前編
この小説は、香月よう子様の「夏の夜の恋物語企画」参加作品です。
かれこれ十二年前のこと。
僕は空っぽになった。
そして、知らない場所に移り住んだ。
夏だった。
蜩の鳴く森の中、僕は池の畔にいた。
僕の横にはおかっぱ頭の少女が一人。
昔読んだ本の、登場人物に似ている子。
池の水面に明りが浮かぶ。
「ホタルだ!」
少女が叫ぶ。
ホタルを見たのは初めてだ。
その感動を伝える相手が、いないことに気付く。
「ホタルは、死んだ人のところに。行ってくれるよ、おにいちゃん」
少女が言った。
「ホント?」
「うん!」
少女が笑った。
その笑顔の向こう、花火が咲いた。
「西瓜」
朝から井戸水で冷やしていた西瓜に手を当てていると、隣の家の窓が開いた。
陽葵が顔を上げると、蒼生の白い歯が見えた。
「冷えた?」
「うん、あとで持ってく!」
陽葵の隣家は、祖母の家。
蒼生は祖母の遠い親戚で、子どもの頃に、引き取られてきた。
陽葵のスマホにメッセージが届く。
母からだ。
「浴衣一式は、お祖母ちゃん家にあるからね」
陽葵はスマホの鏡面を覗く。
日に焼けた、十七歳の素顔が映る。
相変わらずの、薄い造り。
母のメイク道具を借りようかとも思ったが、やめた。
どうせ汗で落ちてしまうし、あとで顔が痒くなる。
せめて髪くらいは整えよう。
陽葵は肩まで伸びた髪をブラッシングして、耳のあたりをピンで留めた。
半分に切ってラップをかけた西瓜を持ち、祖母の家に向かう。
玄関に並んだピンクのサンダルを見て、陽葵の唇がちょっと尖った。
来てるんだ、やっぱり
居間の方から、若い女性の笑い声がした。
「浴衣」
「こんにちは――」
挨拶して居間に行くと、全身ピンクに染まったような樹里亜が、蒼生の横に、べったり張り付いていた。
蒼生は少し引き気味だが、いつも通り、にこやかに対応している。
「蒼生、西瓜」
「あ、ありがとう!」
蒼生は西瓜を受け取ると、すぐに台所に飛び込んだ。
「空気読めよ、ひな! せっかく盛り上がってるのに。相変わらず『こけし』みたいな顔してさ」
樹里亜は陽葵の従妹で、同じ高校の一年下だ。
後輩にあたるはずだが、昔も今もため口だ。
何といっても、樹里亜はスクールカースト最上級。
見た目だけなら、確かに可愛い。
陽葵を「こけし」と評するのなら、樹里亜は「廉価版ビスクドール」だ。
台所から、祖母が切った西瓜をお盆にのせて、陽葵に声をかける。
「食べたら、浴衣の着付けするよ」
樹里亜はネイルまでピンクの手を振りながら、祖母に言う。
「おばあちゃん、アタシはもう着てるから」
ワンピースかと思ったら、樹里亜は蛍光ピンクの浴衣を着ていた。バラと蝶の模様の浴衣は、樹里亜らしいといえばそうだが。
別室で、祖母が陽葵に用意していたのは、絞りの浴衣だ。
「おばあちゃん、こんな高いもの、いいの?」
祖母はふふっと笑う。
「やっぱり、ひなちゃんは目が肥えてるね。ジュリちゃんにも、同じものあげようとしたら、『古臭いからイヤっ』だって」
小さい頃から、陽葵は祖母の家に入り浸りだった。両親ともに、忙しい仕事をしていたからだ。
祖母の反物を一緒に眺めたり、祖母の昔話に付き合ったりした。
祖母は一時期、国語の先生をしていたので、古典文学には造詣が深く、それを祖母風の現代語訳で話してくれたりもした。
「昔むかーし、ナリヒラ君っていう、モテモテの男性がいたの。彼のことが大好きだったのに、告白することなく、死んでしまった女の人がいてね。ナリヒラ君、その女の人のこと、可哀そうになあって思って夜空を見ていたのね。そうしたら、ホタルが高く高く飛んでいて、ナリヒラ君は、思わずホタルに言ったの。『ホタルさん、彼女に伝えてくださいな。もうすぐ秋になります。秋になったら、鳥の姿でも良いから、戻っておいでよ。そう伝えてくださいな』なんてね」
