第2話 日常の喪失
クラスメイトたちが、我先にとカバンやリュックを持って教室から飛び出していく。
——これからしばらくは、日が落ちる前に帰れ。
あれから二日。私は、あの子の言いつけを守って日没前には帰っていた。今のところは、特に何も起きていない。返却された英単語テストも、いつもと変わり映えしない点数だ。
宙ぶらりんの気持ちを吐き出すように、机の上で突っ伏した。
「部室、そろそろ行かないと……」
体を起こそうとした瞬間、突然誰かに両肩を掴まれた。後ろからギューッと強く揉まれる。
「どしたの藍果! オープンキャンパスの行き先、決められないって前言ってたけど。どこにしたか聞いてもいい?」
「わっ、びっくりしたぁ」
背中に憑こうとしてきたお化け、もとい友だちは、同じ部活の鳴井瀬名だった。
「とりあえず一番近くの大学にしたよ。どっかは書かないといけないし」
「え~なにそれ。だるそー」
瀬名は声のトーンを落とし、私のロングヘアを三つ編みにして遊び始める。毛量が多く、ストレートでしなやかな私の髪は、瀬名が言うには編み応えがあって楽しいらしい。
「瀬名は一位だからすごいよ。めっちゃ勉強してるんでしょ?」
「そりゃあんなニンジン吊るされたらねぇ」
瀬名は私の前に回ってきて、トレンドカラーのラメ入りアイシャドウが乗った瞼を瞬かせた。かわいらしい笑みを浮かべながら、誇らしげに髪の内側を見せてくる。髪型はウルフカット。その内側には、赤いインナーカラーが入っている。成績のクラス順位が三位以内であれば、染髪OK、バイトOKなのがこの進学校だ。
「かっ、かわいいと思うけどさ、そのお化粧も申請通ったの」
「ん? これはしてないよ。注意されたらする~」
瀬名は中学生の頃から自由人で、真面目なのか不真面目なのかイマイチつかめない。ただ、私はこれまで、何度も瀬名に助けられてきた。頭を振り、三つ編みを解いて立ち上がる。瀬名はまるで気まぐれな猫だが、知識の豊富さ、地頭の良さには目を見張るものがある。
「ねぇ瀬名、ちょっと時間ある? 見せたいものがあるの」
***
デスクトップ型パソコンが並ぶ情報室B。ここが、新聞部に割り当てられた部室だ。広さは情報室Aの半分ほどだが、これで十分間に合っている。
瀬名をカウンターの裏に呼び、その中に潜り込んだ。他の部員が来るまで、あと五分はある。
「で、見せたいものって」
「それが……」
スカートのポケットから、あの短刀を取り出した。実際に測ってみたところ、長さは二十三センチ。ネットで調べてみたが、これは匕首と言って、鍔がなくピッタリ合わさるタイプの短刀らしい。
問題は、これを持っていると銃刀法違反になってしまうこと。もしバレたら、高校二年にして逮捕。正直、絶対に避けたい事案だ。
「これ、通りすがりの人に、お礼としてもらった刀……なんだけど。警察に届けた方がいいのは分かってるの、でも」
「ちょっと待って。藍果の手の上、何も見えない」
「えっ?」
私の右手には、例の短刀が乗せられている。それなのに、瀬名はこれが見えないと言う。
「持ってみる?」
「うん」
瀬名の細く白い手に、ずっしりとした守り刀を乗せる。瀬名は、小さく息を呑んだ。
「……重さは感じる。何なのこれ」
整った眉をひそめ、珍しく険しい目つきで私を見た。私は視線を落とし、膝の上で拳を作る。説明したいのは山々だが、信じてもらえるかどうか。
迷いつつも口を開こうとしたそのとき、ガラガラガラ! と大きな音が遮った。
「お疲れ様です。あれ、藍果先輩に瀬名先輩……逢引き中でしたか。失礼しました」
カウンターから首を伸ばして入口の方を見る。そこには、新聞部唯一の後輩、樫野彩が立っていた。お察しの通り、うちの部活は常時絶賛部員募集中だ。
「そ~なんだよアヤちゃん。藍果さ、なんか知らない人から変なもの受け取っててさ、隠してたわけ。気にくわないよねぇ」
「え、や、違うから! これはほら、相談事があって」
「じゃ、お邪魔します」
アヤは、心底どうでもよさそうに切れ長の目を細めた。きっちりとドアを閉め、いつもの席に座ってパソコンの電源をつける。首元で切り揃えられた髪を、バチン、とクリップ型のピンで留めた。
「先輩達が修羅場なのは分かりました。それで、編集した春季大会の写真をクラウドに上げておいたんですけど。ちょっと見てもらってもいいですか」
「あ、あぁごめんごめん、今チェックするね」
他のメンバーは幽霊部員と化していたり、たまにしか来なかったりと適当だが、アヤは毎回来てくれる。入部してから一月もたたないうちに、ほとんどの仕事を覚えてしまった。しかも、画像編集やレイアウトがとにかく上手くて、色選びのセンスも良い。
