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帰送シリーズ  作者: 流浪
17/20

『邂逅』

 大学一回生の初冬だった。

 昼間の陽射しにはまだ温もりが残っている。けれど、一度影が伸び始めると、空気は急速に冬の気配を帯びた。街路樹のイチョウは最後の黄金色を振り絞るように枝にしがみつき、カサカサと乾いた音を立てている。その音は、過ぎ去りゆく季節の長い溜息みたいにも聞こえた。

 道行く人は長袖の上にもう一枚、薄手のコートを羽織って肩をすくめている。つい先月まで鮮やかだった赤や黄色は、いつの間にか色あせて、濡れた落ち葉になり、冷たいアスファルトにへばりついていた。

 その「冷たさ」が、最近は外だけじゃなくなっていた。

 耳の奥が詰まる。夜になると、意識が暗いほうへ寄っていく。耳鳴りみたいに派手じゃないのに、静かなところでだけ増える。背中が薄く冷えて、視界の端に黒い靄が残る。誰かの囁きみたいなものが、言葉になる手前で止まる。

 どうしてこうなったのか。

 思い当たる節はいくつもある。いくつもあるから困る。けれど、どれも俺が望んで首を突っ込んだことだ。だから、仕方がない。

 考えないようにしよう。そう決めて、日々を過ごしていた。

 その日、昼に買い出しに出た。洗剤と米、それから細々した生活物資。買うものが決まっていると、余計なことを考えなくて済む。買い物かごの重さが、現実に俺を引き留めてくれる。

 百貨店の通路は乾いていて、人の声が高く聞こえた。売り場を移るたび匂いが少しずつ変わる。化粧品の甘さ、衣料の新しい布の匂い、食品の油。俺はなるべく目当ての棚だけを見て歩いた。

 ふと、足が止まる。

 少し離れた売り場に、背の高い女性がいた。立ち方が綺麗で、周りが勝手に道を空けていく。見覚えがあるというより、体が先に覚えている。

 佳祐さんだった。

 降霊会に遅れて入り込んできて、俺の背中を叩いた女性。二度助けられた。けれど、師匠に襲い掛かり、「半端者」と罵ったことを忘れちゃいない。恩と嫌悪が、同じ場所に同じ重さで刺さっている。

 俺が立ち去るか迷っている間に、向こうがこちらを見た。

 目が合う。鋭い目だ。鋭く、迷いのない目。あの夜と同じだと思った瞬間、口元だけが少し崩れた。

 まずい、と思った時には遅かった。佳祐さんは、そのまま買い物かごを片手にこちらへ歩いてきた。人の間を縫うでもなく、まっすぐ来る。気づけば、数歩ぶんあった距離がもうなくなっていた。

