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いつかの魔法  作者: 紀之貫
第1章 黒い月の夜
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第17話 「開戦前」

 お嬢様に色々ぶち開けた日の夕食は、食卓に再び明るさが戻った。やっぱり、彼女がこの一家の心情的な中心にいるんだろう。


 夕食の後、作戦会議があると言われた。そこで、自室に戻らず食器の片付けを手伝っていたところ、準備が整ったようでダイニングに戻った。

 テーブルには一面に薄い黄土色の紙が敷かれていた。濃淡のある緑色で森の地図が描かれている。

 席次はどうなるのかと思っていた。すると、そういう話が出る前に、奥様とマリーさんがすばやく目配せし、息を合わせてスッと隣り合わせて着席した。

 俺とお嬢様は、見合わせてから空いた席に隣り合って座ることに。向かい合う、仲の良さそうなお二方は、ニコニコ笑っている。


 初対面の印象で、奥様の実年齢やら、奥様と閣下、お嬢様との間柄――というか続柄――に関して色々と失礼なことを疑問に思っていた。しかし、今では奥様がお嬢様と母娘であることに、何の疑問もなくなっていた。

 その一方、逆によくわからなくなってきたのが、奥様とマリーさんとの仲だ。こちらのお二方はたまに姉妹みたいに見える。あるいは学生同士の友達か。

 いずれにせよ、相手に合わせて良い関係を築けるというのが、奥様のスキルなんだろう。もしかしたら、純然たる趣味でそうされてるのかもしれないけど。


「では、目の森の作戦会議を行います」


 場が整うと、お嬢様が落ち着いた声で宣言した。とはいっても、声のトーンに悪い重さなどはなく、安心できた。


「まずはリッツ君のために、これまでの概要からね」

「はい、そのつもりです」


 まずは経緯から説明してもらえるようだ。メモとマナペンを取り出して身を乗り出す。そして、お嬢様に顔を向けてうなずくと、彼女は話し始めた。


「黒い月の夜、月が空に昇り始めてから夜明けを迎えるまでが作戦時間です。森には六瞳獣(ヘクサイド)が普段の数倍出現します。従来は3もしくは4人1班で8班組織し、森の各所に別れて撃退していました。ここまでは、大丈夫ですか?」

「黒い月が、空に昇るんですか?」

「はい。当日は周囲に赤紫のマナが漂い、その中を黒い月が登ります。これは、実際に見ていただいたほうが早いですね」

「犬が普段の数倍ということですが、群れが大きくなるんでしょうか。それとも、小さな群れが増えるとか」

「3体を超えての群れは確認されていません。孤立したものも散見されますが、基本的には3体構成の群れが、森の中に普段の数倍存在すると考えてください」


 ここまで聞いたことをメモに書き留める。それから、取り終わったメモから顔を上げ、首を縦に振って話の続きを促した。


「森の中には魔人が1体居ます。ただ、こちらから狙って接敵しようとしない限りは、ほぼ遭遇しません。森の中でも、目の薄い部分……外界を隔てるマナが薄いところに陣取って、すぐに転移できるように構えているためです」

「その目の薄い部分から、別の魔人が来る危険は?」

「……無いとは言い切れませんが、他国も含めた”目”での戦闘記録で、別の魔人が入れ替わるように出現したという事実はありません。目に配備された魔人が、迅速な離脱能力を持つことから、目と魔人に対応関係がある可能性が高い、というのが大方の見解です」

「転移、とか離脱っていうのは……」

「リッツさんがこちらに来られたのと、大枠では同じ魔法系統です。彼らの場合は、それぞれの目と、魔人の国の居城をつなげているものと思われます」


 森の中で閣下から話していただいたことを思い出した。とにかく逃げ足の早い連中で、全く仕留められないとか。お嬢様の思いつきは、連中を追い詰めるための足がかりなんだろうか。


「……ところで、魔人の国っていうのは、何か名前があったりしませんか?」

「それは……」


 お嬢様が言い淀む。少し困り顔だ。

 テーブルの向こう側を見ると、奥様が微笑みながら小さく手を上げ、仰った


「魔人は、あまり自分の名前にこだわらないみたいでね。上から下に与えることはあるみたいだけど。国も同じで、自ら名乗らないものだから、こちらも名前の呼びようがないの」

「それで、魔人の国、なんですね」

「あだ名はたくさんあるけど。一般的なのだと、魔人の国が”向こう側”とか”掃き溜め”で、連中の城が”魔窟”とか”伏魔殿”ね。あと、”見えてる井の底”とか」


 こういうあだ名は、冒険者とか最前線の兵の方が、酒を飲みながら大喜利みたいに考えてるんだろうな……。


「リッツ君、今のはメモしないの?」


 奥様が真顔でそう仰ると、みんなでちょっと笑った。

 その後、お嬢様は少し咳払いをして、先程の話の続きを始めた。


「普段もそうですが、敵を倒しても際限なく出現します。夜間での戦闘、周囲のマナの濃度、特別な戦闘の緊張感など……私達の戦闘力を阻害する要因が多くある中、尽きない敵をただ迎え撃つだけ、そんな戦いが何年も続いていました。いえ、この家ができて以来、抜本的な解決ができないまま、今を迎えているのだと思います」


