『サークル』
大学一回生の時だった。
大学デビューを果たし春が夏へと変わる頃、俺はまだサークルを決めていなかった。入学して、授業が始まって、駅前でチラシを押し付けられて、学食の入口で「新歓来ませんか」って笑顔を浴びせられて。俺の部屋の机の隅には、薄い紙が束になって反っていく。
面倒だったのもある。人が多い場所が苦手なのもある。
でも一番大きいのは、俺の中で優先順位が変わってしまったことだった。
師匠。
俺がその人をそう呼び始めたのは、つい最近だ。呼び名が変わった途端に、自分の世界の輪郭が少しだけ硬くなった気がする。頼れる、とか、縋れる、とか、そういう安い言葉より先に、「この人の言うことは絶対だ」と思った。
だからサークルを決めるなら、せっかくなら同じところがいいと思った。安直だし、依存的だし、俺らしい。
昼休み。学食の端の席。
師匠はいつものように、騒がしい場所のど真ん中にいるのに、まるでそこだけが隔離されているような顔をして、ぬるいお茶を啜っていた。
「師匠って、サークル入ってるんですよね」
師匠は視線を上げもせずに言った。
「……オカルト研究会」
ぼそりと。息を吐くみたいに。
俺は思わず、「えっ」と声が出た。いかにも、という名前だ。期待と不安が同時に膨らむ。怪談を読んで、降霊会をして、夜の校舎に忍び込むような――。
師匠は俺の顔を一瞬だけ見て、すぐに目を戻す。
「あんまり、ためにはならないかもね。初歩的がすぎる」
「初歩的……」
「怖い話の集め方とか。民俗の風習とか。雑誌の切り抜きとか」
俺は少しだけがっかりした。師匠がいる場所なら、もっとこう……違う世界への入口みたいなものを想像していた。師匠が「初歩的」と切り捨てるなら、その場所は、俺にとっても退屈なだけなんじゃないか。
師匠は続けて言う。
「あんまり顔出してない。歓迎会くらいだね」
それが余計に、俺を落とした。師匠が顔を出さないサークル。師匠が用がない場所。
沈んだのがバレたのだろう。師匠は少しだけ間を置いて、
「……サークル、どうして聞いてきた?」
と聞いた。
「……俺まだ決めてないんですけど、師匠と同じところがいいです」
師匠は頷いたのかどうか分からない程度に首を動かして、
「まぁ、基礎知識とか、話は収集できるかな」
と言った。
そして、いつもの調子で、淡々と。
「見に行ってみる?」
俺は一もニもなく返事した。
「行きます!」
*
サークル棟は、大学の端にあった。講義棟から少し離れていて、足元の舗装が急に荒れる。建物はコンクリで、階段の角が丸い。長い間、いろんな奴が同じ角でつまずいてきた証拠だ。
廊下に入ると匂いが変わった。湿った紙と、コーヒーと、古い金属。あと、どこかでタバコを吸った残り香が壁に染み付いている。
階段を上がる途中で、俺は一度だけ耳の奥が詰まる感じがした。気圧がふっと落ちるみたいな。立ち止まるほどじゃない。でも、気づいてしまう程度には。
師匠は何も言わない。ただ、当たり前みたいに歩く。
二階の端の部屋の前で立ち止まった。ドアのノブに手をかける。鍵はかかっていない。
貼り紙があった。
『オカルト研究会 部室
入部希望者は声かけてね(歓迎)
※勝手に入室しない
※勝手に撮らない(録音含む)
※勝手に深夜に行かない(冗談)』
冗談、と赤ペンで書いてあるのに、なぜか冗談に見えない。
師匠がドアを開けた。
部室は狭い。六畳か八畳くらい。壁際の棚に雑誌、文庫、コピー資料が積まれていて、机の上には湯呑みと灰皿とカセットテープが転がっている。隅にテレビデオ。上にブラウン管のパソコン。キーボードの上に意味不明の付箋。
机の向こう側に、男が一人いた。三回生くらい。薄いメガネ。寝癖がそのまま。口元だけ先に笑うタイプのように見える。
そいつは師匠を見るなり、反射みたいに立ち上がった。さっきまでだらけていた空気が、一本締まる。
「……し、白百合先輩」
声の出し方が、いきなり「先生」に向けるトーンになる。どうやらここでは、師匠はそういう存在らしい。
師匠は目だけで軽く返事をした。面倒そうに。
