あれは旅立ちの契り。
桜は散って久しく、にわかに振る雨は雨季の訪れを告げる。
吉原のあの場所で二人は佇んでいた。
「旦那。行きやしょ。あとはその慰霊碑が鎮めてくれやすよ」
「ああ……」
「弐鉄一人じゃ出来ることも知れてやす。手下は牢屋か地獄の釜。江戸に平和が戻ったんでさ」
「その弐鉄は、一人で一味を大きくしたのだぞ。あやつは一人でもまた……」
「そりゃそうっすけど……」
十蔵はため息をつくと切り出した。
「太平。……おかしくないか」
「なにがです?」
「あのとき、姿は見ていないが、あやつは確かにそこにいた……それが襖を破った一瞬のうちに部屋から消えた」
「ええ、大した早わざには違いないですけど……。あの弐鉄ですからね」
「一瞬のうちに、どこかにいく。我らはその経験をしたな」
「まさか、やめてくだせえ」
太平はぼりぼりと頭をかくと苦虫を噛んだような顔をする。
「二人で湯豆腐屋に戻ったあと、別の世を見たことは夢だったと決めたが、この心は事実であったと言っている」
二人は別の世界に行くという奇々怪々な出来事を、なるべく忘れようと決めた。そして覚えていてもそれは夢なのだと思うことを約束していた。
「でもでも、もしっすよ? 奴さんが別の世界に行ってくれたなら好都合じゃないですか?」
「お前…!」
「いえ、たくさん殺めた下手人は許せやせんよ? 旦那の敵でもありやすし。ただ、これからの江戸の平和って考えるとですね」
「それでもよいのか!? どこか別の場所で家族を殺され、犯され、汗水の金品を奪われる者がいるやもしれんのだぞ!?」
「旦那、出たこと言うのをお許し下せぇ。この世の平和、旦那が全部背負うなんて無理っすよ。まして他の世のことまで……」
「しかしあやつめは我らの世の悪党だ……」
「きっと神さんが言ってた『ちゃんと討てる』ってのは、奴の手下という牙を削いで、もう二度と悪さ出来ねぇようにしたってことなんだと思いやす。どこかの世界に行ってようが、江戸で野垂れ死んでようが、一件落着、この世の平和は続くんだと、あっしは信じたいっす!」
「いや~~そうも行かなくなってね~」
刹那。曇天の空も、慰霊碑も消えていた。
あたりは真っ白、二人はまた、あの空間に来ていた。
「お久しぶり。十蔵くん、太平くん」
「また貴様か」
「神に向かって貴様ってどうなの~? ん~でもさ、貴様って漢字で見ると敬語っぽいよね、でもなんで貴様っていわれると身構えちゃうんだろ。これも漫画の影響なのかな」
「もったいぶるでない。『そうもいかなくなった』。そして我らの前に現れた。またぞろ何か頼みに来たのではないか?」
「半分正解としておこうかな」
「え? え? どういうことでさ? 神さんが言ってたあと二話ってやつは弐鉄がどうにかなったら終わりじゃねぇのかい?」
「うん。どうにかなったら良かったんだけど、どうでもいいわけじゃないんだよね」
神は湯豆腐を食べていた。
「食べる? ポン酢が残り少ないんだけど」
「貴様……なにを日和見たことを。神とて許さんぞ」
「僕と争っても仕方ないでしょー。熱ッ! えっと簡潔に言うよ。弐鉄はまだ生きてる」
「知れたこと! 部屋の中から一瞬で消えたのだ! 別の世界に行ったに違いない!」
「それは勘違いだよ。君が弐鉄の部屋に踏み入った時、あいつはまだ『神室十蔵』の世界に居た」
「なに…?」
「君は弐鉄と一緒にいたよ。熱ッ!」
「あやつと俺が共に…? 馬鹿な」
「十蔵君はさ、そもそも弐鉄の正体知ってる?」
「盗賊団の頭だ! 我が両親を殺め、剣術の師匠を再起不能にした。略奪と殺生を繰り返して市中を混乱に陥れている」
「ふんふん。ほかは?」
「盗賊団の首元には般若の墨。手下と違って弐鉄の般若には額に傷があるらしいと」
「それ以上は知らない? 人相とか」
「そう……だな」
「ではもう一回訊く。弐鉄の部屋に踏み入ったとき、本当に誰もいなかった?」
「おらなんだ。少なくとも弐鉄は消えたあとだったのだ! 哀れ、斬られた遊女が瀕死でおったのみ!」
編集の神は人差し指で自分の頭をトントンと突く。考えろと促していることは十蔵にも分かったのだが…。
「もったいぶるでない! 何が言いたいのだ!」
「君に自分でたどり着いてほしいんだよ、君の物語だもの。……うん。質問を変えよう。あの捕り物で誰が死んだ?」
「奉行所の触れによりやすと、与力、同心9人、遊郭の主人、巻き添えになった給仕5人に、客6人、通りすがり4人、悪党18人でしたね……」
「んん? まことか太平」
「た、たしかでさ」
「たどり着いたかな十蔵くん」
「あっしは全然わかりゃせん! 旦那、どうしたんです?」
「死人のなかには、遊女が……いない」
「っあーーッ!? ……って。わかんないっす」
「まとめようか。部屋には誰もいなかったと言いつつ、瀕死の遊女はいた。君たちは弐鉄の人相を知らない、奉行所の発表では死人の中に遊女はいない。……考えられることは?」
「あり得ん!」