 ここで、少しお嬢様は目を閉じた。雰囲気に悲壮感のようなものはない。ただ、ありのままを語っているように見える。

 目を開けると、これまでと変わらない落ち着いたトーンで彼女は言った。


「敵は尽きませんが、同時に出現する数には限りがあるようです。これは透圏(トランスフェア)で毎年確認していることです」


 彼女は例のレーダーを手のひらに展開した。何度も見ていたけど、透圏と言うのをやっと知った。包丁を習ったばかりの人間に、野菜を空中で切り刻ませるようなぐらいの難易度があるという、雲の上の魔法だ。


「あくまで憶測でしかありませんが、これまでの経験や情報から、魔人が魔獣を同時に使役する数に制限があり、術者の力量や周囲のマナ濃度が制約条件になっていると考えられます。そして普段はマナ濃度が、マナが濃い黒い月の夜は術者の力量が、同時に出せる魔獣の数を定めていると思われます」


 おそらく、どちらかがボトルネックになっているということのようだ。メモをとる俺を待ってから、お嬢様は続けた。


「ここまでが、現状の概要です。以後は今回の作戦に関してですが、リッツさんが発見された、犬を無力化する可能性のある手法を用いることで、実質的な敵兵力を減らせるのではないかと考えました」

「……今までは、倒しても補充されるから、実質的には減っていないも同然だったけど、拘束できるならば話は違う……ってことですね」


 お嬢様は力強くうなずいた。目には強い光が宿っているけど、興奮で浮かれてはいない。あくまで口調は冷静そのものだ。


「敵を倒すことで、魔人側のマナを削っているという可能性もありますが、敵を倒しても総兵力に変化が見えなかった過去の経験から、やはり敵を倒すという行為に有効性は見出だせないと思われます。仮に術者へ多少損害を与えていたとしても、誤差程度ではないかという印象です」


 テーブルの向こうでは、お二方が真剣な表情で聞き入っている。マリーさんはお嬢様の話を聞きつつ、時折無意識なんだろうけど、深くうなずいていた。今話している辺りは共通認識らしい。


「今回、倒さずに拘束するという手法を用いることで、少しずつ敵の実効戦力を減らしていければ、戦闘する各班の接敵頻度を減らし、負傷率を抑えられるのではないか。また、今まで力の底を探ることもできなかった魔人に対し、その姿に迫る機会を得られるのではないか……というのが、構想の核です」


 ここまで話し終えたお嬢様が一息つくと、奥様は小さく手を上げ、厳しい視線をお嬢様に向けられた。


「リッツ君の罠っていうのは、周囲のマナを吸うっていうのが重要なポイントなのよね? マナの濃い当日の環境で、うまくいく可能性は?」

「当日、本番で試行する形になってしまいます。しかし、罠を空中でも展開できることは確認済みです。敵を地面と空中の2つで挟むことで、効果を挙げられる可能性があると考えています」

「完全に動きを止められなかった場合は?」

「手で抑え込める程度であれば、紐で縛って拘束できます。あるいは、多少弱ったところに矢の追撃があれば」

「作戦がうまく行かないと判断するタイミングは? それと拘束に回る編成と失敗時の次善策も」

「最初の敵3集団までを試行の対象にします。全てに失敗するようであれば、通常の作戦に切り替えます。拘束には私とリッツさん、マリーの3人で1班構成して事に当たるつもりです。ギルドには詳細を伝えずに遊撃班として動くと説明します。作戦が失敗したと感じたら、リッツさんとマリーを森の外部待機組と交代し、私の班を通常の遊撃班として編成、従来どおりの作戦に戻します」


 奥様は、その後も作戦の優先順位とか、他の班との連携等、戦地に立てない方とは思えないくらいの鋭い指摘を続けられ、お嬢様はその全てに正面から答えていった。

 奥様の表情は、本当に真剣だった。血気に(はや)って自分を見失うことのないよう、子供を(いさ)めるように。

 お二人のやり取りを、メモに走り書きで留めている間、マリーさんと目があった。どこか自慢気に見えた。

 そうしてお嬢様の答弁を聞いていて、一つ気づいたことがある。奥様への返答は、その場で考えている当意即妙なものじゃなくて、予め考えに考え抜いて今日までにたどり着いていた答えのようだと。俺が来る前までに、色々な”もしかして”を考えて、少しわだかまりを感じたあの日からも、変わらず考え続けてきたのかも知れない。そう思うと、自然と手に力が入った。