メガネ男は俺に視線を滑らせ、すぐに会釈した。
「えっと……新入生? 入部?」
師匠が短く言う。
「うん。新入生。……入部希望」
それだけで、部室の空気が決まった。「師匠が連れてきた新入生」だ。誰も口にしないのに、そういう看板が勝手に吊るされる。
机の反対側で、女の先輩が顔を上げた。二回生くらい。ポニーテール。ノートにびっしり字を書いていて、目が妙に鋭い。
「え、白百合先輩が“連れてくる”って珍し。……弟子?」
言い方は軽いのに、目だけ本気だ。俺の心臓が一瞬跳ねた。
師匠は答えない。答えないまま俺を一瞥して、
「名前」
とだけ言った。
「三宅宗介です」
メガネ男が慌てて棚からノートを引っ張り出す。
「よし、入部届。名前、学部、連絡先。あ、連絡先、家電でもいいけど今どきは携帯か……」
その喋り方がいかにも「事務担当」だった。人当たりはいいのに、焦り癖がある。
ポニーテールの先輩が、俺の前にコピー用紙の束を置いた。
「これ、新歓用の“聞き書きテンプレ”。質問の順番が大事。まず場所、次に時間、次に“何が変だったか”。最後に“今どう思ってるか”。」
俺は用紙を眺めた。
――手順。
師匠が好きな言葉だ。
そのとき、テレビデオの前にしゃがんでいた男が振り返った。二回生くらい。工学部っぽい、余計な感情を削った顔。
「……白百合先輩、前に言ってた“ノイズの分類”。あれ、まだ残してあります。テープも、勝手に捨ててないです」
師匠は初めてその男をちゃんと見た。
「あるなら、あとで」
それだけで、その男は少しだけ嬉しそうに黙った。尊敬というより、「認められたい」顔。
メガネ男が咳払いをして場を仕切る。
「紹介する。俺、会長の竹原恒一。三回生。……研究会だから、部活っていうより、集めて、まとめて、残す。月一で定例。あとはネタ出たら集まる。会誌も一応出してる。コピー本だけど」
竹原会長は軽いノリを装っているのに、言葉の端々がきっちりしていた。編集者みたいに、要点を落とさない。
ポニーテールの先輩が手を挙げる。
「副会長、宮野佳奈。二回生。主に聞き込み。話ってさ、聞き方が九割だから」
言い切る。妙に自信がある。怖がりと強引が同居している感じ。
工学部っぽい男が短く言う。
「鎌田祐二。二回生。録音、機材、保管。……テープ触るなら手洗ってから」
竹原が俺の入部届を覗き込みながら言った。
「宗介。何がやりたい? 幽霊見たい? 怪談集めたい? 都市伝説?」
俺は答えに詰まった。やりたいことなんて、自分でもよく分からない。ただ師匠の側に、師匠のいる場所に、近づきたかっただけだ。
師匠が助け舟を出すみたいに言った。
「話を集める。それが一番、役に立つ」
宮野が、師匠の方を見て小さく笑う。
「出た。“白い天使のオカ論”。」
その呼び方が、冗談の形をしているのに、扱いはどこか崇拝っぽい。宮野はそれを壊すために笑っている。
竹原は頷く。
「そう。話を盛らずに書けるやつが一番。怖い話って、話したがってる奴のところに勝手に転がってるから。拾って、形にするだけ」
その瞬間、テレビデオが「ぶつ」と鳴った。
誰も触っていないのに、電源ランプが一瞬だけ点いた。
俺は、背中の皮膚がぞわっとした。さっき階段で感じた詰まりが、今度は耳鳴りみたいに膨らむ。目の端に、部室の隅が妙に暗く見える――気がする。
竹原が眉をひそめて、半歩だけ机から身を引いた。本人は誤魔化そうとして、すぐに咳払いする。
「……接触悪いんだろ」
宮野が口を尖らせた。
「いや今の、ヤだった。音が“変”」
鎌田は無言でテレビデオに近づき、背面のコードを指で確かめる。動きが機械のチェックそのものなのに、手だけが少し固い。
「……ランプが点いた。電源は触ってない」
師匠が淡々と言った。
「事実。……点いた」
その端的さが、この部室では戒律みたいに働くらしい。空気が、すっと戻る。
俺は息を吐いた。今のを「接触不良」だと決めてしまえば楽だ。けれど、体がそれを否定している。そういうのを、俺は最近、何度か経験している。
師匠が俺を見た。
「……どう見る?」