「門弟じゃねーか。よぉ」

「……どうも」

 佳祐さんは買い物かごをちらっと見て言った。

「買い物か」

「はい」

「いいな。生活感がある」

 その言い方が妙に普通で、少しだけ肩の力が抜けた。

 佳祐さんは、かごの中身をもう一度見た。

「米、何キロだそれ」

「十キロです」

「一人で?」

「一人です」

「……意外に食うな」

「食いますよ」

 佳祐さんは鼻で笑った。

「まあ、食えるうちはいい」

 心配されているみたいだった。そういう言い方が、変に現実的で落ち着くのが腹立たしい。

 佳祐さんは洗剤のボトルに目をやって、指先でラベルを軽く弾いた。

「それ、匂い残るやつだろ」

「え」

「部屋に残る。寝る前に少し嫌な気分になる」

 言い切ってから、俺を見た。

「……困るか?」

「困るというか……」

「じゃあ薄いやつにしろ」

 なぜだか母親みたいなことを言う。俺はなんだか気が抜けた。

 そこで、言うべきことを先に言う。

「……門弟はやめてください」

 佳祐さんは肩をすくめた。

「悪い、悪い。えー……たしか……」

 ハンドルネームを思い出そうとしているようだった。意外だった。もっと雑に呼ぶ人だと思っていた。

 俺はそこで名乗った。

「宗介。三宅宗介です」

 名前を口に出すと、少し楽になる。そんな気がした。

 佳祐さんは短く頷いた。

「そうか、宗介」

 さらっと、呼び捨て。偉そうじゃない。不思議と嫌な感じはしなかった。

 それから、向こうも名乗った。

「私は江宮一輝だ」

 『佳祐』はやはり本名じゃなかったのか。それにしても『一輝』という名前も男っぽい。

 俺が黙っていると、佳祐さんが心を読むみたいに言った。

「名前、男っぽいって顔してるな」

 言い当てられて、俺はわずかに動揺した。

「……思いました」

「よく言われるよ。慣れてる」

 そこで俺は呼称を決めた。

「……佳祐さんで」

 佳祐さんは少しだけ口角を上げた。

「そっちの方が慣れてる」

 余計なやりとりがない。そういうところは楽だ。

 佳祐さんがぽつりと言った。

「喉、渇いたな」

 聞かせるでもなく、独り言みたいに。

 ――ここで、変に真面目に別れるのも嫌だった。

「……よかったら、近くのカフェでも」

 言った瞬間、余計だったか、と思った。勝手に距離を詰めた気がして、反省が遅れてくる。

 けれど佳祐さんは「あぁ」とだけ返して歩き出した。付いて来い、という背中だった。

 カフェに入ると、匂いが変わった。

 コーヒーの焦げた甘い香りに、香辛料みたいな刺激のある匂いが混じっている。食器の乾いた音。空調の冷たさ。さっきまでの売り場の匂いが薄まって、頭の中が少し整理された。

 店は洒落ていた。壁に銅色の小さなポットがいくつも並んでいて、カウンターの向こうには細い柄の小鍋みたいなものも見える。メニューには見慣れない文字がある。俺はよく分からないまま、「こういう雰囲気の店なんだな」とだけ思った。

 佳祐さんがメニューを指で叩く。

「これにする」

 店員に短く告げる。

 俺も同じものを頼んだ。合わせたのが、あとで自分でも嫌になる。でも、その場で別のものを選ぶ勇気もなかった。

 出てきたのは小さなカップだった。量が少ない。表面に薄い泡が張っていて、甘い匂いより先に、濃い苦味が鼻に立つ。

 口をつけた瞬間、俺は目を瞬いた。

 苦い。苦いのに、ただの苦さじゃない。とろりとしていて、舌に重みが残る。コクというのか、濃密さがあった。初めて飲むタイプの味だった。

 佳祐さんは俺の反応を見て、同じカップを一口だけ飲んだ。ソーサーに戻す音が、小さく響く。

「で、宗介。最近どうだ」

 遠回りせず、核心に触れてくる。そういう人らしい。

「……耳が詰まる感じがします。夜に」

「そうか」

 短い返事だった。

「白い烏もそうだ。この所、そういうのが増えてる。気をつけろ」

「……そういうの、って」

「説明しない。分かるだろ」

 分かる。分かるから、俺は何も言い返せなかった。

 佳祐さんが俺の手元を見て言った。

「お前、手」

「え」

「握ってる」

 俺は自分の手を見た。無意識に拳を作っていた。

「相当きてるな。まあ、無理もない」

 ふっと息を吐き、椅子に深く腰かけ、足を組む。

 俺は聞きたかったことを聞いた。

「……なんで、あの日あの場所にいたんですか」

 それは烏の日のことだった。

 佳祐さんは一拍、間をおいてから口を開いた。

「危険な奴だった。ああいう存在はほっとけない」

 淡々と言う。

「気配を追って、現場にたどり着いたとき、お前がいた。……お前と師匠のときも同じだ」

 そこで、少し考えるような顔をする。

「気配を追う中で、突然、空気が重くなった」

「止められなくなる前にと、鉄パイプを振り下ろしたら、あいつだった」

 佳祐さんは俺の目を見た。そして一言、

「悪かったな」

 と言った。

 言い方が素直で、逆に困る。

 そんな反応を見て、話題を変えるみたいに続けた。

「正直、ああいうものを見てどう思う」

 どう思う? そう問われ、あの日の光景を思い出して、肌が粟立つ。

「……怖いです」

「だろうな。まあ、怖いなら、あまり首を突っ込むなよ」

 佳祐さんは窓の外、遠くを見た。ガラスの向こうで、初冬の陽射しが白く反射している。

「力は、より強いそれに感化される」

「え?」

「あいつに、ついていくなら気をつけろ」

 それだけ言って、佳祐さんは言葉を切った。

 俺は手元のコーヒーをもう一口飲んだ。

 濃い苦味が舌に張りつく。飲み込んだあと、カップの底のほうに“沈むもの”があるのが分かった。粉、というより残りかす。最後まで飲んだら、きっとざらつくだろうな、と思う。

