第210話 「灯」
出発の夜は快晴だった。山の上から見下ろすと、地面には文明の光が、夜空には星々の光と大きな月が見える。これも、もう見納めと思うと、強く心に沁みた。
出発に先立ち、準備は済ませてある。借りた傘は返したし、ジョンさんには世話になった礼と留別の言葉を伝えてある。彼からは特に引き止めるような返信はなくて、単に「幸運を祈る」とだけ。
余った金は、大半を募金箱に突っ込んだ。もしダメだったら……そんな考えが頭をよぎったけど、できなかったらその時はその時だ。また金策を考えて、良い日取りを探して、練習を重ねてやりなおせばいい。
手元の残金は5円だ。その残額を握りしめ、ふもとを眺めていた俺は後ろに向き直った。そっちには神社があって、少し寂れた雰囲気はあるけど、荒廃はしていない。訪れる客は少ないだろうし、常駐している人もいないけど、それでも誰かが足を運んでいて手入れしているという感じだ。
俺はお賽銭箱に歩み寄り、拝んでから5円を入れた。すると後ろから声がした。
「なにかのおまじない?」
「はい。こうやってお金を神様に捧げて、お祈りというか願掛けを」
「……何を祈ったか、聞いてもいいかしら?」
「妹の、佳奈の良縁を」
それを聞いて、フィオさんはちょっと呆れたみたいな笑顔を浮かべた。
「自分の旅路を祈っても、いいんじゃないかしら?」
「現世から去るわけですし、管轄外かなって……」
日本の神様は結構ゆるいと思うけど、それでも去る者にいい顔をするとは思わない。それに、今の俺は現世からすれば異物だろう。だから、俺のために祈るのは筋違いという気がする。
そういう俺の考えに、フィオさんはいくらか考えた後、同調してくれた。
「確かに、後ろから想いを寄せられても……ね。むしろ、行き先から祈られていてほしいわけだから」
「そうですよ」
「……大丈夫よ。みんな、あなたのことを待ってるから」
その言葉が励ましなのか真実なのかは、今の俺にはわからない。あちらから求められる人間であることを願ってはいるけど、世界の壁を超えてまで思われているかどうか……いや、それをこれから試すんだ。
顔をはたいて気合を入れ直すと、いよいよという空気になった。
「忘れ物はないかしら?」
「大丈夫です」
今の装備は、こちらに飛ばされてきたときと全く同じだ。文明の利器は、特に持っていない。
あちらにそういう物を持ち込まないように決めたのには、理由がある。持っていけば俺の出自を隠すのが難しくなるだろう。今回の騒動で知られている可能性はあるから、焼け石に水かもしれないけど。
あと、こっちの世界を捨てるというのに、こっちの科学技術に頼った何かをあちらへ持ち込んでいくのは、かなりみっともない気がする。虫がよすぎるというか。
それに、フィオさんは俺の内面的な何かに期待して、俺をあちらの世界に呼んだ。だったら、最初から最後まで、俺の持つその何かで立ち向かいたい。こっちの物に頼ることなく。
お賽銭箱から離れ、鳥居に向き直って少し近づく。そして軽く柔軟運動を始めると、フィオさんが話しかけてきた。
「今日まで色々話してくれて、ありがとう」
「いえ、他に相手もいなかったですし……」
「気を遣ってくれたんでしょ?」
「いや、まぁ……」
「ふふ」
もちろん、場の空気が湿って気落ちするのを嫌ったという、自分の都合はあった。でも、フィオさんを励ますというか、前向きになってもらいたいという気持ちも、やっぱりあった。そういうところを見透かされたようで、なんだか頬が熱い。
こういう、女性相手で顔が赤くなるのは、結局あっちでもこっちでも同じだ。感情の激しい浮き沈みを経験したこの1ヶ月でも、根っこの部分は変わってない。そのことを思うと、気分がなんだか楽になった。
ああ、そうだ。今からやることは正気の沙汰じゃないけど、あちら側でも俺が求められていると、俺があっちの世界を求めていると、そう信じてるからやるんだ。気持ちは素直に、いつもの自分で行こう。
「……そろそろね」
「はい」
「私は虚空では自分を保てないから……あちらで待つわ。最初のうちは、私との縁を頼ってみて」
「青い線ですよね?」
「ええ。線が導く方に進んで。あとは、あなたの感覚が信じるままに」
「わかりました」
虚空に入ってからの段取りを改めて確認する。でも、ぶっつけ本番になるのはわかっていて、これ以上の詳細は詰められなかった。それでも、あまり怖じる感情は湧いてこない。
フィオさんは、そんな俺の顔を見て安堵の表情を浮かべている。それから少し間を開けて、彼女は口を開いた。
「あちらについたら……私のことは図書館で探してみて。それで、私の故郷を見つけてくれたら、その時は色々お話しましょう」
「張り合いが出ますね、がんばります」
