突き付けられた現実
「なに、ここ……」
感嘆よりは驚愕、感動というよりは失望。目の前に見えた景色はとかく美しいものであった。日が暮れ始めて世界が橙色に染められるも、尚も色濃く主張してくる鮮やかさ。濃い色は濃く、薄い色は薄く、自分たちの役割を知っているかのようにそこで輝きを燈している。広がる草原も遠くに見える町並みも、果胡が知っている風景ではなかった。ただただ溜息が出るような景色を、素直に綺麗だと受け取れないのは悲しいことである。
もっと悲しいことには、樹海を脱してすれ違った人の容姿が、昔ファンタジー漫画か何かで見た、癖の強いもとい特徴的な服や髪や顔をしていたのだ。
果胡はやっと理解した。理解していないことを理解した。
何にも分かっていなかった。
迷ったのは道に迷ったのではない。原因は方向音痴だからではない。
リタが日本を知らないことも、日本語を喋っているわけでもないことは、全て当然のことだった。
だがそれを理解するには、果胡にはあまりにも知識と教養と経験がなさすぎる。それでもどうにか理解するしかない。
ここが異世界であるということを。
「じゃ、俺はここで」
「はい!?」
絶望と混乱に打ちひしがれる中、仕事は終わったとばかりにリタは右手を上げてさっさと立ち去ろうとした。
「い、いや、ちょっ、ちょっと待って…!置いていく気ですか!?死にかけた少女を!」
「大袈裟な。ここまで連れてきたでしょうが。後はここを下って行けば街までいけるから、そこで誰かに拾ってもらえ」
「悪い人に拾われたらどうするんですかっ」
「俺が知るか。人的被害は俺の分野外」
「私だって異世界なんて分野外!外国だって行った事ないのに!」
惨めでもいい。滑稽でもいい。ここでリタと別れて、次出会う人がいい人だとは限らない。リタがいい人だとはとても思わないが、少なくとも樹海から助け出してくれたくらいの人間性はある。果胡は縋り付くようにリタの腕を引っ張った。服が伸びると嫌がられたが、最初から伸びてんじゃんと言ったら黙った。まさか気にしていたのか。
「だからお前はさっきから何言っ……、おい?」
「………あ、れ、」
嫌がられようが離すものかかと、リタの腕をがっしり掴んでいた手に急に力が入らなくなる。いや、何も急ではない。そういえば私は重傷を負って出血多量だったのだ。この怪我の謎だってまだ解明していないのに、意識がまたぼんやりとしてくる。もしかしてこれまでのことは夢で、この意識を手放したら無事自分の世界に戻れるのかもしれない。そうか夢か。それなら納得がいく。
夢なら早く醒めてくれ。今日の晩御飯は唐揚げだってお母さんが言ってたんだ。
「………えぇー………」
躊躇なく倒れ込んだ果胡に、リタの面倒そうな声が漏れた。
***
目を開けたら唐揚げが待っている。特別好物ではないけれど、この事態を救ってくれる鍵となってくれたのなら好物にしてやってもよい。唐揚げを思い出したことによって夢から醒めるのは情けない気もするが、背に腹はかえられない。唐揚げに救われた人生というレッテルを一生背負って生きていく覚悟はできている。
「ん……、から、あげ……」
「唐揚げが何だって?」
「うわ」
希望を抱いて押し開いた視界は、醒めない夢をしっかり捉えていた。
背を向けて座るリタは、顔だけ果胡に向けて不満気な視線を送ってきている。
「助けてやった恩人に向かって『うわ』はないだろ。ここまで運ぶの大変だったんだぞ」
「失礼しました。……ここは?」
「空き小屋。昔はこの辺に小さな村があったから、多少名残が残ってるんだよ」
穴の空いた壁に穴の空いた天井。そこからは宝石のような星空が拝め、天然プラネタリウムだ。黴臭く埃っぽくなければ、暫くこうして星を眺めていてもいいと思う。
いや、駄目だ。危うく夢にしたかったこの状況を受け入れそうになった。はっとして果胡は上体を起こした。途端にズキリと全身の至るところが軋む。
「っ、」
「まだ動かない方がいいぞー。結構傷が深かったし、出血も酷かった。どうせ今夜はここで寝るしかないんだから、せめて夜が明けるまではじっとしてろよ」
「…あ…、はい…」
