目を覚ました感情
謁見の間が陽の沈んだ冷たい外気温よりも低く凍った。冷暖房が壊れた訳でも、唐突に冬が訪れた訳でもなく、それは一人の男の押し込め切れていない感情の漏洩によるものだった。
「一体どういうことですか、バートさん」
普段通りの声色、普段通りの表情、普段通りの態度。飄々としたその出で立ちは何ら変わらないのに、リタを中心に空気がパリパリと凍っていっていた。
たまたま居合わせた他の王室付特別騎士、呼ばれたバートも思わず冷や汗を滴らせている。何も変わらず呑気な顔をしているのはエーベルハルトだけだ。
「どういうことと言われましても、今説明した通り。カコさんがベルクマン家へ潜入しています。彼女が自ら言い出したことです」
「許可したのはあなたでしょう。カコは向こう見ずなところがありますが、本当に重要なところではあなたの言に背くようなことはしません」
「私も最初は反対しましたよ。それでも行くと言ったのは彼女です。…多少、言いくるめられたことは謝りますが…」
視線を斜め下にずらしたバートの目は僅かに悔しさと後悔の色が見える。リタにはそれが見えただろうに、詰問を緩めることはなかった。
「だったらせめて、俺に相談してくれれば良かったでしょう。カコの保護責任は俺が担っているつもりだったのですが」
「報告が遅れたのは申し訳ありません。ですが、あなたは別任務で城を空けていたのでどうしようもなかったのですよ。事態は急を要していました」
「急を要していても、衝動的に動くのは得策ではありません。…あんたらしくもない…」
低く呻くように言った言葉に、リタの感情が漏れ出る。怒りや焦り、動揺。彼らしくない感情ではあるが、全く持ち合わせていないわけでもなく、普段は奥深くに眠っているだけだ。リタを幼い頃から見てきているバートでも殆ど見たことがないけれど、こうしてきっかけがあれば頭を擡げてくる。
「他にも策は何通りも考えました。それでもカコさんが出してくれた案が迅速かつ、ここ最近の不穏な動きの正体を特定できる的確なものだったのです。長い事この城に勤めていて情けない話ですが、私には考え付かなかった案です」
「そういうことじゃない。何故カコをこんなに公の場に出した?あいつは非力な十六の少女だぞ」
「…分かっています」
物理的に不可能でなければ、仕事の殆どを断ることなく受けているリタが(サボることはある)バートにここまで盾突くのは初めてではないだろうか。そもそも、バートにここまで意見出来る者もこの城ではエーベルハルト以外にリタぐらいだ。
予想以上に食らいついてくるリタに、バートも段々と言葉を失っていく。今更バートを責めてもどうしようもないのだが、リタはこの感情を扱い慣れていない為にこうして吐き出すしかないのだ。これでも必死に押し殺している。
と、握りつぶすように力が入る拳を、場にそぐわない間の抜けた声が包んだ。
「まぁまぁ、リタ。そのくらいで勘弁してやれ。相手は五十超えのオッサンだぞ。社会の荒波に揉まれまくってもう抗う力が残されておらん」
「オッサ…」
確かに間違ってはいないが、気持ち的にはまだそんな風に思っていなかったためか、エーベルハルトの悪気のない言葉にバートはリタに責められた以上のショックを受ける。トドメを刺されたも同然だ。
突然飽和した柔らかな空気に、リタは少しだけ身体の力を抜き、オリヴィアも持っていた澄んだ紫色の瞳を見た。
「…陛下。カコはあんた達の知らないところで抱えきれない傷を負っている。抱えきれもしないくせに、あいつはこの世界をどうにかしようとしているし、神と世界と人間のバランサーになろうとしている。…これは、あいつに背負わせることですか?」
「誰もそうは言っていない。私もカコがベルクマンのところへ行くということは聞いていたから、それがいけなかったのなら、止めなかった私にも責任がある」
「俺はあんたにもバートさんと同じ感情を抱いてますよ」
エーベルハルトの横に立っている護衛騎士の顔色が青ざめている。なんて場面に遭遇してしまったのだと。まさかいつも仕事に忠実なリタがこんな反旗を翻すようなことをするなんて想像もしていなかったはずだ。偶然国王の護衛の任についている時間だっただけなのに、運が悪いとしか言いようがなかった。唯一の救いだったのは、エーベルハルトが全く意に介していないことだった。氷点下を誘うリタの空気にも春の陽射しのような呑気な風を吹かせる。
「珍しいな?お前がそんなに怒っているとは」
「そうですか?あなたは昔から人の苛立ちが無頓着な人ですからね。気付いていなかっただけじゃないですか」
「そんなことないぞー?私はキヅカナイフリシテイタダケダ」
「片言」
音が鳴らない口笛を吹くんじゃない。
「まぁ、何にせよ慣れないことするもんじゃないぞ、リタ。頭を冷やせ。カコとバートが考えた策が是でも非でも、お前のやることは変わらんだろう?」
リタはすっと目を眇める。
最初から最後まで、余裕のある笑みを湛えるエーベルハルトには、その時点でこの場の誰も敵わない。誰がいいとも悪いとも言わず、誰の肩も持たず、場を治めてしまうこの男の力は、世界が脅威としているものだ。
リタも例外ではない。出会った時から、この人に勝てると思ったこともないし、勝負を仕掛けようとも思わない。相手になると思わないから。
「……陛下とバートさんは、どこまで知っているんですか。カコを巻き込んだからには、そちらの情報も開示願いますよ」
「カコを巻き込んだのはお前もだぞリタ。そんなに過保護にしたいなら、何も話さなければ良かったんだ」
「………分かってますよ…」
ロッテが攫われたことも然り、鉄砲玉のように飛び出す彼女に手を貸したりせず、ただただ狭い所で大事に守っておけば良かったなんて、リタが一番分かっている。それでも果胡に何かを託して、何かあった時にすぐに手を伸ばせるところにいたいと思うのは、リタ自身の我儘だ。
さすがと言うべきか、エーベルハルトはそんな脆さをピンポイントで見抜いてくる。普段、『キヅカナイフリシテイタダケダ』というのも強ち嘘ではないのかもしれない。
リタの目線が少し下がったのを視界の端で見たエーベルハルトは、組んでいた脚を解き、両端の肘置きに肘をついた。年齢を感じさせない長く綺麗な指を組ませ、その上で口端を吊り上げた。
さて、と呟いたのを合図に、彼は国王の空気を纏う。
「こちらはこちらで動き始めようか」




