中井英
内山先輩が剣道部を辞めた。
その話を聞いたのは、昨日の部活が終わった後だった。
「え、内山先輩が?」
更衣室で着替えながら、俺は思わず声を上げた。
部長の高2の先輩、杉山さんが頷いた。
「ああ。昨日、顧問の田村先生に申し出があったらしい」
「そうなんですか...」
俺は袴を脱ぎながら、うまく言葉が出てこなかった。
内山先輩。
俺と同じ時期に剣道部に入った先輩。
去年の4月。俺が中1で、内山先輩が中3だった。
新入部員の紹介のとき、内山先輩は緊張した顔で立っていた。体育館に並んだ部員たちを前に、先輩の声は小さくて震えていた。
「中3の内山です。初心者ですが、よろしくお願いします」
その瞬間、体育館の空気が少し動いた気がした。ざわざわと。中3で、しかも初心者。みんな驚いてたんだと思う。
俺も驚いた。でも、それと同時に、少しだけホッとした。
自分だけじゃないんだ、って。
俺も初心者だった。小学校のとき、少しだけ剣道教室に通ったことはあったけど、すぐに辞めてた。だから中学で剣道部に入ったとき、ほとんど何も覚えてなかった。
最初の一週間、俺は何もかもが分からなくて困惑してた。
竹刀の持ち方。構え方。足の運び方。礼の仕方。
全部、教えてもらわないと分からない。
周りは経験者ばかり。中1でも、小学校から剣道やってる奴が何人もいた。そいつらは当たり前のように動けて、当たり前のように打てて。
俺は、置いていかれてる感じがした。
内山先輩も、同じだったと思う。
いや、先輩の方がもっと大変だったはずだ。
中3で初心者。周りは、中1から、あるいは小学校から剣道をやってる人ばかり。
俺たちみたいな初心者は、明らかに浮いてた。
でも、先輩は頑張ってた。
朝練。
内山先輩は、いつも一番早く来てた。
俺が体育館に入ると、もう先輩がいて、一人で素振りをしてた。
シャッ、シャッ、シャッ。
竹刀を振る音だけが、静かな体育館に響く。
先輩の動きは、ぎこちなかった。でも、一生懸命だった。
「おはようございます」
俺が声をかけると、先輩は振り返った。
「ああ、おはよう。中井、早いな」
「先輩の方が早いですよ」
「まあ、ちょっとな」
先輩は照れくさそうに笑った。
それから、俺たちは一緒に朝練をするようになった。
二人で向かい合って、基礎練習。
面打ち、小手打ち、胴打ち。
先輩の打ちは、俺より遅かった。でも、丁寧だった。
一振り一振り、ちゃんと考えて打ってる感じ。
「中井、お前、上手くなってきたな」
ある朝、先輩が言った。
「え? そうですか?」
「ああ。最初に比べて、全然違う」
「先輩だって、上手くなってますよ」
「俺は...まあ、ぼちぼちだ」
先輩は竹刀を見つめた。その目が、どこか遠くを見ているようだった。
5月のゴールデンウィーク明け、俺は初めて試合形式の練習に参加した。
相手は同じ中1の田中。
緊張した。手に汗をかいた。
でも、楽しかった。
竹刀がぶつかり合う音。自分の気合の声。相手の気合の声。
全部が、新鮮だった。
一本取られて、負けた。
でも、悔しいより、嬉しかった。
練習が終わった後、内山先輩が声をかけてきた。
「中井、良かったぞ」
「いや、負けちゃいましたけど」
「でも、積極的に攻めてた。それが大事だ」
先輩は優しく笑った。
「先輩も、試合練習するんですか?」
「俺は...まだだな。もうちょっと基礎を固めてからって、先生に言われた」
「そうなんですか」
「でも、いつか。いつか、試合に出たいな」
先輩の声は、小さかった。
でも、その言葉には、確かな想いが込められてた気がした。
夏休みに入っても、練習は続いた。
午前練習。暑い剣道場。汗が止まらない。
水分補給の時間、みんなで輪になって座る。
「マジで暑いな」
「死ぬわ」
「でも、こういうとき頑張るのが大事なんだよな」
中1同士で笑い合う。
その輪に、内山先輩はいなかった。tv
先輩は少し離れた場所で、一人で水を飲んでいた。
俺は立ち上がって、先輩のところに行った。
「先輩、こっち来ませんか?」
「ん? ああ、いや、大丈夫」
「一緒に休みましょうよ」
「お前らは、お前らで話してろ。俺はいいから」
先輩は笑ったけど、どこか寂しそうだった。
7月の終わり、俺は初めて昇段審査を受けた。
初段。
緊張で手が震えた。
でも、合格した。
嬉しくて、部活のみんなに報告した。
「おめでとう!」
「すげえじゃん、中井!」
みんなが祝福してくれた。
内山先輩も、おめでとうって言ってくれた。
