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紫煙

作者: pear

すれ違いざま、緩くウェーブのかかった金髪をなびかせる彼女の、甘い香水に混ざった苦く渋い香りが鼻をくすぐった。

思わず振り返って見た彼女の背中は堂々としていて、でもそれが虚勢であることにあの時の僕は気づかなかった。


意識がとぶような喧騒の中にある静かな空間。まぁただの繁華街にあるバーだけれど。

うるさい所は嫌いだ。でもこの埋もれた静けさは嫌いじゃない。むしろ好きだ。人間の隠れた悩みが感情が思わず溢れる瞬間に立ち会えるなんて特別なことじゃないか。そして、客を自分の酒で慰める。そこには店員と客の最低限の会話しかないけれど、言葉なんていらないと思う。


不意にあの香りが鼻の奥に漂った。

視線をあげると目の前に艶やかな金色が映った。彼女は窓際のカウンター席に座ると溜息をついた。

「ご注文はお決まりですか?」

冷と灰皿を彼女の前に置く。

「ありがとう」

と呟いた彼女はしばらく灰皿に目を向けると

「…どうして灰皿?」

「そうマニュアルに書いてあるので」

「…そう」

そう答えると彼女はまた視線を下に落とした。

きっと店長なら格好良く返すんだろうな。でも僕はまだ学生だし、そういう時の上手い返し方なんて分かるはずもない。あぁでも、

「マールボロはいつか吸ってみたいと思ってます。赤マルは特に」

彼女は驚いた表情で僕の顔を見つめた。目が合うとフッと笑い、

「よく分かったわね。まだ若そうなのに」

「祖父がよく吸ってたので」

「なるほどね」

先程とは違って彼女は柔らかい目をしていた。

「かっこいいですね」

「え?」

「貴女の雰囲気はマルボロの深みに似合ってます」

「ふふ、ありがとう。アイリッシュ…そうね、レッドブレストをストレートで頼める?」

「かしこまりました」

あぁ、本当に彼女はかっこいい人だ。

氷がグラスに落ちる音が響く。

煌びやかな光が差し込む窓を見つめる彼女は今までの大人びた格好良さとは別に、儚く哀しい雰囲気を醸し出していた。

紅く染まった唇から離れ、細い指先から落ちた灰が、僕には彼女の渇いた涙のように見えた。


それからというもの、彼女は多い時に週に二〜三回のペースで店に通ってくれた。

いつも他愛のない世間話をする店員と客の関係に過ぎないが、それが僕には心地よく感じられた。きっと僕は道ですれ違ったあの時から彼女の虜だったんだ。

「マールボロ以外に吸ったことのある銘柄はあるんですか?甘いのとか」

「……ホープの甘さにはクラクラしちゃった」

「そうなんですね。甘味に酔っている姿見てみたかったです」

僕の言葉に彼女は頬を赤らめ僕を見上げて

「大人をからかわないの」

と頬を膨らませた。そんな彼女がとても愛らしくて、今度は僕が甘さに酔っていた。

よかった。ホープの話をした時、彼女の表情が曇った気がして踏み込んではいけないと悟った。上手く彼女の気を逸らせたかな。いつか、二人の仲がもっと親密になった時に彼女から打ち明けてくれるだろう。あの儚さの理由を。


彼女との近くとも縮まらない関係ももう三年目。

今日も彼女は僕の前で赤マルを吸っていた。

「今更だけど、あなたこの臭い嫌いにならないの?結構キツいでしょう」

「子どもの頃から嗅いでいる匂いですし。むしろ僕は好きですよ」

(…色んな意味で)

と心の中で後付けた。

「そう。彼は嫌がったのよ」

"彼"という言葉を聞いて僕の心臓は強く脈打った。

「彼はホープを好んで吸っててね。無理に格好つけて背伸びした私の子どもらしさを引き出してくれる人だった」

彼女はあの日のように灰皿に視線を落とした。彼女の目は僕が今まで見た中で一番哀しい色を映していた。

「優しい人だったんですね」

この時ばかりは安直なことしか言えない僕の語彙力を恨んだ。

彼女はいつものように目を細めてフッと微笑む。でもその目から哀しさは消えなかった。

「陽だまりみたいに暖かい人で、私は次第に彼に惹かれていった」

その言葉に胸の奥がチクリと痛む。

「私の片想いだったんだけど、奇跡が起きてね、同棲するまでになったのよ。毎日がキラキラしてて本当に幸せだった」

当時を思い出しながら話す彼女の表情は柔らかくて、彼女をこんな顔にさせる男を一度直接見てみたいと思ってしまった。

「でも幸せな時間は長くは続かなくて…」

そこで言葉が途切れた。グラスを拭く手を止めて彼女の顔をよく見ると、透明な雫が彼女の頬をゆっくりと伝っていた。

なんて綺麗なんだろう。

そう思わずにはいられなかった。うっとりと見惚れてしまうその美しさは彼女の持つ儚さをより一層際立たせた。

「……ゆっくりでいいですよ」

今の僕にはこれくらいしか言えることがない。

彼女は静かに頷く。そして続きを話し始めた。

「彼、いなくなっちゃったの…」

「……病気?」

「ううん。事故。神様って意地悪よね…」

そう言った彼女はせき止めてきた想いが溢れたのか、大粒の涙をぽろぽろと零していた。

「彼の形見を見てると幸せな日々を思い出してかえって辛くて……彼が残した一本のホープ以外は全部捨てちゃった」

「…それは辛かったですね」

「この店に初めて来た日は、彼の一周忌の帰りでね。辛くてどうしようもなかったけれど、あなたが私の心を慰めてくれた。あの時接客してくれたのがあなたで本当によかった。ありがとう」

そう言って微笑む彼女に僕は微笑み返すことしかできなかった。


それから三ヶ月。彼女は店には来なくなった。あの時の僕の対応が悪かったのか。いや、彼女の中で区切りがついたのだろう。

今までが幸せだった分、終わりはあっけなかった。その寂しささえ、温かく染み込んでくる。

「あの女性から預かったんだ。君に渡してくれって」

そう言われ、店長から受け取った小さな紙袋には一本のマールボロが入っていた。

あぁ、本当に終わった…

その事実が痛く僕の胸を貫いた。

ここは格好良く微笑みたかったけれど、僕の器はそこまで大きくなかったみたいだ。

視界が滲むなぁ。

「ありがとうございます」

震える声で呟いた。


僕はバーのバイトを辞めた。

あの出来事は夢のようで、でも衝撃的だった。大切な思い出にしたかったから、あれを最後にしようと思った。

僕は未だにマールボロを吸ったことがない。

ずっとホープだ。彼女の影を追っている訳では無い。ただあの甘さが僕に合うだけだ。

今日もフラフラと喧騒に溢れた繁華街を歩く。

ふとあの香りが僕の鼻を打った。

「……っ!!」

思わず振り返る。

そこには、背筋が綺麗に伸びて堂々と歩く茶髪のショートカットの女性の後ろ姿があった。

僕は彼女と逆の方向を行く。

あの日貰ったマールボロに火を付けて一息吸った。

マールボロは苦くて深い僕の初恋の味がした。

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