こんな祖母と陽葵の世界に、途中から蒼生が加わった。
当初、蒼生はあまり口を開かず、固い表情だったが、一緒に犬の散歩に行ったり、雨の日は一緒に絵本を眺めていたりするうちに、徐々に笑えるようになる。
以来、蒼生と陽葵は、兄と妹のように育ってきた。
いつしか蒼生の背は伸び、ひ弱そうな少年が、眉目秀麗な青年になっても、二人の関係は兄妹のようだ。
それで良いと陽葵は思っていた。
そう自分に言い聞かせていた。
だが。
先ほど、従妹の樹里亜が、蒼生にべたべたする姿を見た時に、胸の中に灰色の雲が湧いた。
そもそも、祖母が蒼生を引き取った時に「どこの馬の骨か分からない」と冷たくあしらったのは、樹里亜の母、つまり陽葵の叔母ではなかったか。それが、蒼生が難関大学に進学した頃から、叔母の態度はコロッと変わった。それまで祖母の家に来るのは、年に一回あるかないかだった樹里亜が、最近は毎週やって来るようになった。
「ひなちゃん、お祭りの日は、しかめっ面してちゃだめだよ。神様にありがとうって感謝する日なんだから」
「はあい」
着付けが終わると、祖母はポーチから紅筆を出し、陽葵の唇に色をさした。
「鏡、見てごらん」
リアルこけし人形がそこにいた。
ただ、唇がいつもより艶やかな朱色を帯び、それは陽葵も気に入った。
「うん。ありがと、おばあちゃん」
「それとね」
祖母は箪笥の引き出しから、掌の大きさの紙包みを陽葵に手渡した。
「お守りよ。今夜のお祭りの」
「お祭り」
都心部へ、通勤通学する人が多い地域であるが、最寄りの駅から十分も歩けば、緑の田園が広がる。
旧暦のお盆前、こじんまりとした神社の前には屋台が並び、夜の八時に花火が上がる。
この神社のお祭りがSNSで取り上げられてから、マイナーな地元神社のご神前に、若者たちが遠くからも集まるようになった。
『恋が叶うお祭り』
今ではそう呼ばれている。
なんでも、一緒にお祭りに参加して、花火を見ながら互いの団扇を交換すると、恋人関係になれるのだという。
本当は今日、陽葵は蒼生と二人で、お祭りに行くつもりだった。
花火を見ながら、今年こそは団扇の交換が、出来るといいなと思っていた。
だが、お祭りに向かう道すがら、樹里亜は蒼生の腕を取り、親しげに話しかけている。
蒼生はいつもの笑顔だ。
いつもと同じ、陽葵に向ける笑顔。
それが陽葵には痛い。
どこかで、自分は蒼生にとって、特別だと思いたかった。
お祭りのメイン会場となる神社の参道は、日暮れ前から多くの人出で賑わっていた。
夜の七時に、本殿では巫女舞が奉納され、それが終わると花火が打ち上がる。
巫女舞が終わった頃、陽葵は蒼生を見失った。
神社から少し離れた場所には、地元民しか知らない、絶好の花火を見るポイントがある。
去年は、蒼生と二人で眺めた。
蒼生が団扇を忘れていたので、交換は出来なかったけれど。
先に行って待っていれば、蒼生も後から来るだろう。
樹里亜も一緒なのか。
それは、まあ、しょうがない。
神社の石段を下りたあたりで、少し先に蒼生を見つけた。
隣には、樹里亜ではない、別の女性がいた。
すっきりとした矢絣の浴衣を着た、背の高い女性だ。
誰だろう。
知らない女性。
蒼生の横顔が、いつもと違う笑みを浮かべている。
陽葵には見せない、大人の顔つき。
その表情に、陽葵の胸がズキリと痛む。
ド――――ン!!!
花火が上がる。
一瞬、辺りが明るくなる。
陽葵は見てしまった。
女性が差し出した団扇を、蒼生が明るく笑って、受け取ったところを。
(後編に続く)
作中の「ナリヒラ君」話は、伊勢物語45段を参考に、筆者が現代語にしたものです。