旅するフォランス
月には十二兎の月兎がいます。
月兎たちは銀色の毛並みと長い耳、星空のような瞳で、姿形がそっくりでした。
そんな月兎たちの役目は、月の主、ツクヨミ様にお仕えすること。そして月を守ることです。
なかなかに忙しく毎日を過ごしています。
少しずつ欠ける月に、十二兎も月兎がいるなんて不思議に思いますか?
いいえ、月は欠けたりしません。月を照らす光の加減で形が違って見えるだけです。
そうです、月兎たちの月は、いつだって変わらず、まぁるいのです。
六の月は、しとしとしと…… 雨降り月です。
月の原にも十六夜の塔にも、そして月待ちの丘にも等しく雨が降ります。
銀蜻蛉のトーミさんは、月待の丘のてっぺんにある朽ちかけた大木に暮らしています。ヤドリギが根を張った幹の洞には、心地よい住まいがしつらえてあるのです。
しかし降り続く雨にトーミさんは不機嫌です。自慢の翅が湿気を含んで台無しだからです。
「むむ…… 雨降り月は気が鬱ぐ……」
そう呟いて、細長い煙管をヤドリギに打ちつけて、吸い終わった煙草の灰を落としました。
トーミさんは、日がな一日、誰もいない静かな丘で、星の観察をして暮らしています。
月兎が一年の終わりに蒔いた星の種が、どこに芽吹き、どこに流れ落ちたかを正確に記録します。
その記録を記したものを、星の地図「星図」といいます。
数ある星図の中でも、トーミさんの星図の精度は、とても優れていると評判です。
星を渡る旅をするものは、旅の始まりの前に必ずここを訪ね、最新の星図を手に入れるのです。
常連には、おつかい猫のタビィさんや金烏の紅絽さんもいます。
月の主、ツクヨミ様は銀蜻蛉の星図を、精密で繊細な細密画のように美しい、と嬉しそうに眺めるのでした。
たくさんの旅人に頼りにされ、トーミさんも星の観察に余念がありません。
もしも、ほんの少しでも間違えたら……、旅人は迷って目的を果たせないかもしれません。もっと悪いことに、戻れないかもしれないのです。
それだけ大切で、とても重要なものなのです。
だからこそ、トーミさんは遠見鏡を覗いては、ほんの少しの変化も見逃さずに記録し続けるのです。
しかし、この雨降り月はいけません。
トーミさんの遠見鏡を覗いても、雨に霞んで星が滲んでぼやけます。湿気でレンズの焦点が歪むからです。
雨降りが続けば、変化する星の動きを観察できず、正確な星図も書けず…… トーミさんの不機嫌は募るばかりです。
トーミさんの不機嫌をよそに、月待ちの丘の月待草は、この雨降り月に盛りを迎えます。
真っ青な花で丘を埋め尽くして、蒼…… いえ、たくさんの蒼が群れた色、この時期は群青色の花の海です。
月兎たちが愛でる黄金の月光草とは違い、月待草は次から次へと、一年のいつでも花を咲かせます。
特に雨降り月の月待草は、見事でした。
雨粒を抱いた花びらが風に揺れると、打ち寄せる波のように飛沫をあげるのです。
月待ちの丘のてっぺんのトーミさんのうちは、まるで小さな笹舟のようです。
青い蒼い群青色の海に、寄る辺なく浮かぶ難破船でした。
この日も月待の丘には細かい雨が降り続いています。
霧のように細かい雨で、月待の丘全体が蒼く滲んで見えます。遠見鏡を覗いたトーミさんは大きな溜息をつきました。
「…… ぼやけておる」
ほーい、ほーい……、遠くから月兎たちの掛け合いが聞こえてきます。
景色と同じく、月兎たちの声もぼやけているな…… とトーミさんは思いました。
こうした雨が続くと、星と自分を隔てる距離にハッとします。
天に散らばった星々は、月の天気などお構い無しに、キラキラと輝きます。星同士が競って煌めく光も、鈍く滲んで月には届きません。
「まったくもって、けしからん雨じゃ」
シュッシュッーーー、パシャーン!