 佳祐さんが、それを見て言った。

「……コーヒーは好きか?」

 急に話題が変わって、俺は間の抜けた顔をしたと思う。それでもとっさに答えてしまう。

「……はい」

「そうか」

 佳祐さんは、カップを軽く揺らすでもなく、ただ置いたまま続けた。

「知ってるか。コーヒーって、最初は“眠気を覚ます飲み物”として広まったって話がある。羊飼いのヤギが赤い実を食って跳ねた、とか。修道士が夜通し祈るために飲んだ、とか」

 俺は頷く。どれも雑学として聞いたことがある。

 けど佳祐さんの口から出ると、少しだけ肌触りが違う。

「でもな。そいつはそんな便利な薬じゃない。……夜を長くする道具だ」

 言い方が引っかかった。眠気を飛ばす、じゃなく、夜を長くする。

「夜が長くなると、人は集まる。祈りでも、議論でも、暇つぶしでもいい。集まりゃ声が増える。声が増えると、余計なものが混ざる」

 佳祐さんは俺を見た。その目には、「分かるだろ」という圧がある。

「昔、コーヒーを禁じた国があったって話、聞いたことあるか。悪魔の飲み物だとか、反乱が起きるとか。理由はいろいろ言うが……結局、同じだ。人が夜に集まるのが怖かったんだよ」

 俺は、もう一口飲みかけて止めた。苦味が舌の上で膨らむ。

「……で。ここからが、私が聞いた話」

 佳祐さんは声だけを落とした。店内のざわめきが薄くなる。俺はなぜか、カップの縁から指を離せなかった。

「ある港町に、男がいた。とにかく多忙で、いつも仕事に追われてた。寝る時間も削って、削って……そのうち“寝る”って行為そのものが、生活から抜け落ちていった」

 佳祐さんは俺を見た。見たまま続ける。

「ある夜、男は店を見つける。小さなコーヒー店だ。看板に、でかでかと書いてある。『魔法のコーヒー』ってな」

 俺は思わず眉を寄せた。

 佳祐さんは、その反応も織り込み済みみたいに口元だけで笑う。

「胡散くさいだろ。男もそう思った。でも、その時はちょうど夜の休憩時間だった。体が先に吸い寄せられたんだろうな。ふらっと入った」

 淡々としているのに、絵が浮かぶ。

「洒落た雰囲気の店で、マスターは丁寧に『いらっしゃいませ』と言った。おかしなところはない。普通の店だ。だから男は逆に気になって聞いた。『看板のあれ、何ですか』って」

