誰が賢者を騙したか1
一日の仕事を終えたサンクは、司法局本部建物の裏手にある宿舎に向かっていた。行く手から焼きたてのパンのいい香りが漂ってくる。宿舎に併設された食堂からかと思ったが、鼻をひくつかせて匂いを辿ると、どうやら匂いのもとがこちらへ移動して来ているようだ。サンクは建物の角の手前で気づいたことに安堵し、大きく膨らみながら角を曲がった。
すれ違いに、ガタイの良い騎士が両腕で抱えるほどの編みカゴに、夜食用のパンを山盛りにして運んでゆく。壁伝いに角を曲がっていたら、ぶつかる所だった。既に一度やらかして、地面に大量のパンをぶちまけたことのあるサンクは、今度やったら夜食は抜きだと言い渡されている。気がついて良かった。本当に夜食抜きにはされないだろうが、新参者の自分が迷惑を掛けるのは避けたい。
サンクは近衛騎士から司法局勤務に転職して正解だったと、心の底から思っていた。夜勤の職員に夜食が出る職場など、司法局くらいだ。更に、宿舎住まいの者には、食堂で朝晩の二食が無料で提供される。宿舎の家賃も相場の半分という驚きの安さだ。
もちろん、宿舎住まいだと、緊急時には休日だろうと駆り出されるというデメリットもある。だがそれは重大事件が起きた時など、どうしても手が足りない場合のみだ。近衛騎士だった時のように、王族の気まぐれで呼び出されるのとは違うので、納得出来た。
美味しそうなパンの匂いを嗅いだせいか、グギュルルルーと豪快に腹の虫が鳴った。サンクは先に晩飯を食べることにして、食堂へと目的地を変更する。扉を潜り、入り口近くに置かれた『本日のメニュー』と書かれた石版を眺めていると、背後から声が掛かる。
「サンク、ちょうど良かった。ちょっとこっちに来てくれ」
振り返ると、奥のテーブルから先輩職員が手招いている。その隣に座っている男を見て、サンクは首を傾げた。
「ネイサンじゃないか。あれっ、先輩知り合いですか?」
「こいつン家とウチの領地が隣なんだよ。サンクこそ、マジでネイサンと友達なんだな」
「騎士学校の同期なんです。ネイサン、久しぶり」
サンクは椅子に座ったままのネイサンに右手を差し出した。他の同期生なら抱き合って背中をバシバシ叩くところだが、ネイサンはそういったノリが苦手だ。せめて握手でもと思ったのだが、ネイサンは黙って頭を下げただけだった。
宙に浮いた手をグラントを真似て頭にやり、ボリボリと掻いてから下ろす。手招かれ先輩の隣の席につくと、給仕係の男の子が寄ってきた。人懐っこい子で、母親が調理係として一緒に働いている。頭の良いこの子は、サンクの顔も直ぐに覚えてくれた。
「お疲れ様です。いつものですか?」
頷いて、エプロンのポケットに飴玉を捩じ込んでやると、嬉しそうに顔を輝かせる。この食堂で働いているのは寡婦とその子どもばかりだ。働き口を見つけるのが難しい彼らを雇うようになったのは、ローズマリーの勧めらしい。
「ありがと、サンク様!」
言葉が崩れ、身を翻してカウンターへと急ぐ男の子を見ながら、ネイサンが小さく舌打ちした。
「きちんと躾けてないのか」
「仕事はきっちりやる子だ。あれ位大目に見てやれよ」
「だけど平民だろ」
カウンターで注文を伝えている男の子を、ネイサンが蔑んだ目で睨む。そうだった、コイツはこういう奴だった。騎士学校を卒業してから会っていなかったので、忘れていた。
「ここじゃ誰も気にしてないさ。それより如何したんだ?お前が司法局に来るなんて、何かあったのか?」
放っておいたら男の子への悪態が続きそうだったので、サンクは意図的に話題を変えた。
ネイサンは騎士学校の同期ではあるが、仲が良かった訳ではない。ネイサンの選民思想が苦手で、どちらかと言うと敬遠していた。ネイサンの方も同様で、同じ男爵家の子息であっても碌に交流は無かったのだが。
ネイサンは卒業後、王立薬学研究所の警備担当となったはずだ。職場で何かトラブルがあり、司法局に相談にでも来たのではないか。サンクはそう考えた。そんな理由でも無ければ、平民出身者も多い司法局に、ネイサンがわざわざ出向いてくるはずがない。
ネイサンはテーブルの上で両手を組んで、暫くサンクを観察していた。値踏みするような視線に居心地の悪さを感じていると、ネイサンがやっと口を開く。
「絶対に当たる占いなんて物が、存在すると思うか?」
「は?」
想定外の質問に面食らっていると、サンクの飲み込みの悪さに苛立ったのか、ネイサンの神経質そうな細い指が組んだ腕を叩く。おまけに態とらしい溜め息を一つ。
「占い?」
「そうだ。必ず当たる占い、絶対に外れない占い、そんな物が存在すると思うか?」