その時、天の川を切り裂き、一筋の流れが、真っすぐな軌跡を描いて「何か」が向かってきました。
それは水面がたわむとピッシャーンと、星水を撒き散らしながら飛び出し姿を曝しました。
青銀の体は美しい流線型で、大きな鰭を横に広げて、まるで南十字星です。
流星とは違い、天の川の青緑の星水の飛沫を撒き散らしながら、月に向かって飛んできます。
その星水がさらに雨を呼んで、月はにわかに雨音で閉ざされました。
ザァァーザァーーーッ
まるで滝のような激しい雨です。
「ほっほぅ、良い具合に湿っておる。やはり月はこの季節が一番美しい!」
そう大雨の中から、満足げな声が聞こえました。
月待の丘のトーミさんのヤドリギに溜った水たまりに着水して、気持ち良さそうに雨のシャワーを浴びているのはトビウオでした。
「久しいの、トーミ博士。星のご機嫌はいかがかね?」
親しげに話しかけるトビウオに、トーミさんはやれやれと言った様子で答えました。
「なんじゃい、えらく長いこと便りも無しで。苔生したかと思っておったぞ。」
「この探求者が簡単にくたばると思うかね? 相変わらず偏屈な蜻蛉だな、君は!」
トビウオはニヤリとして、立派な翼のような胸びれを広げて挑発しました。
「魚の分際で、生意気なっ……!」
このトビウオは冒険家のトビー・フォランスです。
飛魚座の生まれのトビウオは、星海を渡ることが出来ますが、あまり故郷を離れることはありません。
しかし、このトビー・フォランスはトーミさんの星図に魅せられて、故郷の星を旅立ち冒険家になったのです。
魚であるフォランスは、水のある場所にしか行けません。砂漠ではピカピカの鱗が乾いて、はがれてしまうからです。
それが彼の旅を難しくしています。そして星図は彼らの命と同じ意味を持つのです。
「博士、ワレは本日、最長飛行記録を更新したぞ! この距離は鳥類もかなわんよ。ましては銀蜻蛉には夢の記録よ!」
「ぬうぅ…… 口が達者なトビウオめ。いいか、ぬしの考え違いを正してやるぞよ。よーく聞け、飛ぶと跳ぶは、意味も性質も違うのじゃ。ハネとヒレは役割が違っておろう。ぬしは月兎めらがぴょんぴょんやっとる、アレと同じじゃ。わしの翅の方が優れておる、ふふん」
「相変わらずの負けず嫌いで、結講結構。しかし言っとくぞ。君だって、永遠に飛び続けることは不可能であろう? そら、今だってこうしてヤドリギに留まっておる!」
「なにを!これは、憎々しい雨降り月のしわざじゃ!」
「ほっほぅ。ワレにとっては恵みの雨であるぞ!」
トーミさんとフォランスは互いの目を見合わすと、わーはははっ! と声を合わせて笑いました。
ヤドリギの傘に下にトーミさん、その隣の大きな水盤につかるフォランス。
ふたりは肩を並べて、煙管の煙草を燻らせて、銀河について語り明かしました。
フォランスが語る外の世界の話や不思議な体験に、トーミさんは静かに微笑みながら耳を傾けます。
そして次第に、孤独で冷えた心も、やわらかく軽くなりました。
短い滞在でしたが、雨の止まないうちにフォランスは出発です。
「ぬしよ、次はどこへ向かうのじゃ」
「愚問である、冒険家は心の羅針盤に従うのみよ、ハッハッハ!」
トーミさんは月を去る旧友の背びれを見送りながら、自分の星図が旧友の水先案内となれば良いな、と願うのでした。
大嫌いだったはずの雨降り月も、少しだけ好きになったトーミさんでした。