「マスターは言う。『うちのとっておきで、飲むと元気が湧いて出てくるんです。眠れない程に』」

「男は信じない。そりゃそうだ。するとマスターが言った。『今日はお客さんの初回デーなんで、一杯無料にしときますね』」

 佳祐さんの目が、ほんの少しだけ細くなる。

「男は飲む。飲むと……目が冴えた。冗談みたいに体が軽くなって、元気が湧いた。その日は仕事がうまくいった。結果、男はその効果に味を占めた」

 佳祐さんは一拍置いた。

「男は次の日も行く。その次の日も行く。そうして店に通い続けて……五日目のことだ。マスターが言う。『最近よく来てくれますね。こんなに通う人、初めてですよ』って」

 初めて。

 その言葉に小さな違和感を覚える。

「マスターは男を見て続ける。『かなり寝てないですね。顔色も悪い。今日はもう休んだ方がいい』」

 佳祐さんが少し声を落とす。

「男が言う。『それが、最近変なんだ』って」

 店の扉を大きな風が叩いた。

 ――バン。

 佳祐さんの語りだけで、俺は勝手に音を想像した。

「男はびくっとして呟く。『また、あれが出る』。何かに怯えている。眠れないことにじゃない。……眠ることを恐れている。そういう顔だった」

 俺は息を飲んだ。耳の奥が、また詰まった気がした。

「突然、男は顔色を変えて声を荒げる。『あのコーヒーを出してくれ。早く』」

「マスターはいつも通り、コーヒーを出す。……いつも通りにな」

 その“いつも通り”が気味悪い。

「男はそれを一気に飲み干す。熱いのも構わない。火傷することもいとわない。飲み終えた男は、さっきまでと打って変わって恍惚とした顔になった。安心したみたいに、ふわっと笑って……ふらふらと店を出て、どこかに消えていった」

