠の声は冷静だった。
夜のほうが近い時間。車を飛ばした。街の灯りが後ろへ流れていく。助手席の俺は風呂敷包みを膝の上に乗せ、両手で押さえていた。
耳鳴りは消えない。ときどき車の外から“叩く”みたいな音が混ざる。風の音かもしれない。小石が当たったのかもしれない。そう思おうとして、思い切れない。
窓を少し開けると、冷たい潮の匂いが入り込んだ。海が近い。見えないのに分かる。
堤防の脇に車を停め、外へ出る。風が強い。まだ冬の海は黒くて、波の音だけが大きい。
師匠は躊躇なく堤防へ歩き、風呂敷包みを抱え直した。
「視線を逸らして」
そう言われて、俺はすぐに視線を逸らした。師匠の横顔だけが、街灯の端の光で薄く切り取られる。
布がはためき、紐が擦れる音。師匠が何か短い言葉を呟いた気がしたが、風に消えた。
次の瞬間、鈍い水音がした。
ぼちゃん、ではない。もっと重い……沈む音だった。まるで海底から手が伸びてきて引きずり込んだような。
師匠は海面を見下ろしたまま、しばらく動かなかった。波が寄せては返す。何事もなかったみたいに、黒い水が揺れる。
やがて師匠が、ふっと息を吐いた。
「……これで終わり」
少し間があって、師匠は続けた。
「海に帰した」
俺は喉の奥で、何かが引っかかったまま立っていた。終わり、と言われても実感が湧かない。
「……どうして海なんですか」
言ってから、自分の声が情けなく聞こえた。師匠は風の中で髪を揺らしながら、こちらを見ずに答えた。たぶん俺を安心させるための短い説明だった。
「海は生命の母、って言うでしょ」
「空や土の中じゃだめ」
「空は遠すぎるし。土は近すぎる」
「それに、空も土もね……道の先にしかない」
道。師匠がよく使う言葉だ。
「だから道を外れたものは、海なんだよ」
師匠は夜の海面に視線を落としたまま、淡々と言った。
「始まりの場所に」
「……ね。帰してしまえばいい」
その説明に、なぜだか納得してしまった。理屈として正しいかどうかじゃない。師匠がそう言うと世界の形が一枚に戻る感じがした。呼吸が少しだけ楽になる。
「これで実態を持った怪異は、単なる都市伝説になった」
師匠はそこで一度俺を見た。
「ところで、君は何の真実が知りたかったの?」
そこで俺はハッとする。考えていなかった。
何も考えてませんでした、と答えると師匠は「ふーん」と言って空を見上げて続けた。
「白亜の琴に出会えたら、それは真実を告げる、ね。」
ふっ、と鼻で笑って「真実なんて、ろくなもんじゃないね」と切り捨てた。
師匠は手をポケットに入れて、踵を返した。
「帰ろうか」
俺は頷いた。
車に戻ると、エンジン音がやけに現実的だった。暖房がぬるい風を吐き出す。フロントガラスの向こうを、街灯の光が流れていく。
耳鳴りはさっきより弱い。窓を叩く音も、ベルの音も、もう聞こえない。
助手席の俺は、いつの間にか肩の力が抜けていた。師匠の横顔を見ているうちに、瞼が重くなる。
そうして帰りの道中、俺は安心して寝てしまった。
*
それから一週間が経ったころだった。
久しぶりにフォーラムを覗くと、例のスレが上に上がっていた。新しい書き込みがついている。
「あれって、どうなった」
短い文だった。
画面の向こうの空気が、またあの日に戻る。
少し間を置いて、別の誰かが続けた。
「お兄さん、生きてるかな」
俺はカーソルを点滅させたまま、しばらく迷ってから打った。
「まぁね。」
すぐに返信がつく。
「真実は聞けた?」
俺は息を吐いて、正直に打ち込んだ。
「いいや。何も答えてくれなかったよ」
「ガセネタだったかー」
「お疲れー」
軽い言葉が流れて、スレがまたいつもの雑談に戻りかける。
風鈴の名前は出てこなかった。
結局、あの子は最後まで姿を見せない。
この場所には、もう来ることもないな。
そう思ってブラウザを閉じようとした、そのときだった。
新しい書き込みが、ひとつ増えた。
凪だった。
「凄いね お兄さん 本物だ」
背中が冷えた。
確かに画面越しなのに、耳元で囁かれた気がした。
誰かがすぐに食いつく。
「本当に 何もなかったのか」
俺は画面を見つめたまま、指先を止めた。
何もなかった。――そう言えるほど簡単な話じゃない。
けれど、ここで言えることは何もない。
俺は、いつもの自分のやり方に戻った。
「知りたいなら白亜の琴に出会えばいい」
少しだけ間を置いて、続ける。
「きっと真実を告げてくれるさ」
そして、スレを閉じた。




