あれは業の定め。
江戸は春を迎え、桜の花びらが舞う頃。
暮れなずむ吉原に物々しい男たちが向かっていた。皆が陣笠を被り、そのふちから覗き見える眼は戦に備える侍のそれである。
先頭を行くのはもちろん神室十蔵。
町民はその気迫におののくや、家に入り戸を閉め、子供も泣くのをやめてじっと見つめ、母に手を引かれて路地に隠れた。
その場所。吉原は野木屋という。行燈に灯をともしていた主人が、その集団に気付くと、これはこれはと胡麻をする。
「この遊郭の主人か」
「へえ。何かありやしたでしょうか…うッ」
「この一帯を奉行所同心ほか我ら火付盗賊改方が囲んだ。命惜しくば家財を忘れ、今すぐ逃げろ」
「……へえ、あ、その……」
「どうした。首元に般若の墨が入った男らが来ているだろう。奴らは盗賊だ」
「あが……そ…の…」
「……ん。主人、どうした!」
「神室様、下がられよ! かまえ! かまえぇぇ!!」
十蔵の後ろにいた与力が異変に気付くと抜刀の指示を出す。
遊郭の主人は背後から刀で刺され、立ったまま死んでいた。
御用衆が身構え終わるかというその寸差で、遊郭の中、周囲の酒屋からガラの悪い男たちが飛び出してきた。
乱戦、格闘、悲鳴と怒号。
同心どもも混乱を極める。
「待ち伏せだ! 捕り物が見抜かれていた!」
「ええい、斬って良いのだな!」
「斬り過ぎるなぁあ! 生きて捉えよ!」
「四之助、後ろだ!」
四之助という同心の背後に迫っていた男を制したのは十蔵。
鮮やかに相手の懐に入り顎を打つと、十手で手をはたいて刀を落とし、足を払ってねじ伏せる。
「助かりました神室様! 賊の勢いからみて、ここに弐鉄がいるに違いありま…! っう!!」
「四之助!! 大丈夫か!?」
同心の若手、四之助が刺されてしまう。
「十蔵様、四之助が…!」
「そのままにせい」
「…まだ息がありますよ!」
「馬鹿者。護りたい者にかまえばそこを狙われるぞ」
「しかし!」
「いち早く蹴散らして四之助の元へ戻るのが早道、助けたくば捨ておけ!」
「はっ!」
一人の岡っ引きが建物の隙間から飛び出してきた。
「旦那!」
「太平!」
「裏手へ来てください!」
同心が止めに入る。
「岡っ引きは参の陣だ、下がれ…!」
「いいんだ。こいつは鼻が利く。信じていいな太平」
「へい!」
「数人俺に続け。他の者は引き続きひっとらえろ!」
建物の隙間を抜けて裏手に出ると、腰丈ほどの戸があって、遊女たちが出てきていた。
「なるほど遊郭の猫戸か。遊びが過ぎて覚えたか太平」
「やめてくだせえ、天性の勘ってやつでさ! おっと、退きなお譲さんがた!」
扉を入ると表の斬り合いが少し遠く聞こえ、遊郭内も皿の割れる音や飛び出してくる半裸の男女に、べそをかく半グレが布団にくるまっているなど、慌ただしい。
廊下をずんずんと数人で進むと、途中、同心がうめき声をあげた。
部屋の襖から刀が突き出て同心のわき腹に刺さったのだ。
「稔助!!」
「護りたくば捨て置け! くそう! この部屋か!」
十蔵は襖を破ろうとするも、動きを読まれているかのように襖の向こうから刀が抜き差しされ、身を引いた。
「あれ…あれ、あれ。オイラぁ神室を狙ったんだけっどなぁ、運のいい野郎だぁ。別の奴に刺さったかぁ~」
襖の奥から聞こえてきたのはどこか間の抜けている声。
「火付盗賊改である! 弐鉄だな! 神妙にしろ!」
「しんみょう、ねぇ。……いや~神妙には、しねぇな~」
弐鉄と思われる声が少し遠ざかるのを察した十蔵は一か八か、襖を蹴破る。
「この!」
しかしそこには弐鉄と思われる影はなかった。
部屋には棄てられた刀と、斬られて息も絶え絶えの遊女が這っている。口から血を流し、時々うめき声を上げた。
「あたりを改めろ」
十蔵に指示された同心は、別の部屋に繋がる襖をあけたり、畳に仕掛けがないかどうかなどを調べ始めた。
十蔵は倒れている遊女に近づき、はだけた着物を整えてやる。
「さぞや、つらかろうな」
「こ、んな……じん…せ…え、え……げふ、ああ」
「そう言うな」
「こんな……げふ! じん…せい…」
「生き方が選べなかったか」
「げふッ…がはッ……うまれ…かわ、かわったら…」
「ああ。好きに。好きに生きればよい」
「んん、ん、、げふ、ぐは、はあ、はあ」
女の身体から力が抜け、最期の吐息を十蔵は聞き届けた。
「神室様。畳にも天井にも不審はございません」
「旦那、別の部屋も見やしたが、慌ててる連中ばっかりで、今今、怪しい奴が飛び出してった訳じゃねぇみたいでさぁ」
十蔵は亡くなった遊女の瞼を閉じてやると、立ち上がって部屋から出て行った。
「表に加勢するぞ。続け」
江戸の歴史に残るこの大捕り物には、あらゆる治安組織を動員され、弐鉄の手下を壊滅せしめるに至った。しかしその代償はあまりに大きく、弐鉄の捕縛に至らなかったほか、殉職者、所縁の無い被害者が大勢出たため、慰霊碑が立てられている。