「先輩も、次は一緒に受けましょう!」
俺はそう言った。
先輩は、少し笑って、「ああ、そうだな」って答えた。
でも、その後、先輩が昇段審査を受けることはなかった。
秋になって、俺は少しずつ試合にも出るようになった。
市の新人戦大会。
初戦で負けたけど、一本取れた。
嬉しかった。
試合が終わって、応援席に戻ると、部員のみんなが「中井、やったな!」って声をかけてくれた。
内山先輩も、来てくれてた。
「中井、良かったぞ。あの面、綺麗だった」
「ありがとうございます!」
俺は嬉しくて、何度もお辞儀した。
「先輩も、次は一緒に出ましょう!」
「ああ...そうだな」
先輩は少し笑った。
でも、その笑顔は、前より、もっと寂しそうに見えた。
試合の後、部のみんなでファミレスに行った。
中1から高2まで、15人くらい。
賑やかで、楽しかった。ドリンクバー飲み放題で、みんなではしゃいだ。
内山先輩も誘われてた。
でも、先輩は「用事がある」って断って、一人で帰った。
先輩の背中が、改札に消えていくのを見た。
小さくて、寂しそうな背中だった。
「内山先輩、最近あんまり喋らないよね」
ファミレスで、田中が言った。
「そうかな」
「うん。前はもうちょっと、中井とか俺たちに話しかけてくれたのに」
確かに、そうかもしれない。
春から夏にかけては、先輩はまだ俺たちに声をかけてくれてた。
「今日の練習、どうだった?」とか。
「この技、こうやるといいぞ」とか。
でも、最近の先輩は、練習が終わるとすぐに帰る。
更衣室でも、ほとんど誰とも話さない。
挨拶だけして、黙々と着替えて、去っていく。
何かあったのかな、って思った。
でも、聞けなかった。
聞いちゃいけない気がした。
11月に入って、部活の雰囲気が少し変わった。
高3の先輩たちが引退して、新体制になった。
新部長は高2の杉山先輩。厳しいけど、面倒見のいい先輩だ。
「これからもっと強くなっていくぞ!」
杉山先輩は気合が入ってた。
練習メニューも、ハードになった。
基礎練習の時間が増えて、打ち込みの本数も増えた。
でも、俺は楽しかった。
きついけど、充実してた。
仲間と一緒に頑張れるのが、嬉しかった。
ある日の練習後、俺は内山先輩と二人きりになった。
みんな、もう帰った後。
俺は忘れ物を取りに更衣室に戻って、体育館を覗いたら、先輩が一人で素振りをしてた。
「先輩、まだ練習するんですか?」
「ああ。ちょっとだけ」
「俺も付き合います」
「いや、いい。お前は帰れ」
「でも...」
「大丈夫。一人でやりたいんだ」
先輩は、俺を見ずに言った。
竹刀を握る手が、震えてる気がした。
「...分かりました。お疲れ様です」
「ああ。お疲れ」
俺は体育館を出た。
廊下を少し歩いてから、振り返った。
体育館の窓から、内山先輩の姿が見えた。
一人で、黙々と素振りをしている。
シャッ、シャッ、シャッ。
その音が、廊下まで聞こえてきた。
その背中が、すごく小さく見えた。
12月になった。
クリスマスが近づいて、街はイルミネーションで華やいでた。学校の前の商店街も、キラキラしてる。
でも、部活は相変わらず厳しかった。
寒い体育館で、息を白くしながら練習する。
指先が冷たくて、竹刀を握るのがつらい。
でも、動いてると、体が温まってくる。
内山先輩は、いつも通り来ていた。
でも、前よりもっと無口になった気がした。
練習中も、休憩中も、ほとんど誰とも話さない。
ただ黙々と、竹刀を振る。
その姿を見るたびに、胸が痛んだ。
そして、一週間前。
先輩が、田村先生と話してるのを見た。
剣道場の隅で。
二人とも、真剣な顔をしてた。
先輩が何か言って、田村先生が頷いて。
その時、なんとなく、嫌な予感がした。
まさか、とは思った。
でも、その「まさか」が、現実になった。
昨日、杉山先輩から聞いた。
内山先輩が、辞める。
信じられなかった。
でも、本当だった。
更衣室から出て、体育館への廊下を歩く。
今日の練習。
内山先輩はいない。
当たり前だけど。
体育館に入ると、もう何人か部員が来ていた。
「中井、早いな」
同じ中1の田中が声をかけてきた。
「うん」
「内山先輩、辞めたんだって?」
「...うん」
「なんで?」
「知らない」
本当に、知らない。
先輩は、何も言わなかった。
辞める理由も、何も。
俺に、相談もしてくれなかった。
準備体操が始まる。
基礎練習。
素振り。
面打ち。
いつもと同じメニュー。
でも、なんか違う。
内山先輩がいない。
