第18話 海
凛子とドラゴンの姿が、小さくなっていく――。
ミルゼは疾風のごとく駆け、黒い毛並みのギルウに飛び乗り、凛子をさらったドラゴンを追う。ディゼムとリールもそれぞれのギルウに飛び乗り、ミルゼに続く。
ギルウを走らせながら、ミルゼは叫ぶ。
「まさか変異体だったとは……! くそう! どうして私じゃなく凛子さんを!」
「離して! 離してええ!」
強い風圧の中、なんとか声を上げる凛子だったが、ごうごうと荒れ狂うような風音にかき消される。ついさっきまでいた森は、眼下にある。恐怖のせいか、めまいがする。凛子を掴んだまま、ドラゴンは、空を飛び続けていた。
あ! あれは!
すぐ前方に青いきらめき――、凛子の瞳に海が映った。
海! ということは、このままでは……!
ミルゼたちは、海を見たことがない、と言っていた。ということは、ギフトの魔力の適用外、このままでは『境界』を越えてしまうということだった。『境界』を越える――、すなわち誰も助けに来ることができないことを意味していた。
「くらえーっ!」
眼下から、たぶん、ディゼムの叫び声。たくさんの光が、迫りくる。ディゼムの矢に違いない。思わず凛子は身を固くした。飛ばされた矢は、凛子に当たることはなく――ドラゴンにも当たらないようだった――空高く消えた。
えっ、あれは、なに……?
緑の合間から見えたリール、小さななにかを投げた。たぶん、カード。たぶん、というのは光を放ちながら、一瞬にして形を変えたからだ。昨日初めてリールに会ったとき、カードに描かれたトカゲが炎を吐いたわけだが、今度はカード自体が姿を変えた。
炎の鳥。小さなカードが、深紅の鳥に変化していた。しかも、こちらに近づくにつれ、姿が大きくなっていく。
キエアアーッ!
鋭い声が響き渡る。飛んでくる炎の鳥ではなく、凛子の頭の上、ドラゴンの口から飛び出した声だった。
ディゼムの矢が、ドラゴンに命中した。続けざまに五本の矢がドラゴンを貫く。
「あっ」
ドラゴンの手が、ゆるんだ。
落ちる……!
落下する。空から。開いたドラゴンの手から離れ、凛子は、なすすべもなく落ちていく――。
え……!?
気が遠くなりそうな凛子だったが、ハッとした。視界に映る、燃えるような朱色。
炎の鳥……!
リールの炎の鳥だった。炎の鳥が、無事凛子をキャッチしていた。
「ありがとう、鳥さ……」
安堵した凛子だったが、しかしそれも束の間だった。炎の鳥は必死に羽ばたいていたが、凛子を運ぶほどの力はないようだった。支えきれず、どんどん斜めに下降していく。
落ちていくドラゴンが、見えた。ディゼムの強力な魔力の矢により、ドラゴンは絶命したようだ。ドラゴンは、波打ち際に落下していった。
「凛子さんーっ!!」
ミルゼ……!
岸壁を駆け降りる、ギルウとミルゼの姿が見えた。
「だめだっ! ミルゼッ! それ以上は……!」
ディゼムの叫ぶ声が聞こえる。
「ミルゼーッ!!」
ディゼムの絶叫。しかし、凛子はそちらに気を取られている時間はなかった。
岩が見えた。すぐ目の前に。
ああ! だめだ! 岩にぶつかる!
視界いっぱい迫りくる、海辺の岩。凛子は覚悟し――、目を閉じた。
ドサッ……!
意外な音、感覚。
あれ……?
おそるおそる、目を開ける。どういうわけか、痛みもない。
「よかった……。なんとか間に合いました」
そこには、ミルゼの優しい笑顔があった――。凛子は、ミルゼの腕に抱かれていた。
炎の鳥が、ミルゼに凛子を受け渡したようだ。
「ミルゼ……!」
よかった! 私、助かったんだ――!
「凛子さん。大丈夫ですか? ケガとか痛いところは?」
心配そうな、ミルゼ。泣き顔に見えた。
「ありがとう……。大丈夫……。痛いところも、ないよ」
「怖かったでしょう。とても危険な目にあわせてしまってすみませんでした」
大丈夫。ミルゼが来てくれたから――。
怖かった。怖かったけど、今は嬉しさでいっぱいだった。
ミルゼのぬくもりに、包み込むようなほのかな甘い香りに、安堵した。
本当に、よかった……。もう、怖くない……。
ミルゼの全身が、光り輝いていた。
あれ? どうしてミルゼ、光っているの……?
きっと海辺のまぶしい朝日のせい、凛子はそう思い込もうとした。
ミルゼは、凛子を腕から降ろしてあげた。
「本当に、綺麗ですね。これが海、なんですね――」
ミルゼの瞳にも海が映っていた。潮風が銀の髪をなでる。
「ミルゼ……?」
「よかった。凛子さんと一緒に海が見られるなんて――」
ミ……、ルゼ……?
「凛子さん。早く見つかるといいですね。凛子さんだけの特別な道――。いえ。凛子さんなら大丈夫です。すぐに見つけられると思いますよ」
光が増し、ミルゼの輪郭がぼやけて見える。
「ミルゼ? へ、変だよ……? なんだかミルゼ……」
ミルゼは笑っていた。
あれ? ミルゼはなんて言ってたんだっけ。ミルゼが海を見ることができなかったのはどうしてだっけ――。
その答えは凛子も知っていた。でも頭が、心が、答えを拒絶していた。
あれ。なんでだろう。ミルゼの姿がにじんで見える。
凛子の頬を、涙が伝う。
いやだ! そんなの、私は認めない! 絶対信じないんだから!
ミルゼは優しく凛子の涙を指で拭い、頭をそっと撫でる。
「ありがとう。凛子さん。本当に」
「ミルゼ! な、なんでそんなこと言うの!?」
どうして今、ありがとうなんて言うの!? それじゃまるで……!
お別れみたい、凛子はどうしても浮かんでしまうその言葉を、必死で頭から振り払おうとした。
そんなわけない! 絶対、ありえない! ありえないんだからっ!
「凛子さん……。会えて本当によかっ……」
潮騒――。よく聞こえないよ、と凛子は思った。ミルゼの声が聞きとりにくいのは、きっと潮騒のせいだ、と凛子は信じたかった。
ミルゼ……? どうして……? 空の青が透けて――。
空は、澄み渡っていた。
「ありが……、と……、う……」
「ミルゼ! だめだよ! ミルゼ! だめっ!」
凛子は激しく否定するように首を振り、ミルゼに抱きついた――、はずだった。
カシャーン。
銀のバングルと、衣服、そして一対の巻き角が、落ちた。
え。嘘……。ミルゼ……?
どういうわけだろう。脳が理解を拒む。
自分の心臓の音が、耳に響くようだった。ひやり、血の気が引き全身が冷たい。
凛子の腕に、ミルゼの感触は、もうなかった。
「ミルゼ……」
その名を呟く。
ひときわ強い潮風が吹いた。実際はずっと波の音がしていたが、そのとき凛子の耳には届いていなかった。世界が静寂に包まれていたような気がした。
岩の上に落ちた銀のバングルにそっと触れてみる。その冷たさに、凛子の指が震える。そして角――、頭にあるはずの角が、どうして岩の上にあるのだろう――。
「ミルゼーッ!!」
ミルゼが、消えていた――。優しい香りを残して。




