『白烏(下)』
白い烏が飛び去り、黒い烏たちも散っていったあとも、俺の耳だけがずっと鳴っていた。
鳴き声の残響というより、頭蓋の内側を爪で引っかかれているような感覚だ。
師匠は、路地の出口――外灯の光がちゃんと届くところまで出ると、何事もなかったみたいに言った。
「君はこのまま、まっすぐ帰りなさい」
俺は息を整えるのに必死で、返事が遅れた。
喉が熱い。さっきの腐った匂いが、まだ鼻の奥に貼り付いている。
「……師匠は、どうするんですか」
「寄るところがある」
その言い方で、分かった。
師匠は“寄り道”なんかする気じゃない。白い烏を追う気だ。
「俺も行きます。白い烏を追うんですよね」
師匠は足を止めた。振り返りはしない。けれど、背中が拒絶している。
「ここからは危険すぎる。君を守れるかわからない」
「でも――」
「さっき、君は私の声が届かなかった。距離が切れたら終わりだよ」
正論だった。
あの瞬間、俺は確かに師匠に手を伸ばしたのに、届かなかった。世界が薄い膜で分断されたみたいに、師匠の存在だけが遠ざかった。
それでも、言ってしまった。
「この話に師匠を巻き込んだのは俺です。ここで俺だけ逃げるの、嫌です!」
自分でも子どもみたいだと思った。
でも、言葉の奥に別の感情があった。怖さだけじゃない。悔しさだ。
さっきまで、俺は“同情”に近いものを抱いていた。白いから弾かれて、群れに入れないんだろう――勝手に、そう思いかけた。
結果はどうだ。
あいつは、俺を囲ませた。あいつの一声で。
師匠が、ようやくこちらを見た。
目が細くなる。怒っているのか判断できない。ただ、測られている。
俺は、最後の一押しを言った。
「俺は師匠の弟子ですから」
師匠は、ほんの少しだけ目を閉じた。
諦める、というより、決め直す仕草だった。
「……分かった。ただし、私が言ったことには従って」
「はい」
「返事は短く」
「はい」
それだけで、師匠は歩き出した。
俺は半歩遅れて、ついていく。
*
師匠は“追い方”が普通じゃなかった。
闇雲に走らない。周囲を見回して焦るでもない。
路地の角、電柱の根元、排水溝の縁――そういうところを一瞬だけ見て、迷いなく進路を変える。
「……何を見てるんですか」
「痕跡」
「羽ですか?」
「羽だけじゃない」
師匠は足を止め、アスファルトの端を指でなぞった。
目を凝らしても、俺には汚れと砂と枯葉しか見えない。
「踏まれて潰れたものがある。たぶん、ここを通った」
そう言って、師匠は指先を軽く嗅いだ。
俺は思わず眉をひそめる。
「……臭い、分かるんですか」
「分かるようにしてる」
淡々と言われて、返す言葉がなかった。
歩くほどに、街の灯りが背中へ置き去りになる。
人の声が遠のく代わりに、風が葉を擦る音がはっきりしてくる。どこかで空き缶が転がった。
俺はずっと、背後を気にしていた。
黒い羽がいつでも戻ってくる気がした。
どれくらい歩いたかわからない。
師匠が急に手を上げた。
「止まって」
反射的に足が止まる。
その瞬間、前方に“白”が見えた。
外灯の円の外、植え込みの上。
白い烏がいた。
周囲の電線や木の枝には、黒い烏が何羽も止まっている。
数は――数えないほうがいい。数えると、また“群れ”になる。
白い烏は、地面をついばんでいた。
なのに、そこに餌は見えない。パンくずも、虫も、ゴミも、何も。
師匠が小さく言った。
「霊魂ね。すごく弱い。もうじき消える」
背筋が寒くなった。
“見えないもの”を、あいつは食ってる。
白い烏が、ゆっくりこちらを見る。
赤い瞳が、灯りを吸い込んで濡れて見えた。
――獲物を見る目だ。
あの目に、俺はもう同情できなかった。
さっき路地で、俺の周りに黒い烏を集めた時点で気づくべきだった。
あいつは孤独じゃない。仲間が欲しいわけでもない。
“従えた”んだ。白いままで。自分の力で。
白い烏が鳴いた。
声にならない鳴き。烏の型を借りた、人の呻き声。
その一声で、黒い烏が一斉に動いた。
飛ぶ。羽音が重なる。闇が寄ってくる。
俺はとっさに後ずさったが、師匠の声が刺さった。
「私から、離れないで」
情けないくらい、師匠のすぐ背へ詰めた。
肩が触れるほど近い。離れたら、持っていかれる。
師匠が左ポケットから銀のライターを取り出した。
ただの金属じゃない。手のひらの上で、嫌な重さがある。見ているだけで、胸の奥がざらつく。
蓋が開く。
カチ、と乾いた音がして、青白い炎が揺らめいた。
その光を見た瞬間、黒い烏たちの動きが止まった。
空中で迷うみたいに羽ばたき、距離を測り直す。
師匠が一歩前に出る。
黒い烏が、たまらず退いた。
逃げるというより、“避けた”。そこに触れたくない、という動きだった。
残ったのは、白い烏だけだった。
白い烏は首を傾げる。
値踏みする仕草。今度は俺じゃない。師匠を量っている。
そして、喋った。
「……お……まえ……な……に……も……の……だ」
言葉になっていない。
音が、声帯を通っていない。口の奥のどこかで、無理やり削り出されたみたいな音だった。