 佳祐さんが指先でテーブルを軽く叩く。

「マスターは、男を見送った後、残ったコーヒーカップの上にソーサーをのせて、時計回りに三回、カップを回した」

 円を描くみたいな仕草。

「そしてひっくり返した。やがて……」

 佳祐さんは、そこでわずかに口を閉じた。

「浮き上がったものを見て、マスターが言った。――『あぁ、眠れなくなりましたね』って」

 それは心配でも嘆きでもなく、ただ事実を確認するような言い方だった。まるで最初から結末を知っていたみたいに。

「それから男は、二度と店に現れなかった。――町の人は『仕事で倒れた』とか『海に落ちた』とか、勝手なことを言う。でもマスターだけは、いつも同じ言い方をした」

「『眠らずに済む』じゃない。……『眠れなくなる』って」

 俺は、コーヒーをもう一口飲んだ。港町の湿った匂いが、鼻腔の奥で微かに漂った気がした。

「……そんな話、ほんとにあるんですか」

「さあな」

 佳祐さんは肩をすくめる。軽い仕草だった。

「ただ、一つだけ」

 言葉をそこで一度切る。

「マスターがやったのは、コーヒー占いってやつだ」

「占い……?」

「タシオグラフィー。トルコ式やギリシャ式のコーヒーを飲んだあと、カップの底や内側に残った粉の模様を読み取る占いだ」

 佳祐さんは俺のカップを指先で示した。

「ちょうど、そんな感じに残る」

「あれは、当たる当たらないって話じゃない。“遠い未来を当てる”っていうより、今のそいつの心が器に残るって考え方だ」

「心……」

「消えない後悔とか、潜在的な恐れとか。不安、執着、嫌悪。そういう無意識が器に残る。具現化された心を読むんだよ」

 端的な説明が、かえって頭に入りやすい。

「……どうやって読むんですか」

「まず“場所”だ」

 佳祐さんはテーブルの上で、指先だけで円を描いた。

「縁に近いのは直近の問題だ。逆に、底に近ければ深くなる。表立ったものじゃなく、昔から抱えてる根深い問題のことだな」

 佳祐さんは言いながら、カップの口のあたりを指先でなぞって見せる。

「真ん中は今の流れだ。どこに向かおうとしているのか、はたまた立ち止まっているのか、それとも揺れ動いているのか。そういう迷いの状態が読み取れる」

 佳祐さんの指先がカップの持ち手の脇で止まる。

「取っ手の近くは、自分の手元にあることを指す。生活や身近な関係、そこで起きることを表す」

 そこで、一拍間を置いた。

「で、持ち手の左側は、あまり良くない」

「左?」

「左は外界だ。外からの妨害や悪意、人間関係の軋みも、そこに出やすい」

 視線がカップの左側に向く。心なしか少し黒く沈んでいる気がして、嫌になる。

「次に“線”」

「線?」

「線は道を表す。流れと言い換えてもいい。繋がっているか、途切れているか。まっすぐか、曲がっているか。そういう筋道が見える」

 佳祐さんは、粉の跡に触れないぎりぎりの距離で指を動かす。なぞるというより、確かめているようだった。

「その線がどこから来て、どこへ落ちて、何にぶつかってるか。そのすべてがそいつの内部を映し出す」

 佳祐さんの指が止まる。

「で、最後が“形”」

 そこで少しだけ笑った。

「人は形に意味を見出す。そして、その意味に影響を受ける。そこが占いのいちばん厄介で、いちばん面白いところだ」

 俺は無意識にカップの縁を指でなぞってしまい、慌てて手を引っ込めた。

 佳祐さんはそれを見ていたはずなのに、何も言わないまま続ける。

「墓だと思えば墓になる。蜘蛛だと思えば蜘蛛になる。重要なのは、最初に何を見たかだ。そこに、そいつの心が出る」

 佳祐さんはカップの内側に目を落とした。

「それで“手順”」

「最後の一口は残す。粉が沈むまで待つ。次に、占いたいことを一つ決める。頭の中でいい。声に出さなくていい」

 俺は自然と夜のことを考えてしまう。

「カップにソーサーを被せて回す。時計回りに三回。回したら伏せる。ひっくり返して置いて待つ。熱が引くまで」

 そこで、佳祐さんの視線が俺に移る。

「お前が今、占いたいなら……やってみてもいいんじゃないか」

 俺はカップを見て、少しだけ迷って、決めた。

「……やってみます」

 佳祐さんは頷いた。

 俺はカップの口をソーサーで塞いだ。頭の中で、気になっていることを一つだけ置く。――最近ずっと続いている、この夜の異変は何なのか。

 そして手の中でゆっくり回す。一回、二回、三回。

 ひっくり返して、置く。

 浮き上がるまで待つ。

 佳祐さんは黙って見ている。止めない。急かさない。その沈黙が胸をざわつかせる。カップの下で何か良くないものが形作られるみたいで、目を逸らしたくなる。

「……開けていいですか」

「あぁ」

 俺はソーサーを持ち上げた。

 瞬間、息が詰まった。

 カップの内側に、黒い筋が一本、縁から底へ落ちている。途中で枝分かれして尾みたいに広がり、先が嘴みたいに尖っていた。

「……烏」

 口をついて出た言葉に、自分でぞっとした。

 形なんて曖昧なはずなのに、「烏」という言葉だけが、ぴたりと嵌まってしまう。

 体が固まった。指先が止まり、喉も鳴らない。カップがただの器じゃなく、自分の内側を映す鏡みたいに見えた。

「……っ」

 声にならない。出そうとすると、耳の奥が詰まる。あの夜から残っていた違和感が、一気に戻ってきた。

 佳祐さんが俺の手元を覗き込む。覗き込んだだけで、顔色は変わらない。

「そいつが――お前の不安の象徴だ」

