滲み出るクズ
枕が違ったくらいで眠れないことはないが、さすがに世界が違うと眠れない。気が付いたら星空が青空に変わっていて、鳥の囀りが聞こえ始めていた。夜が明ける様子をこうもまじまじと見たのは初めてのような気がする。時計は持っていないので正確な時間は分からないけど、体感で約八時半。日がしっかり昇ったのを天井の穴から確認すると、果胡は必死に眠ろうとして打ち砕かれた身体を起こした。
隣ではリタがぐっすりと眠っていて、腹立たしいやら羨ましいやら複雑な感情を覚えた。出発の時間を打ち合わせていたわけでもなく、さして急いでいるわけでもないので、暫くは彼の顔をそのまま眺めていた果胡だが、三十分経っても(体感)一時間経っても(体感)目を覚まさないので、痺れを切らしてリタの肩を揺らした。
「あの、ちょっと、起きて下さい」
「んんー…」
「朝ですよ、起きて下さい」
「んー…もうちょっと…」
何で自分がお母さんのような役回りをしなきゃならんのか、果胡には甚だ疑問ではあったが、彼が起きなければ何も始まらない。時々襲ってくる寝相による体当たりを華麗に避けながら、果胡は粘り強くリタを起こした。そうして彼がちゃんと起きたのは約三十分(体感)の格闘の後だった。
寝ぼけ眼で何度も瞬きをしながら、リタは果胡の顔を不思議そうに眺めていた。顔に何かついているのかと果胡は眉を顰めていたが、彼が見ていたのはそれ以前の理由だった。
「あー…、誰だっけ、お前」
「希成果胡です。あなたの頭、寝たら忘れる機能ついてますか?」
「……あぁ、そうか。そうだった。思い出したわ。異世界から来た人ね」
本当に思い出したのか怪しい表情で、リタはガシガシと頭を掻いて立ち上がる。肩が落ちている上着を引き上げ、首を一周回すとさっさと小屋から出ようとした。
「ちょ…、待っ…、どこ行くんですか!」
「どこって風呂。昨日樹海をうろついた上にお前抱えて血塗れだったし、本当は昨日入りたかったんだけど」
「え、お風呂って…。お風呂あるんですか!」
「あるだろ、普通に」
色んなことが起きすぎて、乙女には欠かせないバスタイムの存在を忘れていた。そうだ、風呂だ。昨日は一日の公判殆ど気を失っていた気がして、もし覚えていたとしても入るタイミングなどなかっただろう。
だが思い出したが最後、髪や身体がベトベトで気になって仕方がなくなってくる。
「わ、私も…!私も行っていいですか?」
「あん?勝手にくればいいだろ?」
「え?あ……はい……」
何故か果胡は当然に断られると思っていて、自分的には勇気を出して言ったことだったのだが、リタは予想外にあっさりと受け入れた。
思えばこの時何故果胡は風呂を普通に風呂だと捉えたのか。銭湯に行くとでも思ったのか。半径二キロ圏内には廃墟しかないようなこの場所に銭湯があるとでも?
考えが甘かったのだ。
「嘘でしょ」
「何が?」
リタの後をついて行って辿り着いたのは、銭湯でもましてや温泉でもない。進む度に何かせせらぎが聴こえてくると思ってはいたのだ。
「川…」
「合言葉?じゃあ山」
目の前の光景に項垂れる果胡に、リタが追い討ちをかけてくる。今は合言葉を確かめ合っている気分ではない。呑気な隣の男を張り倒したい衝動を抑えながら、果胡はやっぱり風呂はやめとくとリタに背中を向けた。何の躊躇もなしに脱ぎ出したからだ。
「入らねぇの?ちょっと冷たいけど、我慢できない程じゃないけど」
「水温の問題だけではないんですよ…。私一応女の子でして、ここは外でありまして」
「人が見てる訳じゃあるまいし」
「あなたがいるでしょう!」
「……まあ……、そうか……」
まさか自分の存在を失念していたとでも言うのだろうか。リタが果胡に女性としての魅力をこれっぽっちも抱いていないことは確認できたが、喜んでいいのやら悲しんでいいのやら判断しかねる。
リタは納得すると、果胡に強制することもなかった。一人で風呂もとい水浴びをし、適当に汗を流した。
バシャバシャと水音がしている間は果胡は後ろを向いていたが、リタは全裸というわけでもなかった。乾きやすい下着のみ付けていて、上がった後はパンツ一丁で日光で全身を乾かしていた。