白い烏の嘴が開く。
開き方が、おかしい。
関節が鈍い音を立てても、まだ開く。ありえない角度まで割れていく。
裏返る、という言葉が頭をよぎる。生き物が生き物であるラインを越えようとしている。
その瞬間、圧が増えた。
皮膚の上じゃない。胸の内側から押される。
冷や汗が噴き出して、膝が震え始める。息が浅くなって、肺がうまく膨らまない。
動けない。
怖くて動けない、じゃない。体の命令系統が止まる。
師匠が右ポケットからコインを出した。
ただのコインだ。……なのに、視線が釘付けになる。
金属の縁が、外灯の灯りを拾って一瞬だけ鋭く光った。
その光で、世界が止まった気がした。
師匠はそのコインを指で弾いた。
チン、と音がした。
その音が、空気を切り替える。スイッチみたいに。
コインは白い烏の口へ飛び込み――“それ”の体内に入った。
次の瞬間だった。
白い烏が、内側から燃えた。
火が外から移るんじゃない。中から発火して、青白い炎が羽を包む。
耳を裂くほど低い叫びが広がった。
叫びというより、うねりだ。人の声じゃない。鳥の声でもない。
地面の下から、何かが引きずり出されるみたいな響き。
白い烏だったものが、激しく身をよじり――ほどけた。
羽が灰になる。骨が崩れる。
炎が一段強く揺れて、ふっと消える。
残ったのは、灰と、コインだけだった。
師匠が歩み寄り、迷いなくコインを拾った。
指先で軽く払って、ポケットに戻す。
俺は、目の前で起きたことが処理できず、呆然と立っていた。
「……終わった……のか?」
ぽつりと漏れた声は、情けないくらい震えていた。
師匠は落ち着いた声で言った。
「終わった。あれはもう帰った」
“帰った”という言い方が引っかかった。
「……帰った?」
師匠は少しだけ考える顔をして――簡単に言い換えた。
「あるべき姿に、なるべきようになった」
それでも意味が追いつかない俺に、師匠は淡々と続けた。
「動物はね、見えるんだ。人の霊魂が」
師匠は空を見上げた。
薄雲が月をかすめて、輪郭が滲んでいる。
「特に鳥類は、古来から天と地を繋ぐものとされて、神格化されてきた」
師匠は言葉を区切り、吐息みたいに言った。
「あいつは生きながらに、大勢食った。……食いすぎたんだよ」
俺は、あの白い嘴と、指と、肉塊を思い出して吐き気が戻りそうになった。
「もはや、あの体には収まらないほどに。だからここで、終わりだ」
師匠はそこで言葉を切って、俺のほうを見た。
「帰ろうか」
その声は、さっきまでと同じ“師匠の声”だった。
冷たいのに、変に優しい。
俺は、ようやく頷いた。
*
帰り道に入ろうとした、その時だった。
――足音。
後ろからじゃない。横でもない。前方の闇の中から、靴底が地面を叩く音が近づいてきた。
俺は周囲を見回した。
次の瞬間、影が飛び出した。
鉄が風を切る音。
「師匠!」
叫んだ時にはもう遅いと思った。
でも師匠は軽やかに身体を引いて、後ろへ跳んだ。信じられないくらい滑らかに。
俺は咄嗟に、師匠と人影の間へ割って入った。
手を広げる。かばう体勢。意味があるかわからないのに、体がそう動いた。
闇の向こうから、女の声がした。
「不意打ちだったんだがな……。まぁ、いい。よくない気配が出たと思ったら……お前だったか。よぉー、久しぶり。半端者」
外灯の白い輪に出てきたのは、昨夜――俺を引きずり出した女だった。
背が高い。姿勢がやけに真っ直ぐ。短い黒髪。革のジャケット。
手には鉄パイプ。ぞっとするくらい現実的な凶器。
女は俺を見ると、鼻で笑った。
「お前は昨日、白い烏に呑まれそうになってたやつじゃねーか。元気そうだな」
それから、訝しそうに目を細める。
俺と師匠を交互に見た。
「……ん? 今、お前、“師匠”って言ったか?」
俺は言葉に詰まった。
女の口元が歪む。
「ハハハッ。弟子を取ったのか。お前が……」
笑っているのに、目が笑っていない。
その表情から何を考えているか、まるで読めなかった。
師匠は女を睨みつけていた。
あんな師匠の目は初めて見た。
女は肩をすくめて、鉄パイプをだらりと下げた。
「邪魔したな」
そして、闇へ紛れるみたいに一歩引く。
消える直前、女は俺を見て言った。
「じゃあな、門弟。また会うかもな」
次の瞬間には、そこにいなかった。
残ったのは、冷えた風と、外灯が落とす白い円だけ。
俺は師匠に駆け寄った。
「だ、大丈夫ですか……!」
「大丈夫。ありがとう」
師匠はそれだけ言った。
礼の言葉が、妙に軽く聞こえるほど、さっきの出来事が濃すぎた。
*
帰り道、師匠は一度だけ言った。
「あれのことは忘れなさい」
俺は反射で「忘れられるわけない」と言いそうになって、飲み込んだ。
師匠の声は、命令というより警告だった。覚えていること自体が、また“道”になる――そう言われている気がした。
アパートの角が見えた頃、どこかで烏が鳴いた。
俺は思わず足を止めかけて、やめた。
見上げなかった。
確かめたくなかった。
背中に、あの“捕食者の目”が貼り付く感覚だけが、しばらく消えなかった。