「いいや、一番あり得るさ。弐鉄の逃げ足が早わざでもあの現場からでは目撃者が残る。でも誰も見ていない。そもそも部屋から一瞬で人が消えることは考えにくい。だとすると、ずっとそこにいたんだ」
「君たちが、そんなはずはないと思う姿でね」
「あの瀕死の遊女が弐鉄……」
「っえー!? そんなことあり得るんすか!?」
「……あれは、死んだふりということか…」
「盗賊には入れ墨があるんでしょ? 首筋、確認すれば良かったよね。もぐもぐ」
「てやんでぇ! 江戸が震える大悪党が女だぁ?」
「『上の人たち』の世の中だと、今や女だから〇〇というのが禁句でね。でも江戸を描いた神室十蔵はそこを面白いポイントに持ってきたんだ。うまくやるよね~」
最後のポン酢を湯豆腐にかけ、一滴も惜しそうに垂らすと神は続けた。
「本来の『神室十蔵』最終回では、十蔵君が一人で弐鉄の正体を見抜くはずだった。卓越した洞察力で瀕死(芝居)の遊女に縄をかけるんだ。当然周りは驚く。でも君は言うんだよ『人は一瞬で消えやしない、お前が弐鉄だな』ってね。で、首筋を確認して入れ墨を見つける」
「馬鹿な……」
「そう、その『馬鹿な!』がマンガを面白くする。盗賊団の頭領なんてゴリゴリ悪人ヅラで、もちろん男だろうと誰もが勝手に想像するからね、でもその正体は妖艶な美女だったんだ」
「やはり最初に遊廓の主人が殺されたのも……」
「口封じだろうねぇ」
「つ、辻褄が合いやすね。盗賊ってぇ男社会では馬鹿にされねえ為に男と思わせるでしょうし……人相が掴めねえのは本人が女なのを隠しているから」
「そうそう、それを見抜くのが最終回の見せ場だったんだよね」
「でも旦那ともあろう人が、どうして……」
「恋だよ太平君」
「っかぁ~~~旦那ぁ」
「これが僕の心配していた事態。十蔵君はまだ、生き方を選んで明るくいるアマネのことを想ってる。だから人生を嘆いて死んでいく遊女の芝居に“アテられ”ちゃった。洞察力は低下し、縄をかけようなんて夢にも思わなかった…ってわけ」
「俺は…俺は……」
「そうして『神室十蔵』の最終回は有耶無耶になってしまった」
「まあこれだけなら別に修正も出来るわけよ」
「なんだと…?」
「はあ。食った食った。本題に入ろう」
「ひとつ、君が弐鉄を捕えなかったことで彼女は生き延びた」
「ひとつ、『上』でまた事故が起きた」
「ひとつ、弐鉄はその事故を利用して別の漫画に逃げた」
「なんでぃ! 事故は滅多にねぇことだって言ってたのに」
「短期間で“滅多”が二回起きただけのことだろう、仕方ない」
「この神、あっしは嫌いだね」
「恨まれても仕方ない。本来なら君たちはあの月夜に弐鉄について少し話をする予定だった。そこで少し考えがまとまるから捕物の日に弐鉄の正体を見抜く土台になるはずだったんだ」
「じゃあ神さんのせいでさあ!」
「でも僕は修正したし警告もしたよ。世界が混ざる事故がまた起きたわけだけど、そこで弐鉄が別の漫画に逃げたのは、十蔵くんが捕え損ねたからだ」
「なるほど…な」
「そういうことで、最初にも言ったけど、頼みがあって呼んだのは半分正解なんだ」
「もう半分、俺に責任を取らせようということか」
「てやんで! 巻き込まれた人間に責任なんて」
「しかし解せぬのは神様、お主よ。もしや、漫画とやらの中には干渉できぬのか」
「そう。だからこうして『上の人たち』と『物語』の中間にあるココでしか、君たちと会えない。やることを伝えるのみだ」
「ふむ。何をすればいい」
「旦那ぁ! 重荷が過ぎやすって!」
「十蔵君、君に他の漫画を渡り歩く力を授ける。弐鉄を捕えて自分の世界に戻し、物語を終わらせるんだ」
「でもさ神さん! あっしらがアマネの世界に行ったときみたいに、弐鉄を連れ戻せば良いんじゃないのかい?」
「それそれ。それが、“そうもいかなくて” なんだ」
「何だ」
「今度混ざっちゃったのは36作品の未完原稿なんだ」
「36の世界…ってことけ…?」
「そう。漫画の編集部には連載が止まったり、先行きを検討中だったりして、世に発表されていない原稿が山ほどある。その進んでいない物語の海に弐鉄は逃げた。僕は進んでいる物語専門でね」
「都合の良い神だな」
「…おほん。そして十蔵君にとっては悪いことに。未完原稿の山の中には『ミルキーようかん』も含まれる」
「どういうことだ、それは!」
「そのままの意味だよ。ミルキーようかんは話の先行きがまとまらなくて、しばらく休載。つまりお休み。それで最新の原稿が未完の山にある。つまり……」
「アマネの世界に弐鉄が行く可能性もあるってことかい!」
「その通りだ。もっとも、弐鉄も行きたい漫画世界にすぐ移れるわけじゃない」
「どういうことだ」
「未完の原稿だからね、物語を進めてあげると隣り合う違う漫画に通じる門が開いて移れるんだ。その物語を弐鉄が悪の進め方にするか、君らが正統派の物語として進めるか、その攻防を繰り返して奴を追うことになるだろうね」
「難しすぎるであろう!」
「でも出来なくはないであろう~!」
「俺もこの神は嫌いだな」
「仲良くしてくれよ、マンガ作るのって、大変なんだから…」