それだけで、こんなに違うんだ。
練習の途中、ふと、体育館の隅を見た。
先輩が、いつも一人で素振りをしていた場所。
誰もいない。
空っぽ。
胸が、ちくっとした。
練習が終わって、整列。
「お疲れ様でした」
みんなで声を揃える。
でも、俺の声は、あまり出なかった。
更衣室で着替える。
みんな、いつも通り笑いながら話してる。
「今日の練習、きつかったな」
「マジで。杉山先輩、容赦ないわ」
「でも、上手くなってる気がする」
「だよな」
俺も、話に加わろうとした。
でも、なんか、入れなかった。
内山先輩のことばっかり考えてた。
先輩、今、何してるんだろう。
家にいるのかな。
それとも、どこか別の場所にいるのかな。
部活、辞めて、後悔してないのかな。
「中井、大丈夫?」
田中が心配そうに聞いてきた。
「ん? ああ、大丈夫」
「なんか元気ないぞ」
「そう? そんなことないよ」
俺は無理に笑った。
でも、田中は納得してない顔をしてた。
着替え終わって、校舎を出る。
空が、暗くなり始めてた。
冬の夕方は、早い。
1月だから、もう5時には真っ暗だ。
門を出ようとしたとき、ふと、校舎の方を振り返った。
三階の窓。
あれ、内山先輩の教室だっけ。
違うかな。
よく知らない。
先輩とは、部活でしか会わなかったから。
教室も、学年も違う。
部活だけの関係。
でも、それでも、先輩のことを、もっと知りたかった。
もっと話したかった。
なんで剣道を始めたのか。
何を思って、毎日練習してたのか。
楽しかったのか。つらかったのか。
そして、なんで辞めたのか。
聞きたかった。
でも、聞けなかった。
聞く勇気が、なかった。
家に帰る道。
コンビニに寄った。
肉まんを買おうと思ったけど、やめた。
なんとなく、食べたい気分じゃなかった。
代わりに、温かいお茶を買った。
外に出て、歩きながら飲む。
ペットボトルが、手のひらを温める。
でも、心は冷たいままだった。
家に着いた。
「ただいま」
「おかえり。遅かったわね」
母の声。
「うん。ちょっと部活が長引いて」
嘘じゃない。でも、本当でもない。
部屋に上がって、制服に着替える。
机の上に、教科書が積んである。
明日のテストの勉強。
やらなきゃ。
でも、集中できない。
スマホを手に取る。
LINEを開く。
内山先輩のアカウント。
最後にメッセージを送ったのは、いつだっけ。
スクロールすると、去年の夏だった。
「先輩、今日の朝練ありがとうございました」
「どういたしまして。中井も頑張れ」
短いやりとり。
それきり。
もっと、話せばよかったのかな。
もっと、先輩のこと、聞けばよかったのかな。
でも、今更、遅い。
窓の外を見た。
星が、いくつか見える。
内山先輩。
先輩は、剣道部で、何を見つけたかったんだろう。
何を、求めてたんだろう。
俺には、分からない。
でも、一つだけ、分かることがある。
先輩は、頑張ってた。
誰よりも、頑張ってた。
朝、一番早く来て。
休憩時間も、一人で練習して。
みんなが帰った後も、一人で素振りをして。
それだけは、確かだ。
俺は、机に向かった。
教科書を開く。
勉強する。
明日も、部活がある。
内山先輩がいない部活。
でも、俺は続ける。
先輩の分も、頑張る。
そう、決めた。
竹刀を握る手を、思い出す。
あの感触。
あの重さ。
忘れない。
内山先輩と一緒に練習した日々を、忘れない。
目を閉じる。
先輩の姿が浮かぶ。
一人で素振りをする、先輩の背中。
小さくて、寂しそうで。
でも、まっすぐで。
ありがとうございました、先輩。
心の中で、そう言った。
明日、先輩に会えるかな。
廊下とか、校庭とか。
会えたら、声をかけよう。
「先輩、お疲れ様でした」って。
そう思った。
でも、たぶん、言えない。
言えない気がする。
なんでかは、分からない。
ただ、言えない。
スマホの画面を見た。
時計は、もう10時半を過ぎてた。
寝なきゃ。
明日、早いから。
ベッドに入る。
布団が、冷たい。
でも、すぐに温まる。
天井を見た。
白い天井。
何もない。
内山先輩、おやすみなさい。
そう思って、目を閉じた。振りをしている。
その背中が、すごく小さく見えた。
内山先輩と一緒に練習した日々を、忘れない。
目を閉じる。
先輩の姿が浮かぶ。
一人で素振りをする、先輩の背中。
ありがとうございました、先輩。
心の中で、そう言った。
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