雨に消えた記憶
「あいたっ」
ぼーっとしていたのか、果胡はフォークの先で指を突く。右手の人差し指を見れば、そこからじわりと血が滲んだ。
「どうした?」
「あ、いえ…。何でもないです」
「何でもなくないだろう。ほら、見せてみ…血が出てるじゃないか!!」
「致命傷負ったかのような反応しますね」
顔面蒼白にしたエーベルハルトは、わたわたと慌て、何か止血するものを、と周りをあちこち探す。その間に果胡の指の血は固まってしまうほど小さな傷だったのだが、エーベルハルトの目には何か違う傷でも見えていたのだろうか。
探している間に磨いた食器を落とし割り、机の角に足の小指をぶつけて、よろけた先で脛を打つという、彼の方が重傷になってしまい、思わず果胡はエーベルハルトの腕を掴んだ。
「陛下、落ち着いて下さい。私は大丈夫です」
「だ、だって血が!」
「血なんて戦場でいくらでも見ているでしょう。仕事が増えますから、一旦落ち着いて」
「ここは戦場じゃないぞ!安全な場所で血が流れることがあっては…わあ!花瓶が!」
「…………」
果胡の手を振りほどいた先にあった花瓶が地面に叩きつけられ、派手に割れる。綺麗に生けてあった花は散らばり、下に広げてあった絨毯は水浸しだ。あと少しで準備を終えようとしていたテントの中は、もはやある意味戦場だった。
「すすすまん!私はあまり血が得意じゃなくてな!?その…、カコ?」
「……………」
「お、怒ってます…?」
「……………」
黙る果胡に、エーベルハルトは恐る恐る顔色を窺う。夫婦喧嘩をしている時に、よく王妃にこんな表情を見せていた。
尚も喋らない果胡は何を思ったか、ズンズンと歩いていき、テントの入口をガバリと開いた。そして、大きく息を吸う。
「アリスター!!誠に申し訳ありませんが、陛下は怪我をされてしまいましたー!早くここから連れ出して下さーーい!」
「カカカカコ!?怒ってる!?」
「怒ってますよ、当たり前でしょう。せっかく準備したもの殆ど駄目にして、落ち着けと言ってるのに聞きもしない。あなた本当にそれで国王やってられるんですか?」
「っ、言ったな!言ったなー!?これでも二十年以上国王してるんだからなー!?」
「知ってますよ!」
嫌と言うほど。
ずっと、ずっと休んでないんだから、こんなところでこんな仕事をしなくてもいいのだ。こんなことする時間があるんなら、帰って少しでも長く休んでいればいい。
「王様っぽくなくてもちゃんと仕事してるんだぞ一応!」
「一応じゃ駄目でしょう!大体、何で王様がこんなところまで来てるんですか。忙しいんでしょう」
「忙しくないもん!忙しくないもん!」
「………」
それはそれでどうかと思う。
これ以上続けても情けない父親の姿を蓄積するだけだと、果胡は重い溜息をついて、反論の言葉を呑んだ。次を待ち構えていたエーベルハルトは拍子抜けしたように小首を傾げる。
「……もういいです。後は私がやります。アリスターに相談しますから、陛下は別の………」
不意にテントの外が視界に入る。果胡が目線を止めた先が気になって、エーベルハルトが覗き込んだ。
そこには長身に濃紺の髪、ブルーグレーの瞳。書類を片手に騎士たちに指示を出すリタの姿があった。
「なんだ、リタか。そういえばカコはリタと仲がいいんだったな?」
「…ええ、まあ…」
仲がいいということで合っているのかは分からないが、説明が面倒なのでそういうことでよい。
「リタがどうかしたか?確かに奴は小さい頃から容姿端麗で、成長してからも見事にそのまま育ったが…、人間性がちょっとな…」
「あなたがそれ言いますか」
「え?」
一瞬、果胡はエーベルハルトに冷たい視線を送るが、すぐにリタに戻す。
指示された騎士たちは散らばっていき、リタは一人になると、ふうっと息をついて片手で汗を拭うように額を覆う。顔色があまり良くない。
エーベルハルトが果胡の横で、同じようにリタを見つめながら、小さく息を漏らした。呆れのような、心配のような。