 佳祐さんは、縁から底へ落ちる黒い筋に沿って、指先をゆっくり動かした。触れないまま、形だけを確かめるみたいに。

「縁から落ちてる。近い問題だ。それに底まで届いてる。以前から沈んでいたものが、少しずつ這い上がっているようだ」

 俺は息もできずに見ていた。

「途中で枝が分かれてる。出来事が分岐するか、二つ並んで来るか。……どっちにしても、一回じゃ済まないな」

 佳祐さんの視線が、嘴みたいに尖った先で止まる。

「で、くちばしが立ってる。これは“言葉による知らせ”だ。噂か、通告か、誰かの口から告げられる。なんにせよ、お前が聞き流せない話だ」

 俺はようやく息を吐いた。吐いた息が震えて、カップの縁に当たる。

「……これ、どうしたら」

 佳祐さんは、すぐには答えなかった。

 もう一度だけカップを見て、それから俺を見る。視線がまっすぐで、逃げ道がない。

 ――答えを求めるな。

 そう言われた気がした。

「……落ち着け」

 それだけ言って、佳祐さんは俺のカップにソーサーを被せるでもなく、ただ少しだけ横へ寄せた。

 “しまう”でも“隠す”でもない。見続けるな、という距離の取り方だった。

「今日は、ここまででいい」

 言い切って、椅子の背を押す。

「そろそろ行くか」

 俺も慌てて立った。立ち上がった拍子に、膝が机に当たりそうになって、手元が危うくなる。

 佳祐さんはそれを見て、何も言わずに先にレジへ向かった。

 会計はもう終わっていた。俺が財布を探るより早い。

「……俺も払います」

 佳祐さんは振り返らない。

「奢る」

「え」

「気にすんな」

 あっさりした声だった。

 それでも最後に、ほんの一瞬だけ口元が崩れる。はにかんだというより、緩めたみたいに。

 その瞬間、俺の中で佳祐さんへの印象が、ほんの少しだけ変わった。

 カフェを出ると、初冬の澄んだ青い空が裾のほうから茜色に溶け始め、冷たい風と共に夕暮れの気配が街を包み込んでいた。

 佳祐さんは歩道脇の灰皿の前で立ち止まり、ポケットから煙草を出した。火をつけて一口吸う。煙は細く上がって、すぐにほどけた。

「それでお前、どうしてあいつの弟子になった」

 煙が俺に向かわないように、顔だけ少し外へ向けたまま、横目でこっちを確認する。

「それ、答えないとだめですか」

「まあ、いいから。教えてみろ」

 俺は逡巡してから、ゆっくり言葉を探した。

「あの人が……知っている気がしたから……ですかね」

 佳祐さんは何も言わない。続きを待っているようだった。

「なんていうか……元々、視る機会が多かったんです。そういうの」

 言いながら視線が落ちる。

「でも、それって誰かに話せるものでもなくて。……普通は、やっぱり気持ち悪いじゃないですか。そういうのが視えるって」

 佳祐さんは答えない。答えずに、ただ俺を見ている。

「それで、あの人に会って……。あの人は、自分と同じものを見てるんだって」

 なぜだろう。話すつもりもなかったのに、言葉が続いた。

「それどころか、俺が視えないものまで視てて……。だから、思ったんです」

「この人なら、知ってるって。視方と、向き合う方法を」

 そこで俺は息を吐いた。

「それだけです。ただ、それだけ」

 師匠に寂しさを見たことは言わなかった。それだけは、言うべきじゃないと思った。

「そうか」

 佳祐さんが煙を吐く。

「まあ、人が人に続く理由なんて、いくらでもある」

 もう一度だけ煙を吐いて、続けた。

「だから、お前が師事することには何も言わん。けどな――入れ込みすぎるなよ」

 佳祐さんの視線の先で、夕焼けが沈みかけていた。遠くで燃えて、静かに落ちていく色。

「熱は人を縛る」

 声を一段落として言う。

「そうして、落ちる人間がこの街には多すぎる」

 俺はただ、「はい」と答えるしかなかった。

 紅の世界を落ち葉が舞う中、その言葉が胸の奥に刺さった。

「二人は……」

 どうなんですか、と続けかけて、そこでやめた。

 佳祐さんは空を見たまま、ぽつりと言う。

「同じさ」

 それきり、佳祐さんは何も言わなかった。

 俺はもう一度、夕焼けを見た。燃えるような朱色が、冷たい黒に静かに侵食されていく。その光景にどこか物悲しさを覚えた。

 やがて俺たちは歩き出した。佳祐さんの歩幅は俺より広い。少し早足で追いかける。

 追いついて横に並ぶと、佳祐さんは何でもないみたいに言った。

「宗介。今度どっか行こう」

 そう言いながら、ポケットの中を探って、小さく折った紙を取り出した。煙草の匂いが染みた指で、そこに何かを書き足す。ペンじゃない。たぶん、店でもらった短い鉛筆か何かだ。

 紙を俺に押しつけるみたいに渡す。

「……連絡しろ」

 受け取った紙には、数字が並んでいた。電話番号だ、と分かるのに、すぐには現実感が追いつかない。

「……分かりました」

 そう答えるしかなかった。

「おう」

 別れ際、佳祐さんは一度だけ振り返った。

「またな」

 軽い一言だった。軽いのに、どこか安心する。

 冬の空気はさっきより冷たい。

 けれど耳の奥に感じる詰まりは、少しだけ和らいだ。

 代わりに、カップの底の黒い筋が、目を閉じるたびに浮かぶ。

 覗き込むな。

 佳祐さんが、言葉にしないでやった“距離”だけが、俺の手のひらに残っていた。

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