「そしたら、この写真を記事に貼りつけて」
「了解です。タイトルはどうしますか」
「うーん、そうだなぁ……ね、瀬名は何かいい案ある?」
一度作業を始めてしまうと、あっという間に時間が過ぎる。次に時計を見たのは、完全下校時刻を知らせるチャイムが鳴った後のことだった。
もう、外はすっかり暗い。
***
「ねぇ瀬名、忘れてたんだけど……あの刀、返してもらってもいい?」
アヤは用事があると言ってダッシュで帰っていったが、私は瀬名と一緒に歩いていた。五月といえど、夜七時を過ぎれば辺りは暗い。横断歩道の信号が赤に変わり、私達は足を止める。
日は、完全に落ちていた。
「返せない」
「……え」
瀬名はスカートの上から手を重ね、ポケットの辺りを強く握りしめる。おそらく、そこにあの短刀を入れているのだろう。
「それがないと、困るの……瀬名。特に、日が落ちた後は必ず持っているようにって、それを渡してくれた子が言ったの」
作業に熱中して、つい預けたままにしてしまった私が百パーセント悪い。でも、あの子から渡された大事な物だ。薄雲に映る夕焼けの残り火が、橙から薄紫へと移ろっていく。
顔を上げ、瀬名は私のことをじっと見つめた。大きな瞳が、揺れることなく私を映す。
「教えて、藍果。話の続き、教えてくれたら返すから。お願い」
「瀬名……」
きっと瀬名は、私のことを試している。本当に困っているのなら、この場で教えてくれるはずだと。瀬名は、私に隠し事をされるのが嫌なのだ。
ふと、違和感を覚えて横断歩道の向こうを見た。いつもなら、一分ほどで青に変わるはずの歩行者用信号機。
「ね、ねぇ瀬名。あれ」
「なに?」
す、と横断歩道の向こうを指差す。
赤色の光が二つ、煌々と輝いていた。両手を横に揃え、「止まれ」を表す信号機の光。それが、上にも下にも灯っている。瀬名が、スマホのレンズをそれに向けた。
「藍果。あの光、上一つしか映らないよ」
「な……」
突如、背後から石の割れるような音がした。コンクリートの欠片が転がり、何かが足に絡みつく。全身に鳥肌が立ち、悲鳴も上げられずに硬直した。
バラの茎よりも太い、蔦のようなもの。それが、足首から膝、膝から太腿へと巻きつきながら這い上がってくる。薄暗がりに目を凝らせば、それは割れた地面の隙間から伸びていた。棘がざくざくと薄い皮膚に突き刺さり、鋭い痛みが体を走る。
「瀬名っ、あの刀、渡して……っ!」
脳裏には、あの水色の長い袖がひらめいていた。きっとあの子は、こうなることを予見して。
「きゃあぁぁっ、い、いやっ……!」
瀬名が私の脚を見て叫び、スカートから出した短刀を放り投げた。鞘が外れ、露出した刃が外灯の光を反射する。
ざん、と。
一陣の風が蔦の化け物を断ち切って、誰かが背後に降り立った。巻きついていた蔦ははらはらと枯れ落ち、忽然と姿を消してしまう。
振り返らなくても分かる。あの子だ。歩道橋で出会ったあの少年が、私のことを助けてくれた。
ドッと肩の力が抜けて、頭の中がぐるぐると回るような感覚に襲われる。それは貧血のときのめまいにも似ていた。
「藍果」
瀬名の声が夜道に響く。食い入るように私の脚を見つめ、こわばった顔で言葉を続ける。
「私に聞こえたのは、何かが砕けて割れる音。それから、植物が擦れ合うような音。その後、藍果の脚にいくつも刺し傷がついて、どんどん血が流れてきて……」
震える指先を隠すように、瀬名はその手を背後に回した。信号は元に戻っていて、青い光が一つだけ灯っている。ここを渡った先の角に、瀬名の通う塾がある。
「ごめん。私、怖い……!」
そう言って、瀬名はバッと背を向け走り出した。
「待って、痛っ」
追いかけようと思っても、足の痛みはどんどん増してくる。見れば、つたい落ちた血が白い靴下を染めていた。さっきの化け物は何なのか、瀬名にどう説明したらいいのか。頭の中がいっぱいになって、私は地面にしゃがみ込んだ。
「なんでっ、こんな……!」
「藍果。立て」
目の前に影が差して、聞き覚えのある声が降ってきた。顔を上げれば、そこにいたのは和服姿の男の子。
細く短めの眉はキッと吊り上がっていて、目元には涼やかな品があった。下まつげの影が濃く、目尻や粘膜に差した赤みは不思議な色気を感じさせる。虹彩には、金色の薄片がちらちらと混ざっていて。
「忠告、破っただろ」
血色のいい唇を引き結び、怒った顔で私を見下ろしていた。二日前、あの歩道橋で出会った少年だった。