2 離婚調停
後藤さんの夫からの脅迫めいた電話を最後に特に音沙汰もないまま、家庭裁判所に申し立てた離婚調停の期日の日が来た。
ちなみに後藤さん夫婦は京都に住所があるので、管轄は京都家庭裁判所になる。
家庭裁判所ってのは、家族間の紛争などを扱う下級裁判所のこと。
なお、大阪家庭裁判所も京都家庭裁判所もまだ壊してないです。
調停は、裁判と違って強制力を伴う判断は行わない。
調停委員が間に入って、あくまで話し合いの手続きになる。
話し合いが『不調』になった場合に裁判になる。
後藤晋也の強硬な態度から考えて、あいつが離婚を承諾するのは難しいと思う。
多分この離婚調停はまとまらないんだろうな。
話し合うだけ無駄だろうし、どうせなら一気に離婚訴訟をしたいんだけど、離婚の場合には訴訟をする前に『離婚調停』をしなくちゃいけない。
これは『調停前置主義』といって、制度として定められているため、まずは調停からなんです。
家事調停は本人出頭主義なので、後藤雫さんも一緒に来ている。
代理人弁護士だけの出頭でも運用上大丈夫なんだけど、一回目は本人も出席した方が印象が良い。
普通、裁判所に慣れている人はあまりいないので、後藤雫さんも緊張している様子。
といっても後藤雫さんの場合は他にも警戒する理由があるんだけど。
「国府谷先生、夫と顔を合わすことはないんですよね……?」
「ええ。調停では入れ替えで別々に調停室で話をすることになりますからね。待合室も別ですし。
ただ、裁判所に後藤晋也さんも来ていますから、鉢合わせしないよう待合室から出ない方がいいでしょう」
第一回調停期日は、特にトラブルもなく普通に終わった。
後藤雫さんの方からは、離婚の意思を伝えるとともに財産分与と慰謝料の請求をしてある。
日頃の夫婦喧嘩の録音データや診断書などの証拠を添えて主張書面も出した。
一方、後藤晋也の方はといえば、離婚の意思がない、DVはでっち上げだとのことを言っていたようだ。特に証拠らしきものを出している様子はない。
調停が一回で終わることはまずないので、あともう何度か続くんだろう。
調停委員がうまいこと後藤晋也を説得してくれるといいんだけど。
今のところ分はこっちにありそうだし。
「あの、今日の調停はもう終わったんですよね?」
後藤雫さんと僕はまだ待合室にいた。
「そうです。帰りたいお気持ちは分かりますが、まだ相手が裁判所内にいるかも知れませんからね。相手が帰るまで待合室で待機していましょう」
調停が無事に終わったとはいえ、家庭裁判所の出入り口やロビー、階段やエレベーター、お手洗いや廊下などの裁判所内の共用スペースとか、駐車場や最寄り駅などの裁判所付近で相手と鉢合わせする可能性がある。
そういったリスクからクライアントを守るのも僕の仕事。
「今のうちに今後の方針について打ち合わせをしましょう。
本日の感触ではおそらく調停委員がDVの被害についてこちらの言い分通りに考えてくれる可能性は高いかと思います。そうなると調停委員の方から提示する調停案が……」
そのとき、待合室のドアが開いた。
「ひっ……」
後藤雫さんが小さく殺した声を上げた。
「あんたは……!」
そこに立っていたのは、後藤晋也だった。
「雫、探したぞ。
チクショウ、裁判所ってのはあちこちに待合室があるんだな」
後藤雫さんは顔面蒼白で、声も出せない状態だ。
くそ、雫さんに無理にでも会うために裁判所内の待合室を片っ端から探して回ったのかコイツ。
後藤晋也がこんな実力行使に出てくるなんて。
恐らくこの男はこんな感じでいつも自分の望むように強引に物事を進めてきたんだろう。
とにかく僕のクライアントを守らなくては。
「後藤晋也さん。あなたを雫さんと会わせるわけにはいきません。
待合室から出て行ってください」
「うるせぇ!
てめぇは邪魔だ!どけ!」
後藤晋也が僕の肩につかみかかったけど、幸い動きがゆっくりだったから僕はやや後ろに下がって避けることができた。
僕はスマホを出して録音アプリを起動した。
せっかくなのでこの件は証拠にさせてもらおう。
本来は裁判所での録音録画は禁じられているけど、今回は仕方ないでしょ。
「僕が後藤晋也さんと話し合いをしますから、雫さんは裁判所の人を呼んできてください」
「雫! こんな弁護士の話に乗るな!
