あれは忘れられぬ味。
「女将。出せるものでいい。温かいものを食わせてくれ」
酒屋の固まる一画に十蔵いきつけの湯豆腐を出す店がある。三人はそこに入った。
「もう遅いが何か食おう。からだも冷えたからな」
「あのう……私はこれからどこかに連れていかれるんですか?」
十蔵は腕を組むと天井を仰いだ。
「ふむ。それが俺にも分からん」
身なりも珍しく、言葉が通じないわけではないが、いささかこの世のものとは思えぬ違和感。どうしたものかと十蔵は思いあぐねていた。
「ま。……まずは名乗りますか旦那」
「ああそうだな。俺は神室十蔵。こっちは太平だ。宜しく頼む」
「私は、アマネと言います。その……助けてくださって、ありがとうございます」
「いやなに、通りすがりよ。さっそくだが話せることを話してくれるか、なんでもいい」
アマネは正座をより正すと、運ばれた湯豆腐の湯気の向こうから話し始めた。
「私は亡くなった祖母が残してくれた洋館を改造してお店をやっています」
「ようかん、ってあの食べるようかんっすか?」
「いいえ、洋風のヨウにヤカタで、洋館です」
「よ、ようふう…?っすか」
「ふん。やはり我々と諸々が違うところから来たようだな。すまない、続けてくれ」
「そのお店はまさに食べるようかんを出すお店で、これも……祖母が好きだったものですから」
「ようかんと洋館…」
「太平」
「すいやせん」
「洋館の二階はアパートに改造していて、気の知れた友達や新しい入居者さんと一緒に一階のお店を切り盛りしてます」
「うむ(ア、あぱーと?)」
「お店は決して繁盛していませんけれど、少しずつお客さんが来てくれるようになって……」
「女で切り盛りとは、すげぇや」
「その店の中にいたのか」
「はい……人を待っていたら」
「へっへへ! 想い人だったりして!」
「はい…」
「おっと、マジかい」
「いつからか……いつも来てくれるお客さん……。同い年くらいの男の子に、私、恋をして…」
「十蔵の旦那、見事に破れたり~! あ痛ッ!!」
「す、すまん、続けてくれ」
「すれ違いもありましたけど……遠くに行ってしまうという彼に告白しようと思って、彼をお店に呼んで、客席に座ってたら……いつの間にか、さっきの夜道にいました」
十蔵と太平は顔を見合わせた。
「「なるほど。わからん」」
アマネは、ぷっと噴き出すと。
「お二人って面白いですよね」
と笑った。
「許してくれ。事情もそうだが、耳慣れぬ言葉が多すぎるのだ。話の要点は掴みようもあるが…」
「いいんです。本当に面白いなと思って。不安でさまよっていたら、暗闇でふざけてる人がいて、凄い眼力でどこからきたか聞かれたかと思うと、太平さんも、おちゃらけてて、一緒にいる十蔵さんも引きずられてて。んふふ、なんかかわいいって」
「旦那、酒が回ってきたんすか、顔が赤……痛っ!」
「か、かわいいとはなんだ。こう見えて二十九だぞ」
「…………え?」
「なんだその間は」
「私も……29です…」
「「…………え?」」
「なんです、その間は?」
「す、すまない。その、幼く見えた…のでな」
「ふふ。私は、十蔵さんのこと、もっと年上だと思っていました」
「そ、それは、うれしいな。誉れだ」
「しっかしあれっすね、アマネは、あっしらの知らない別の場所からきたってことなんすかね」
「腑に落ちんがそういうことになろう。服装も俺らからすると珍妙だ」
「お二人は、時代劇の格好ですよね、あ、もしここがそういう時代?なら“劇”じゃないのかな…」
「「じだい…げき?」」
「ふふふ、やっぱりおもしろい」
その瞬間だった。
「ど、どこだここは!?」
周囲は景色が変わっていた。さきほどまで江戸は八丁堀の湯豆腐屋にいたというのに、十蔵と太平は説明不能な場所にいた。
「え!? 私のお店? もどってきた……急にどうして?」
そこはアマネが元居た世界、消える前まで自分がいた、自分の店だった。
「お客さんも居ないし、外は昼間?」
「本当だな、今まで戌の刻だったというのに」
「きつねに化かされてるんっすね。絶対きつねっす。アマネがきつねっすね、たぶん」
「私は狐じゃないですよ!」
「あいやまて、外の景色はなんだ!?」
「城壁みたいなのがいっぱいっすね、やっぱきつねじゃないっすか?」
「それはビルといって……う~ん」
アマネは、う~んと首をかしげると。
「とりあえず、お茶にしましょうか」
と手を叩いた。