いくらパンツを履いているからといって、露出が多すぎる姿は凝視できるものではない。果胡はリタが服を着るまでずっと川の上流を眺めていた。
リタから服を着たという報告を受けて、やっと彼の方を見ると、まだ髪は少し濡れていて、これまで下ろしていた前髪を掻き上げていた。精巧な顔が惜しげも無く光の下に晒されている。これだけ綺麗な顔をしているなら、普段から髪を上げていればいいのに、と果胡は心の中だけで呟いた。確かめるようにリタの横顔をまじまじと眺めていると、突然視界を遮断するものがぶつかってくる。
「わふ!」
「犬かよ」
ぶつかってきたものは柔らかく、痛みは全く感じない。ぽとりと膝の上に落ちたそれは、冷たく濡れたタオルだった。
「…これ……?」
「拭けるところだけ拭けば?傷には当たらないようにした方がいい」
「あ……りがとうございます……」
タオルなんて持っていたのか。だったら自然乾燥なんてせずに自分を拭けば良かったのに、と果胡は一瞬考えたがすぐに取り止めた。使用済みのタオルを果胡に渡すことを避けてくれたのかもしれない。意外とデリカシーあるところもあるんだなと思ったが、身体を拭くために薄着になる果胡をやる気のない顔で見ていて、すぐにこちらの考えも取り下げた。
「何も殴らなくてもいいのにー」
「乙女の脱衣を見た報いです」
「脱衣ってなんかエロいな」
「黙って下さい」
リタは不思議な男であった。というより、掴めない男だった。優しいかと思えば投げやりな態度をとったり、気遣いを見せたかと思えば果胡の存在を忘れていたり。
ただ、一つ言えることは、果胡が思った以上にこの男はクズだということだ。
「おいリタ!てめこの前貸した金いい加減返せよ!」
「んー、今持ってない。今度二割引にして返すわ」
「減ってんじゃねぇか!ふざけんな!」
「コルァリタァ!てめこの野郎、俺の彼女取りやがって!ただじゃおかねぇぞ!」
「だから取ってねぇって。俺、お宅の彼女の顔も知らねぇもん」
「てめぇと一緒に歩いてるとこ見た奴がいんだよ!」
「あーはいはいそーですか」
「顔がいい奴は滅べ!」
「あー!リタ!ちょっと寄ってってよぉ!この前みたいに安くしとくからさ!」
「遠慮しとく。今日は連れがいるし」
「なんだつまんない。いいわよ、今度この前撮った写真あんたんとこの上司にばら撒くから」
「すみません今晩必ず顔出します」
「絶対ね!」
とまあ、街中を歩けば棒に当たりまくる。顔が広くて話しかけられるのは結構なことだが、その殆どが醜態を披露することになっている。リタは果胡より年上には見えるが、出来た大人でないことは確かだった。
「……何だか、大変そうですね色々」
「そうなんだよ。いちゃもんつけてくる奴らが多くてさぁ」
「いえ、あなたではなく街の人が」
「そっち?明らかに被害者俺だったろ」
責められていたのはリタだが、会話を聞くに元凶はリタの方にあると思われる。たまに彼に対する嫉妬も混じっていたが、そもそも対応の仕方に問題があるとも思う。
「五メートル進む度に罵られるか喧嘩売られるって、どんな生活したらそんなことになるんですか。逆に興味湧いてきました」
「普通に空気吸って吐いてるだけなんだけどなぁ」
「息をするように災厄を撒き散らすと」
「貧乏神みたいに言わないでくれる?」
もしかしなくても果胡はとんでもない人に助けられたのかもしれない。無意識に災いを誘き寄せてしまう人っていると思うのだ。
「というか、一体どこに向かっているんですか?私まだ貧血気味で体力ないんですが」
「だからお前が異世界に来た謎を調べる為に文献漁りに行くんだろ。嫌なら来なくていーよ。あんたが勝手について来てるんだし」
「………それはそうですけど……」
リタの言うことは尤もだったが、もう少し言い方はないのかとも思う。だからあんなに敵を作るのだ。
ここで意地を張ってリタに歯向かえば、せっかく掴んだ希望の光が消えてしまう。果胡は反論したい気持ちをぐっと堪えて黙ってリタの後ろをついて行った。