第3話 正体
なんとか家に帰りつき、少年の指示通りに応急処置を済ませて軽い食事をとった。応急処置といっても、シャワーで傷口を洗い流してガーゼを貼った程度だ。さっきのことは、まだ家族には話していない。ありのまま話したって、そう簡単に信じてはもらえないだろう。当面の間は、ロング丈のスカートで隠しておくつもりだ。
六畳ほどの広さの自室。私は短刀を机に置いて、ベッドの上に腰掛けた。いつもより大きく聞こえる秒針の音。瞼の裏に映るのは、恐怖で凍りついた瀬名の表情。
「傷の痛みはどうだ」
「うーん……」
結局、この子は家までついてきた。とりあえずお茶は出したものの、手をつけた様子はない。
短めの袴からは、スラッとしたふくらはぎが伸びている。紐でくくられ、肩の辺りまで届く髪には少しウェーブがかかっており、くるりとした毛先は尻尾のようで愛らしい。机から少し肩がはみ出るくらいの身長で、ひと目見た感じだと一、二年の小学生だ。
「だんだん、ひどくなってきてるかも」
「……そうか。すまないが、少し見せてくれ」
少年は、私の方へと歩み寄って足元にしゃがんだ。長いまつげを静かに伏せて、丁寧にガーゼを外していく。
「……放っておけばよかったのに」
「えっ?」
「僕に関わったりなんかしたから、そんな目に遭ったんだ。あの日、僕の手をつかんだことは過ちだった」
「……そんな」
過ち。間違い。あのとき、この子を引き留めたことが。
空気に触れた傷口が、じくりと鈍くうずいて痛んだ。血と、かすかな膿のにおいが鼻をつく。犬の咬み傷にも似たそれは、かすり傷とは言い難い。
「……そんなふうに、言わなくても」
「事実だろう」
少年は、机の上の短刀を取った。鞘から引き抜き、つい、と《《慣れた様子で》》彼自身の人差し指に切り傷を作る。みるみるうちに血がしみ出して、その小さな指の腹にぷっくりと赤い玉が浮かんだ。
「あの、何を……」
「じっとしてて。これくらいの量なら、誤差みたいなものだから」
そう言って彼は短刀を床に置き、私の踵を右手に持った。そして、血のにじんだ指先を私の傷口にひたした。
「ちょ、ちょっと!?」
「これで大丈夫。傷も治るし、多少の耐性もつく。少なくとも、君の体からあの蔦の化け物が生えたりするようなことはない。それに、そうだな……毒キノコくらいなら、どれを食べても死にはしないんじゃないか。こんなこと、本当はするべきじゃないんだけど。他に方法はないし、受け入れてくれ」
見れば、あの蔦に刺された傷がなくなっていた。
病院以外で他人と血を混ぜ合うなんて、絶対にやってはいけない。他人の血を触ることには感染症のリスクがある。混ぜるなんてもってのほかだ。それなのに、血を塗られた場所からはさっきの刺し傷が消えている。呆気に取られているうちに、彼は全ての傷を治してしまった。
大丈夫とか言われても困る。
「これ、どういう……」
「君も狙われる立場になったことがはっきりした。だから、もう黙っている必要も距離をとる必要もないな」
少年は短刀を持って立ち上がり、縦長の瞳孔に私を映した。水面に揺らめく月光のように、きらきらとした金色の欠片がその瞳を彩っている。
「僕は、鎮場神社というところに祀られている、いわゆる神様ってやつだ。そういうわけで、以後、よろしく」
「ちょ、ちょっと待って、つまり貴方は神様ってこと!?」
「だから、そう言ってるだろ」
あの短刀を抜けば、その場に出られる神出鬼没の能力。蛇を思わせる縦長の瞳孔と、虹彩にきらめく金の光。そして、この子自身がまとっている清廉な雰囲気は、確かに神様としてふさわしいものだろう。けれど、にわかには信じがたかった。この、年端もいかない、小学生くらいの男の子が……神様!?
いつも部活の取材で使っているメモ帳とシャーペンを取り、大きく深呼吸をした。そう、私は新聞部の部長だ。一年上の代は部員が入らなかったから、二年生になってからは先輩もいない中で頑張っていかなきゃいけない。しかも、これからは後輩まで育てていく立場。ここで怖気づいてどうする。
「よ、よし。まず、お名前教えてもらってもいいかな」
「芳帖弓丸。芳しいに、宇治十帖の帖。僕が生まれた家の名だ。あとは、武具の弓に丸だけど」
「ゆ、弓丸さんね。生まれたっていうのはいつに?」
「八百年くらい前。今は、帝の治世じゃなくて時代の名前で呼ばれてるんだろう。それで言えば、平安末期、鎌倉初期の頃だと思う」
「えーっと、約八百年前生まれということで。生まれたってことは、元々は人間だったと思うんだけど。どういう経緯で神様に?」
「七つの頃に大蛇に食われた。それで、悲しんだ父上が神社を建てて祀ったんだ。以来、目が覚めてからは、ずっと神様をやってる」
「えっ……」
あまりの内容にシャーペンの芯が折れた。七つの頃。つまり、いま目の前にいる、この姿の頃という認識でいいはずだ。
大蛇に、食われた。
「あの、それは……丸呑みーっ! っていう、感じ……?」
「聞きたいのか? 寺での手習いの帰り、池の近くを通りかかった時に捕まって、こう、骨を……」
「や、やっぱりやめときます」
胸の前で手を振った。どれだけのサイズだったのか想像もつかないが、何しろ八百年前のことだ、日本にもアナコンダみたいなやつがいたんだろう。大事な跡取り、しかも七歳の子どもを一人で帰らせるなとは思ったが、何か事情があったのかもしれない。
「僕は一度死んでいる。おそらく、君が〈こちら側〉に触れたことで、あの蔦の化け物——理を外れた〈化生のモノ〉もまた、君の存在に惹かれるようになったんだ」
「あれが、前に言ってた〈化生のモノ〉なの?」
「そうだ」
弓丸は、そこでいったん居住まいを正した。ペコリと頭を下げ、申し訳なさそうに言う。
「巻き込んでしまって、すまない。問題が解決するまでは、僕が君を守ろう」
「ま、守るって……」
確かに私は大人じゃない。でも、だからといってこんな子どもに任せっきりするほど幼くはないし——それに。
気にかかる。おいそれとは聞けないけれど、この子があの歩道橋に立っていた理由……あの手すりから、踵を浮かせた理由が。勘違いならそれでいい。でも、そうじゃなかったら。
眼裏に浮かぶ屋上。
飛び降りてしまった女の子。
私は今も、七年前にとらわれたままだ。
だから、その言葉は自然と口をついて出てきた。
「放ってなんておけない」