影の世界、現実の世界
『影の世界、現実の世界』 -存在すること-
存在とはなんだろう?
自らの感じる存在理由は
我思う故に我在りという言の葉
自分はここに居ると信じている
だからここに居て生きているのだ
人から頂いた存在理由もまたある
人に必要とされるからここに居られる
だからここに居て生きていられる
人と共に生きること
独りでは生きられず
だから人は共存共栄の中で生きる
存在とはひとつだけなのか?
現実と電脳の世界の違いのように
複数の存在を一人で抱えること
それも当たり前にある
仕事での顔
家庭での顔
親としての顔
子としての顔
兄弟姉妹
同好の士
愛する者同士
信頼する人たち
幾つもの顔を持ち
幾つもの相手に合わせる
自然にそして当たり前に
多くの光に照らされ出来た影のように
人は幾つもの心を
たくさんの想いと共にその影のなかに持つ
場所により相手により
幾つもの仮面あるいは人格を
被り直し使い分けるように
存在を分けつつ幾つもの心を持つのだ
物語の世界ならなおのこと
書き続けた分だけ
歩いた分だけ
心と想い
人格や人々が
時に別の人物であるように
時には代弁者のように
心のうちに出来てゆく
人は現実に生まれ
現実にないものを願い祈り
時にそれらを現実に叶え
或いは儚い夢幻へと葬り
そしていつか自らも
やがて現実のなかから消えてゆく
ひとの存在とはなんだろう?
その想いたる影の寄り添うものは
果たして本当にあることなのか……
現実から影のような想いが生まれるように
影から生まれる現実もまた在るのかもしれない
美しい景色から言の葉が生まれるように
言の葉から映像が見えてくるように
三次元と二次元の世界とを
想いと心が結びつけるように
相対論と量子論とを
ホログラフィック原理が結びつけるように
ひとの持つ想いと
ひとの紡ぐ言の葉と
風に溶ける想い
語られる物語や響く歌や
形として残るもの
文字や絵画や写真や
たくさんのたくさんの
想いの創造物たち
そうした想いの詰まったものたちから
新たな心が生まれる
生まれゆく
想いも人も消えゆくけれど
世界に揺蕩うように
見えなくても聞こえなくても
そこに在る
見えずとも触れられずとも
こころは漂いながら
そこに在るのだ
円環のように
螺旋のように
せかいはつづき
そしてうまれる
またであうのだ
-猫又のつぶやき-
やあタマだよ♪
久しぶりというか、みなはらが全然書いてくれないから出てきた♪←みなはらがあたしの出てくる連載書きかけ、全然書いてくれないからさ(苦笑)
この間、みなはらと一緒に(あいつの頭の中から)観てた科学番組。
相対論と量子論の対立から語られた、ブラックホール情報パラドックスを解決に導くための理論である、ホログラフィック原理と超弦理論。とても興味深いね。
ホログラフィック原理って面白いね♪
あたしたちは、人から生まれた創造物であるあたしみたいなものだけでなく、現実の存在であるとされる人間や生命や、それを育む世界、宇宙という物質全体が、
極小単位の二次元情報から物質情報として投影された、立体に見えるホログラムのようなものであるという説なんだね。
あたしたちや人間も単なる情報で、
物質かどうかという情報の振る舞いかたの違いだけ、情報というものの認識の違いだけかもしれないということなんだ(笑)
宇宙の彼方の地平からの二次元の情報で、
宇宙全体が物質として投影されて創造物として表されている、顕現されているのかもしれないなんて、
とてもわくわくするねっ♪
少し前に同じような科学番組でやってた、雷の起きる原因は、水分子同士の静電気発生でなくて、
宇宙から降り注ぐニュートリノなんかの宇宙線が発生の要因なんだってやつ。あれも面白かったよ♪
雷我落ちることで、生命の起源となる物質を創り出しているという説があるから、
遠くから宇宙を渡ってきた宇宙線が間接的に命を生み、地球などの星へと遠く遠くから影響を与えていたというお話みたいに、
世界はとてつもなく大きな範囲の物事で成り立っているのかもしれないってことなんだね♪
別の番組での、オーロラが太陽フレア発生の電磁波を、地球の磁力線バリアで反らしはね返している衝突の光だってこととかとおんなじで、
世界は、世界で起きている事象や創り出される出来事などは、
ただ地球ひとつだけで全て完結してるわけじゃないってことが判るよね。
宇宙全体を含めてひとつの世界なんだよ♪
広大な、遊び尽くせないほどの、果てのない世界とその情報♪
わくわくするねぇ。ほんとならとても楽しみだよ♪
-蛇足-
以前読んだ物語に、
人を人として認識するには、
背景のような影の存在である人を、自らの中に映し出して、
それに焦点を当てて初めて、その影を人として認識、理解するのだとありました。
ホログラフィック原理が真実だとして、
人というものは、宇宙という世界は、
そうやって認識されるからこそ、
理解させられるからこそ、
そこに存在しているものなのかもしれませんね。
それもまた真実であるのかもと感じています。
人は孤独ではなく、
人と世界、お互いに在るものとして認識し、
そうして理解し合っているのかもしれません。