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帰送シリーズ  作者: 流浪
11/15

『白烏(下)』

 白い烏が飛び去り、黒い烏たちも散っていったあとも、俺の耳だけがずっと鳴っていた。

 鳴き声の残響というより、頭蓋の内側を爪で引っかかれているような感覚だ。

 師匠は、路地の出口――外灯の光がちゃんと届くところまで出ると、何事もなかったみたいに言った。

「君はこのまま、まっすぐ帰りなさい」

 俺は息を整えるのに必死で、返事が遅れた。

 喉が熱い。さっきの腐った匂いが、まだ鼻の奥に貼り付いている。

「……師匠は、どうするんですか」

「寄るところがある」

 その言い方で、分かった。

 師匠は“寄り道”なんかする気じゃない。白い烏を追う気だ。

「俺も行きます。白い烏を追うんですよね」

 師匠は足を止めた。振り返りはしない。けれど、背中が拒絶している。

「ここからは危険すぎる。君を守れるかわからない」

「でも――」

「さっき、君は私の声が届かなかった。距離が切れたら終わりだよ」

 正論だった。

 あの瞬間、俺は確かに師匠に手を伸ばしたのに、届かなかった。世界が薄い膜で分断されたみたいに、師匠の存在だけが遠ざかった。

 それでも、言ってしまった。

「この話に師匠を巻き込んだのは俺です。ここで俺だけ逃げるの、嫌です!」

 自分でも子どもみたいだと思った。

 でも、言葉の奥に別の感情があった。怖さだけじゃない。悔しさだ。

 さっきまで、俺は“同情”に近いものを抱いていた。白いから弾かれて、群れに入れないんだろう――勝手に、そう思いかけた。

 結果はどうだ。

 あいつは、俺を囲ませた。あいつの一声で。

 師匠が、ようやくこちらを見た。

 目が細くなる。怒っているのか判断できない。ただ、測られている。

 俺は、最後の一押しを言った。

「俺は師匠の弟子ですから」

 師匠は、ほんの少しだけ目を閉じた。

 諦める、というより、決め直す仕草だった。

「……分かった。ただし、私が言ったことには従って」

「はい」

「返事は短く」

「はい」

 それだけで、師匠は歩き出した。

 俺は半歩遅れて、ついていく。

 師匠は“追い方”が普通じゃなかった。

 闇雲に走らない。周囲を見回して焦るでもない。

 路地の角、電柱の根元、排水溝の縁――そういうところを一瞬だけ見て、迷いなく進路を変える。

「……何を見てるんですか」

「痕跡」

「羽ですか?」

「羽だけじゃない」

 師匠は足を止め、アスファルトの端を指でなぞった。

 目を凝らしても、俺には汚れと砂と枯葉しか見えない。

「踏まれて潰れたものがある。たぶん、ここを通った」

 そう言って、師匠は指先を軽く嗅いだ。

 俺は思わず眉をひそめる。

「……臭い、分かるんですか」

「分かるようにしてる」

 淡々と言われて、返す言葉がなかった。

 歩くほどに、街の灯りが背中へ置き去りになる。

 人の声が遠のく代わりに、風が葉を擦る音がはっきりしてくる。どこかで空き缶が転がった。

 俺はずっと、背後を気にしていた。

 黒い羽がいつでも戻ってくる気がした。

 どれくらい歩いたかわからない。

 師匠が急に手を上げた。

「止まって」

 反射的に足が止まる。

 その瞬間、前方に“白”が見えた。

 外灯の円の外、植え込みの上。

 白い烏がいた。

 周囲の電線や木の枝には、黒い烏が何羽も止まっている。

 数は――数えないほうがいい。数えると、また“群れ”になる。

 白い烏は、地面をついばんでいた。

 なのに、そこに餌は見えない。パンくずも、虫も、ゴミも、何も。

 師匠が小さく言った。

「霊魂ね。すごく弱い。もうじき消える」

 背筋が寒くなった。

 “見えないもの”を、あいつは食ってる。

 白い烏が、ゆっくりこちらを見る。

 赤い瞳が、灯りを吸い込んで濡れて見えた。

 ――獲物を見る目だ。

 あの目に、俺はもう同情できなかった。

 さっき路地で、俺の周りに黒い烏を集めた時点で気づくべきだった。

 あいつは孤独じゃない。仲間が欲しいわけでもない。

 “従えた”んだ。白いままで。自分の力で。

 白い烏が鳴いた。

 声にならない鳴き。烏の型を借りた、人の呻き声。

 その一声で、黒い烏が一斉に動いた。

 飛ぶ。羽音が重なる。闇が寄ってくる。

 俺はとっさに後ずさったが、師匠の声が刺さった。

「私から、離れないで」

 情けないくらい、師匠のすぐ背へ詰めた。

 肩が触れるほど近い。離れたら、持っていかれる。

 師匠が左ポケットから銀のライターを取り出した。

 ただの金属じゃない。手のひらの上で、嫌な重さがある。見ているだけで、胸の奥がざらつく。

 蓋が開く。

 カチ、と乾いた音がして、青白い炎が揺らめいた。

 その光を見た瞬間、黒い烏たちの動きが止まった。

 空中で迷うみたいに羽ばたき、距離を測り直す。

 師匠が一歩前に出る。

 黒い烏が、たまらず退いた。

 逃げるというより、“避けた”。そこに触れたくない、という動きだった。

 残ったのは、白い烏だけだった。

 白い烏は首を傾げる。

 値踏みする仕草。今度は俺じゃない。師匠を量っている。

 そして、喋った。

「……お……まえ……な……に……も……の……だ」

 言葉になっていない。

 音が、声帯を通っていない。口の奥のどこかで、無理やり削り出されたみたいな音だった。