よく見れば丁寧に手当てがしてある。動かせば確かに痛いが、先程までの痛みはないのは、処置の仕方がいいからか。もしかしなくてもこれを施してくれたのはリタでしかなくて、不思議そうに彼を眺めていると、言い訳のようにいかがわしいことはしてないからな!?と慌てていた。余計怪しいから、動揺するくらいなら黙っていた方がいい。
「あの…、ありがとうございました。手当て…」
何にせよ手当てをしてくれたことに変わりはない。胸や鼠径部近くまで包帯が巻かれていたが、世話になっておいて文句を言うほど果胡も恩知らずではない。素直に頭を下げると、リタは何故かくしゃみで返事をした。ずび、と鼻を啜ると、腕を伸ばして果胡の手元を指差した。
「起きたんならそれ、返してくれる?」
「あ、はい。すみません」
どうやら果胡が枕代わりにしていたリタの上着を、軽く埃を払って本人に返す。リタはそれに袖を通すと、熱を逃さないように首元を竦めた。
そういえば気温は少し低い。凍えるほどはないまでも、Tシャツ一枚では風邪を引いてしまうくらいだ。果胡は運良く合服だっため、気になるほど寒いということもなかった。夏服に替えていなくて良かった。
リタの方が余程寒そうだなと見ていたら、闇に溶けたブルーグレーの瞳と目が合う。
「……?何ですか?」
「…お前、異世界がどうのこうの言ってたけど、あれ何?」
「あー…」
何と言われても、こっちが訊きたいくらいだ。本当に果胡は異世界に来てしまったのか。それが事実なら、何故来てしまったのか。説明してくれる人は誰もいない。けれど幸い、話を聞いてくれそうな人ならここにいた。
果胡はかい摘んで今に至るまでのことをリタに打ち明ける。信じてくれるかどうかは分からなかった。果胡自身、あまり信じていない。
話している間、リタは欠伸をしたり寝転がったり、興味のないテレビを見ているような態度だったけれど、適度に相槌は打っていた。聞いている振りとも言う。つまらないのなら訊かなければ良かったのに。
「…ふーん。それで、あそこに倒れていて、自分が怪我していた理由は分からない、と」
「はい…。どうやら日本語を喋っている訳でもない…んですよね?」
「歴としたルヴィフィア語だな。むしろ少し古い言い回しにも聞こえる」
リタによれば、果胡の言葉遣いは年齢の割に古式ゆかしいものが散りばめられているということだ。それにしては時々若者言葉のようなものも混ざっているし、一体何処で覚えたんだと不思議そうだった。もちろん覚えたわけではないし、果胡は日本語を話しているつもりだ。だが、この場においては言葉が通じるだけ有難かった。異界の地に身を置かれた上に会話が成立しなければ目も当てられない。
「信じたくないですけど、これが現実なら、目を逸したままにするわけにもいきません…。何とか帰る方法を見つけなければ」
「どうやって?」
「どうって…」
リタに悪気はないのだろうが、絶望的な現実を突き付けられたようだった。ここに来た方法も理由も知らないのに、帰る方法なんて存在するのかどうかも怪しい。現実に向き合えば向き合うほど、恐怖が果胡を蝕んでいった。
続く言葉は見つからず、抱えた自分の両腕を強く掴んだ。震えを押さえつけているようだけれど、決して震えているわけではない。震えなんて通り越して固まっているのだ。
このまま帰れないのだろうか。ここで生きていくのか。だとしても、どうやって。ここには果胡の知り合いなど一人もいない。家族も友人も生徒指導の先生も。こんな状況だからか、嫌気が差していた教師にまでも愛を感じる。
不安と恐怖を織り交ぜた溜息を肺の底から吐き出すと、そこにリタの声が重なる。
「あーもう、分かったよ。俺には異世界への移動の仕方なんて皆目見当もつかんが、古い文献でも調べてみれば何か分かるんじゃねぇの?」
「古い文献って…。そんなのどうやって…」
「明日、どうせ俺もそこに帰るし、行きたければ付いてくれば?」
本意ではないのだろう。至極面倒そうに言って、リタは就寝準備に取り掛かった。と言っても、フードを目深に被っただけだが。
「……いいんですか?」
「いいって何が。言っとくけど俺は手伝わないからな。勝手に一人で調べろよ」
そこまで面倒見切れんとリタは言うが、それでも果胡にとっては充分だ。希望は小さいが、やれることがあるだけマシだ。お礼を言ったら返事が返って来なかったが、照れているのだろうか。……いや、寝ていた。のび太か。