いいから戻ってこい。
オレをコケにするとどうなるか、後でゆっくり教えてやる」
後藤晋也は待合室の中に進んできた。
僕は後藤雫さんを背中の後ろに回したまま、入り口の方にゆっくり移動する。
「あ! 雫!逃げるんじゃねぇよ!」
後藤雫さんは待合室の入り口まで来ると、そのまま外に出て走って去っていった。
これでよしっと。
後は人が来るまで時間を稼ぐ。
「雫さんはあなたと話をしても威圧されて話にならないと言っています。
本日提出した証拠について反論があればそれは書面にして調停で提出してください」
「うるせぇな! さっきから雫さんとか!
オレの妻を馴れ馴れしく呼ぶんじゃねぇよ!」
「そう言われましても、両方後藤さんですから」
どうやら攻撃の矛先が僕に向いたみたい。
後藤雫さんを追うことを忘れててくれれば時間が稼げるので、それはいいんだけど……。
いや? いいか?
ちょっと待って。
大体この後藤晋也って人、こうして向かい合ってみると身体がでかくて強そうだ。
そういえば先日後藤雫さんが、夫は『元プロレスリング選手』って言ってなかった?
その元プロレスリング選手がなんかファイティングポーズっぽいのとってるんですけど?
さすが元とはいえプロは格闘となると迫力が違うな!
言ってる場合やない!
っていうか、ひょっとして僕、今かなりピンチじゃないでしょうか。
殴られたりケガしたら刑事告訴するつもりだけど、普通に殴られるのとかイヤです!
早く誰か来て!!
・・・・・・・・
「後藤晋也さん、あなたは今僕に向かって利き腕である右の拳を勢いよく突き出しましたね?
僕を殴るつもりかと思われますが、やめて欲しいんですけど。
幸い当たらなかったので大事には至っていませんが、これは後藤雫さんの代理人弁護士としての僕を攻撃する意図と判断しますよ」
「チョロチョロと逃げるな!」
「そりゃ逃げますよ。あなた元プロレスリング選手なんでしょ?レスリングって殴るとか蹴るとかってないと思うんですけど、あなたの太い腕で殴られたら痛そうだ」
「当たれよ! 痛いかどうか分かるから!」
『ガアン』と大きな音が鳴る。
「後藤晋也さん、あなた『当たれ』と言いましたね?
つまり僕に攻撃を当てる気であると。
そののち、あなたは右手の拳を僕に向けて突き出しましたが、僕が避けたので壁に当たりました。その音が鳴りました」
「なんなんだてめぇ!
いちいちうるせえな!」
僕は後藤晋也の攻撃を避けながら必死に実況中継をしている。
この一連の彼の行動はぜひとも訴訟の際に証拠に使いたい。
けど、ここで僕が「うわ」とか「あぶない」と言っても音声録音としての価値があまりあるとは言えない。
逐一相手の状況を言語化して、それに対する相手の同意のような言動を録音しておかないといけません。
そのためこんなに説明臭くなっているんです。
ときどき弁護士がやたら状況説明的な言葉を発してるのは、こういう目的があるからなんです。
いかなるときにも証拠収集を忘れない!
僕も結構プロが板についてきたんじゃないかな?
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その後、後藤雫さんが裁判所の職員を呼んでくれたようで、裁判所の職員3人に取り囲まれて後藤晋也は別室に連れていかれた。
後藤晋也の姿が見えなくなったのを確認した上で、後藤雫さんが僕に駆け寄ってきた。
「国府谷先生、遅くなって申し訳ありませんでした!
大丈夫でしたか? お怪我はなさそうですけど」
「後藤さんがご無事で何よりです。
後藤晋也さんは殴りかかったりしてきましたけど、幸い動きはそこまで良くなかったみたいで当たらずに済みましたよ」
「え!? よく当たらなかったですね!
夫は現役のときからあまり衰えてないのが自慢だったのに……」
……そうなの?
ああ見えて、後藤晋也は手加減してくれた?
そんなわけはない。
と、いうことは……。
思い当たる点がないこともない。
エクスディクタムを操縦しているとき、やたら周囲の動きが緩慢に感じられた。
あれほどではないけれど、その影響が僕自身にも出ているということ?