俺は答えられない。
テレビデオの前で鎌田が一度だけ呟く。
「……機材越しに変なの出るの、やめてほしい」
宮野が笑って誤魔化す。
「そういうこと言うから余計に気になるんだって」
「気になる、とか言うな」
「じゃあ、何て言えばいいの」
「……まぁ、鼻歌でも?」
そのやり取りに、竹原がやっと笑った。
「……まあ、こういうのも含めて研究会。宗介、びびってる?」
俺は正直に言った。
「ちょっと」
「正直でよろしい!」
竹原は軽口を叩きながらも、さっき半歩引いた足がまだ戻っていない。この人もそこそこ、感じている。たぶん。
ドアの向こうから足音がして、部室の入口に影が落ちた。
入ってきたのは四回生くらいの男だった。――いや、そう見えた。服装も地味で、顔の印象が薄い。存在感が部屋の光に溶けている。俺は、足音がしたのに入ってくるまで気づかなかった。矛盾しているのに、そう感じる。
宮野が声を落とす。
「……西園寺先輩」
竹原が苦笑する。
「うわ、久しぶり。生きてた」
男――西園寺透は返事をしなかった。返事をしないのに、そこにいることだけははっきり分かる。視線が合った気がしたのに、合っていない。
西園寺は部屋の中を一度だけ見回し、テレビデオの方で目を止めた。
そして、誰に言うでもなく、低い声で言った。
「……それ、点いたの、今だけじゃないな」
宮野が「は?」という顔をする。
竹原は笑って流そうとして、うまくいかない。
「え、何それ、怖いこと言うなよ」
鎌田が黙ったまま、テレビデオから手を離した。
師匠が西園寺を見た。
ほんの少しだけ、面倒くさそうな顔が消えた。代わりに、確認する目になる。
「久しぶり。……ちゃんと、視えているね」
部室の空気が一瞬止まった。
宮野が「やっぱり」とでも言いたげに眉を上げ、竹原は冗談を諦め、鎌田は視線を逸らす。
西園寺は師匠を見て、短く言った。
「……お久しぶりです。先輩はどうです」
どこか試すように問う。
師匠は肩をすくめた。
「私は、めんどくさいのが見える」
宮野が吹き出しそうになって耐える。
竹原が、場を戻すために手を叩いた。
「はい、空気終わり! 宗介、今日から研究会な。最初はテンプレ通りに聞き書き。盛らずに書く。あと、一年の書記は佐伯由梨って子。俺らより話まとめるの上手いから、そのうち紹介する」
俺は「はい」と頷いた。佐伯、という名前を頭の片隅に置く。
宮野が俺の肩を軽く叩く。
「宗介くん、歓迎会来るでしょ? 白百合先輩も“歓迎会くらい”は来るらしいし」
「……たぶん」
師匠がぼそっと言うと、宮野が即座に噛みつく。
「たぶんは禁止!」
師匠は俺を見た。俺が何か言うべきだと直感した。
「俺、行きます。歓迎会」
師匠は一瞬だけ目を細めた。笑った、というほどじゃない。でも薄く「よし」と言った気がした。
「じゃあ、行く」
竹原が満足げに頷く。
「西園寺先輩は?」
竹原が聞くと、西園寺先輩は俺を見てから言った。
「あぁ……ひさしぶりに面白くなりそうだ」
宮野も鎌田も、予想外だったらしく目を丸くする。
竹原はすぐに場をまとめた。
「決まり。基本、俺か宮野、鎌田がいるから。あと、部室の鍵は閉めること。夜は特に」
宮野がニヤッとする。
「それ、オカルト的な意味?」
竹原は真顔で言う。
「両方」
鎌田も小さく言う。
「両方」
西園寺だけが何も言わない。
俺は思った。
ここは、派手な怪談のサークルじゃない。地味で、基本ばかりだ。
でも師匠が点だけ残していた場所だ。
その点が、俺の足元に繋がった。
それだけで十分だった。
師匠が、俺の方を見た。
「……どう思う?」
俺は息を吸う。
まだ答えは出ない。出ないけど――
「……俺、ここで、話を集めます」
師匠は、いつもの顔に戻って短く言った。
「うん」
部室を出る時、廊下の匂いがまた鼻を刺した。湿った紙と、古い金属と、遠くのコーヒー。
階段を下りる途中で、さっきの耳の詰まりがもう一度だけ戻ってきた気がした。
俺は立ち止まらなかった。立ち止まったら、さっき点いたランプが、今度は消えない気がしたからだ。