その言葉に満足そうな笑みを浮かべ、フィオさんはその場から姿を消した。生ぬるくて湿った空気が吹き付け、近くの木の枝が風に揺られて騒いだ。
長居したって仕方ない。俺は意を決し、宙に両手をかざして入り口の門を作った。回転する内側が空間を外に押しのけ、青緑の外殻へと押しやられた空間が、少しずつ発光を強めていくフレームになる。
そして、薄まりきった内側の空間は、最終的に暗い灰色になった。虚空が口を開けている。これまで練習で何度も足を踏み入れたけど、当日ともなると緊張感が一層強い。でも、俺の足を止めるほどじゃなかった。
空歩を使って入り込んだ虚空は、一面の暗い灰色が広がっている。足元の魔法陣から漏れる光も、すぐに灰色に飲まれて見えなくなる。
虚空には音がない。代わりに、自分の心臓の鼓動が聞こえる。それぐらい静かなものだから、自分の思考もまるで音になって外から聞こえるようで、本当に寒気がするような空間だ。
寒気というけど、虚空に温度はない。というか、そういうのを感じられない。至適温度なのかもしれないけど、単に温感がやられているだけのようにも感じる。それ以外の感覚も、きちんと働いているかどうかが微妙だ。本当に俺がここにいるんじゃなくて、すべての感覚をシャットダウンさせられたんじゃないか、そう思わせてくるぐらいに、何もない。
そうやって、何もないことに自分の感覚の実在性を揺さぶられる。でも、俺は解決方法を見出していた。頬を軽くつねりながら歩くと、俺がそこにいることを実感できる。他の感覚がいいかげんになっていく中で、痛覚は頼りになってくれた。
何もない灰色の空間だけど、連日の練習で他のものを見る……というか、感じ取れるようにはなっていた。距離が曖昧な空間の向こう側で、虹色の細かな亀裂がちらちら見える。フィオさんによれば、それは別の世界の亀裂らしい。でも、強く惹かれるものでなければ縁のある場所じゃなくって、単に別世界の空間が少しゆるんでいるだけだそうだ。虚空で迷ったときの緊急避難には使えるだろうけど、また虚空に入れるという保証はない。
そういう、余計なものは見えるけど、肝心のあの世界からの縁は見えなかった。仕方がないから俺は、目を閉じることにした。どうせ、視覚なんて対して役に立たないんだから。
目を閉じると、灰色に飲まれかけていた青色の線が、まぶたの裏にうっすらと浮かび上がった。これがきっとそうなんだろう。気を抜くと見えなくなってしまいそうなくらいに細い、青色の糸をたどって、俺は虚空を進む。
虚空では、方角も距離も意味を持たない。行くべきところの縁を感じ取れるかどうか、それがすべてだった。縁に向かって進んでいって、それを強く感じ取れるようになったらそこが目的地だ。
細い糸をたどって、俺は進んだ。あの日、フィオさんに釣られたときのことを思い出す。俺とフィオさんの間に縁があるのは感じ取れる。でも、あちらの世界からは……。俺があちらのことを思っているのは確かだけど、あちら側からはどう思われているんだろう。そんな弱気が奥底から這い出して、音のない空間にこだました。
目を閉じて、みんなのことを思い出す。すると、後ろにおいてきたみんなのことも思い出した。今更……そうやって簡単に切り捨てられるほど、俺は愛されてなかったとは思わない。2つの世界の板挟みになって、自分が引き裂かれそうになる。
でも……俺が今、こうやって虚空にいるのが、自分の気持ちだ。あちらに居場所を見出したから、今こうして何もない道を進んでいる。揺さぶられても、後ろ髪を引かれても、足は止まらなかった。かすかな青色の線を頼って、俺は進んでいる。
頭の中で思い描いたみんなの影が、少しずつ薄くなって消えていった。手を伸ばして留めようとするけど、俺の中の何かがそれを引き止めさせる。やがて、1人ずつ影は消えていき、最後に1人だけ残った。俺に魔法を教えてくれた、あの子が。
アイリスさんは、今どうしているんだろう。俺がいなくなったと聞いて、どうしたんだろう。ちょっとくらい、泣いてくれたりしただろうか。脳裏に浮かぶ彼女は後ろ姿しか見えなくて、その表情はわからなかった。
思えば、彼女に会ってからすべてが始まった。淡々と犬を狩る彼女に見とれて、色々魔法を教えてもらって、彼女が森に1人で立ち向かうように見えていたたまれなくなって……ずっと、彼女の背を追いかけていたような気がする。もっと強くなって、彼女の力になりたくて。
アイリスさんは、今、何を思っているんだろう。会って、話をしたい。
すると、心に思い描いた彼女の姿も、淡い光になって消えていった。思わず俺は、虚空に手を伸ばした。それまで頬をつねっていた右手は、何も掴むこともできない。バランスを崩して俺は、虚空で転びかけ、すんでのところで体制を立て直した。