「…あいつな、昔から天気が大きく崩れる前が苦手でな。体力ないわけじゃないのに、体調崩すことがあるんだ」
「…昨日から、頭痛いって言ってました」
動けないほどじゃないから大丈夫だとも言っていて、確かにそれは本当で、それくらいでは仕事を休む理由にはならないのだが、平気だという理由にもならない。
だろうなぁ、としみじみ言うエーベルハルトは、そんなリタのこともよく分かっているようだった。実の娘より長い時間一緒に過ごしているのだから、当たり前といえば当たり前なのだが。
「私がリタを見つけた日も、嵐のような天気でな。焼かれた村の中心で一人座っていた。恐怖と寒さで震え、どうしようもないくらい怯えていたのに、暫くそこから離れようとはしなかった」
暗い、暗い日だった。一日中雨と雷と風が吹き荒れ、太陽など消えてしまったのではないかと絶望するほど。その中に佇むリタはそれよりももっと深い暗さを抱えていた。真っ黒になった世界で一人、誰もいなくなった場所でたった一人。
何かを守るように。
「とにかく何処か屋内に避難しようと連れて行こうとしたが、リタは頑として動こうとはしなかった。理由を聞いても口を開かないし、近くの川は決壊しそうだったから無理矢理に抱き上げたんだ」
「…結局、理由は分かったんですか?」
先程までの騒ぐ国王とは思えないくらいに落ち着いた声が、低く思い出すように響く。
「そこに、母親の墓があったんだよ」
「!」
墓と言っては粗末な、ただ骨壺を埋めてその上に石を置いただけの、誰もが知らずに踏み荒らしそうになる墓。リタはただただそこを、何も言わず、泣きもせず、墓守のように守っていた。
リタの母親はこの内戦がある前に亡くなっている。病気だったということだが、リタ自身があまり覚えていないので真偽は明らかではない。母親の顔自体も覚えていないらしかった。
「無理に連れ出そうとしても暴れて仕方ないから、やむを得ずその墓を掘り起こしてな。リタの手に骨壺を持たせて、何とか事なきを得た。あと数分でも遅れていたら濁流に呑み込まれていただろうな」
「そんなことが…」
「まぁ、本人は覚えていないみたいだけどな。楽しい話ではないから、私も訊かれない限りは話さない。…いつかは向き合うことになるかもしれないけど」
リタの母親の骨は、エーベルハルトがちゃんとした墓を建てて供養したという。当時にリタにもちゃんと教えたようだが、いつの間にかその日周辺の記憶を失くしてしまったらしい。代わりにリタは徐々に口を開くようになり、オリヴィアという存在を見つけて、暗い記憶を塗り替えるような日々を過ごす。全部が全部塗り固められたわけでもなく、天気が崩れる前は身体に不調が出るという形で、本人が明確な理由の分からぬしこりが残ってしまったけれど。
「…何故、それを私に話すんですか?」
果胡はやっとリタから目を離し、代わりにエーベルハルトを見つめた。銀が混じる黒髪と紫色の瞳は、それだけで高貴な色を醸し出している。黙っていれば立派な国王だ。じっとしていれば誰もが頷く国王だ。
忙しさなど微塵も感じられぬ手入れされた口髭が、気の所為かと思う程の僅かな笑みと共に動く。
「お前は、リタの道標となってくれそうだからな」
思わず漏れたようなエーベルハルトの笑みと、その言葉の意味を理解するには、果胡はまだリタのことを知らな過ぎたのかもしれない。
「どういう意味…」
「まぁ、いずれ分かる。ほら、ここは私が片付けておくから、リタのところに行ってやってくれ。明日は大雨らしいからな、さすがにちょっと今日は休ませておいたほうがいいかもしれない」
「…はぁ」
話を逸らす技術だけは一級品なエーベルハルトは、華奢な果胡の背中をポン、と押す。
後ろ髪を引かれるようにリタの所に向かう果胡が、リタへの心配と同時に、エーベルハルトに片付けを任せていいのかという葛藤をしていたことは、エーベルハルトには知る由もない。