 白い烏の嘴が開く。

 開き方が、おかしい。

 関節が鈍い音を立てても、まだ開く。ありえない角度まで割れていく。

 裏返る、という言葉が頭をよぎる。生き物が生き物であるラインを越えようとしている。

 その瞬間、圧が増えた。

 皮膚の上じゃない。胸の内側から押される。

 冷や汗が噴き出して、膝が震え始める。息が浅くなって、肺がうまく膨らまない。

 動けない。

 怖くて動けない、じゃない。体の命令系統が止まる。

 師匠が右ポケットからコインを出した。

 ただのコインだ。……なのに、視線が釘付けになる。

 金属の縁が、外灯の灯りを拾って一瞬だけ鋭く光った。

 その光で、世界が止まった気がした。

 師匠はそのコインを指で弾いた。

 チン、と音がした。

 その音が、空気を切り替える。スイッチみたいに。

 コインは白い烏の口へ飛び込み――“それ”の体内に入った。

 次の瞬間だった。

 白い烏が、内側から燃えた。

 火が外から移るんじゃない。中から発火して、青白い炎が羽を包む。

 耳を裂くほど低い叫びが広がった。

 叫びというより、うねりだ。人の声じゃない。鳥の声でもない。

 地面の下から、何かが引きずり出されるみたいな響き。

 白い烏だったものが、激しく身をよじり――ほどけた。

 羽が灰になる。骨が崩れる。

 炎が一段強く揺れて、ふっと消える。

 残ったのは、灰と、コインだけだった。

 師匠が歩み寄り、迷いなくコインを拾った。

 指先で軽く払って、ポケットに戻す。

 俺は、目の前で起きたことが処理できず、呆然と立っていた。

「……終わった……のか?」

 ぽつりと漏れた声は、情けないくらい震えていた。

 師匠は落ち着いた声で言った。

「終わった。あれはもう帰った」

 “帰った”という言い方が引っかかった。

「……帰った?」

 師匠は少しだけ考える顔をして――簡単に言い換えた。

「あるべき姿に、なるべきようになった」

 それでも意味が追いつかない俺に、師匠は淡々と続けた。

「動物はね、見えるんだ。人の霊魂が」

 師匠は空を見上げた。

 薄雲が月をかすめて、輪郭が滲んでいる。

「特に鳥類は、古来から天と地を繋ぐものとされて、神格化されてきた」

 師匠は言葉を区切り、吐息みたいに言った。

「あいつは生きながらに、大勢食った。……食いすぎたんだよ」

 俺は、あの白い嘴と、指と、肉塊を思い出して吐き気が戻りそうになった。

「もはや、あの体には収まらないほどに。だからここで、終わりだ」

 師匠はそこで言葉を切って、俺のほうを見た。

「帰ろうか」

 その声は、さっきまでと同じ“師匠の声”だった。

 冷たいのに、変に優しい。

 俺は、ようやく頷いた。

 帰り道に入ろうとした、その時だった。

 ――足音。

 後ろからじゃない。横でもない。前方の闇の中から、靴底が地面を叩く音が近づいてきた。

 俺は周囲を見回した。

 次の瞬間、影が飛び出した。

 鉄が風を切る音。

「師匠!」

 叫んだ時にはもう遅いと思った。

 でも師匠は軽やかに身体を引いて、後ろへ跳んだ。信じられないくらい滑らかに。

 俺は咄嗟に、師匠と人影の間へ割って入った。

 手を広げる。かばう体勢。意味があるかわからないのに、体がそう動いた。

 闇の向こうから、女の声がした。

「不意打ちだったんだがな……。まぁ、いい。よくない気配が出たと思ったら……お前だったか。よぉー、久しぶり。半端者」

 外灯の白い輪に出てきたのは、昨夜――俺を引きずり出した女だった。

 背が高い。姿勢がやけに真っ直ぐ。短い黒髪。革のジャケット。

 手には鉄パイプ。ぞっとするくらい現実的な凶器。

 女は俺を見ると、鼻で笑った。

「お前は昨日、白い烏に呑まれそうになってたやつじゃねーか。元気そうだな」

 それから、訝しそうに目を細める。

 俺と師匠を交互に見た。

「……ん? 今、お前、“師匠”って言ったか?」

 俺は言葉に詰まった。

 女の口元が歪む。

「ハハハッ。弟子を取ったのか。お前が……」

 笑っているのに、目が笑っていない。

 その表情から何を考えているか、まるで読めなかった。

 師匠は女を睨みつけていた。

 あんな師匠の目は初めて見た。

 女は肩をすくめて、鉄パイプをだらりと下げた。

「邪魔したな」

 そして、闇へ紛れるみたいに一歩引く。

 消える直前、女は俺を見て言った。

「じゃあな、門弟。また会うかもな」

 次の瞬間には、そこにいなかった。

 残ったのは、冷えた風と、外灯が落とす白い円だけ。

 俺は師匠に駆け寄った。

「だ、大丈夫ですか……!」

「大丈夫。ありがとう」

 師匠はそれだけ言った。

 礼の言葉が、妙に軽く聞こえるほど、さっきの出来事が濃すぎた。

 帰り道、師匠は一度だけ言った。

「あれのことは忘れなさい」

 俺は反射で「忘れられるわけない」と言いそうになって、飲み込んだ。

 師匠の声は、命令というより警告だった。覚えていること自体が、また“道”になる――そう言われている気がした。

 アパートの角が見えた頃、どこかで烏が鳴いた。

 俺は思わず足を止めかけて、やめた。

 見上げなかった。

 確かめたくなかった。

 背中に、あの“捕食者の目”が貼り付く感覚だけが、しばらく消えなかった。


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