冷や汗をかいた。袖で額を拭い、目を開ける。相変わらず、虚空にはなにもない。でも、青色の線は少しだけ存在感を増していた。はっきりと、その線が見える。そして、その線が続く先に別の光が見えた。空間の亀裂かと思ったけど、何色でもない玉虫色なんかじゃなかった。紫一色だ。
俺は思わず駆け出した。心の奥底に、何か熱いものを感じる。胸の奥からほとばしるものが、周囲の暗い灰色を焼いていって、透明感のある闇に変えていく。
走り出して、目の前の紫の光は徐々に大きくなっていった。一点の光だと思っていたそれに近づいていくと、少しずつ輪郭がはっきりしていく。紫色の花だ。
目元の辺りで蒸発音がした。流れた涙を虚空が食ったみたいだ。そんな何もない空間に、俺の気持ちをくれてやるのがもったいない。そう思うと、もう涙は流れなかった。
虚空の灰色は、徐々に消えていった。黒い闇の向こうに、紫のマンダラでできた花畑が見える。2人で何回も練習した、結婚式のアレが。
やがて、俺はそこにたどりついた。眼下にはぼんやりとあちらの世界が見える。いや、眼下というとちょっと違う。俺は斜め45度ぐらいの斜面から、あちらの世界に相対する感じの体勢になっている。あちらの地表から1メートルぐらいのところにいるけど、それ以上は進めなかった。手をのばすと、透明な何かが阻んでくる。これが世界の膜なんだろう。
紫の光に満ちる草むらに、祈るようにしているアイリスさんが見えた。俺のことは気づいてないようだ。膜越しに声をかけても届かない。
俺は、出口の門を膜に刻んだ。そして、入り口のときと同じような要領で、膜に穴を開けようとする。でも、入り口のときよりもずっと手強かった。内側を押しのけて穴にしようと試みても、こちらの世界の膜は固くて厚い。黒い目の夜を選んでいるとはいっても、現世より困難なのは疑いがなかった。
それでも、少しずつ門が開いていった。内側が薄まるにつれて、少しずつ向こうの光景がはっきり見えるようになる。すると、彼女も俺の事に気づいたようだ。一瞬で紫の花畑は光の粒子になって消え、彼女は立ち上がって驚きの表情をこちらに向けた。何かを叫んでいるようだけど、こちらにその声は届かない。
反応を進めていくけど、門は中々開かない。嫌な汗が額から吹き出した。力量が足りない? ここまで来て?
向こうでは相変わらず、アイリスさんが叫んでいる。声は届かないけど、応援のように聞こえた。お互いの声は聞こえない。でも、悪い話ってばかりでもない。少なくとも、叫び放題なんだから。
「うああぁあああああぁ!!」
腹の底から、声にならない叫び声を出す。湧き上がる感情をマナに変えて注ぎ込み、空間をこじ開ける。それでも、最後の関門は俺を拒んで通そうとはしない。
すると、俺を見上げるアイリスさんが、両手に白い手袋をはめ始めた。そして、今まさに俺が門を作っているところに両手をあてがう。「危ない!」と叫んでも、声は届かない。決心したように見上げてくる彼女は、ほんの少し笑っているようにも見える。
やがて彼女は、俺の門にぴったり添わせるようにして紫の光を走らせた。あちら側からも、同様の処置で門を開けようというのだろう。俺が先に描いた青緑の門に、むこうから紫の門がくっつき、なんかハッチをつなげたみたいになった。でも、すでに俺が空間を歪ませているから、彼女の力量でも一筋縄で書けるようなものではなかったし、回転を合わせるのは更に危険だ。内側する空間に跳ね飛ばされたマナが彼女の手に飛び、一瞬だけ彼女は顔をしかめた。
「危ないですって!」
「でも、あなただって同じことをするでしょう?」
「そりゃまあ……」
気がつけば会話になっていた。耳を疑うも、向こう側の彼女も同じ顔をしていて、2人で笑ってしまった。もう少しで、開けられるんだ。
そして、門の内側の回転が止まった。あちら側の空気が流れ込み、手と手が触れ、俺は向こう側に倒れ込んだ。
一瞬、心臓が止まりかけた。帰還に成功した実感より先に、女の子に倒れ込むことへの、なんとも言えない感情が胸を占める。
しかし、倒れ込みかける俺に対し、アイリスさんは冷静に対処した。互いの両手を合わせる形になってから、彼女は背の方に重心を傾けつつ片足で俺を支え、巴投げの要領で後方に俺を転がした。
草原で仰向けになった俺の目に、赤紫の夜空が映った。戻ってきた。その実感が、体を熱くさせる。
そして、空にぽっかりと開いた穴が見えた。黒い月だ。あれを通って、俺はここにいる。根拠はないけど、そう確信できた。
月を見上げる。その向こう側には何も感じなかった。
でも、それでいいんだ。俺はここを選んで、今たどりついたんだから。