 そしてついには、奥様の質問が尽きたようだ。「参りました」なんて、笑顔で仰っている。そんな奥様に、お嬢様は深々と頭を下げた。


 お嬢様がまた頭を上げてると、今度は奥様は口を開かれた。


「ここからは政治っぽい話になるけど……その前に例の”罠”って正式名称は?」


 俺の方に視線が集中する。


「特に考えてませんでしたけど……罠でいいんじゃないでしょうか。他に仕掛けられる罠もないですし」


 マリーさんの話では、誰か引っかかるかもということで、森に罠は仕掛けられない。

 俺がそう言うと、奥様は「それもそうね」と笑ってから、話を続けられた。


「罠で使ってる複製術って、第3種禁呪でしょ? 魔法庁的に大丈夫かしら」


 知らない単語が出てきた。とりあえずメモを取ろうとすると、奥様は少し困り気味の苦笑いになられた。


「あまりおもしろい話ではないけど、後学のためと思って聞いてね。まず魔法庁っていうのは、国民の魔法の使用の管理全般と、治安維持、特に王都の警護を担当するお役所よ。その魔法庁が、使用に関して制限を設けている魔法を禁呪と言うけれど、第3種禁呪は一番低位のものね。使用にあたっては使用資格の申請が必要で、申請した用途以外の利用法は認められていないわ」


 そこまで聞くと、急に今まで森の中で”禁呪”をバンバン使ってきた事実に、震えが来た。

 恐る恐る奥様を見つめると、満面の笑みだった。


「我が家が申請したのは”教育目的”での使用ね。リッツ君が自主的に森の中で”学術的に”試行錯誤して、我が家に色々教えてくれたことを思えば、これを非難する無学な者が、あの魔法庁にいるとは少し想像もできないわ~」


 すると、マリーさんが、横を向いて吹き出し笑いをした。この発言には何か含みがあるようだ。


「とにかく、リッツ君が使ってきたことについては、案じる必要はないわ」

「お嬢様が当日複製術を使用することは、ギルドに対して拘束作戦を伝えないのであれば、外部に露見する可能性も低いですし、隠匿できるのでは?」


 議論に復帰したマリーさんが、落ち着いた顔で指摘する。


「んー、何も成果が上がらなければ、そのまま内緒にできるでしょうけど、うまく行けば何かしら上に対して説明が必要になるわ。そのときどうするか、よね。今から申請したとしても、最近の締付けぶりでは厳しいと思うわ。何より、禁呪が衆目にさらされるような、実戦投入を認めるとも思わない」


 ここまで作戦について話し続けてきたのが、急に暗礁に乗り上げたように聞こえた。しかし、奥様は余裕のある笑みを崩されないし、お嬢様もとくにうろたえる様子はない。


「お母様は、何かお考えがあるのですね?」

「あなたが何か考えたのなら、あなたから言いなさいな」

「封領伯には監視区域内における種々の権限を、王室から認められているはずです。私は今回の作戦上、お父様から全権委任を受ける立場です。それと、作戦行動中の現場裁量を考えれば……」

「まぁ、作戦報告書で事後報告して解決ってとこかしら。小言は言われるでしょうけど」


 どうも、この話の流れでは、俺が使うことになる魔法に関して、この家の方に何かしら面倒が及ぶようだ。

 それを見て見ぬ振りというのも、さすがに無責任に思われる。そう思って話しかけようとすると、奥様とお嬢様が同時に手で制し、それを見たマリーさんが含み笑いを漏らし、残るお二方も苦笑いした。

 奥様もお嬢様も同じことを考えていたようだ。それで、結局は奥様が話されることになった。


「こういう上とか横との折衝は貴族の仕事よ? それに、こういうつまらない面倒事に首を突っ込んであなたが悪目立ちすると、結局はみんなが不利益を被ることになるわ。だから、任せなさいな」



「狙いは完璧ですね、素晴らしい腕前です」


 犬に罠をかけた俺に、マリーさんが賞賛の言葉を投げかける。犬は額から尻に一直線で矢が刺さっている。矢と言っても、ちゃんと触れる方の、普通の矢だ。

 俺は犬へ罠を確実に仕掛けられるようになっていた。しかし、彼女の弓の腕に比べれば、大したことがないように思えて仕方ない。


 マリーさんは弓使いだった。というか、軽めの武器は一通り屋敷で鍛え込まれたらしい。その中でも短弓が得意ということで、俺が見た限り外したことがない。

「日中当たらないようでは、弓を使う意味がありません」と彼女は言う。魔獣がマナを感知する都合上、矢は奴らには透明にも等しいとのことだ。実際には、射手の手に宿る微弱なマナから、多少は危険を察知できるようだけど。

 気になったのは、奴らに魔力の矢(マナボルト)を撃とうが、物理の矢を撃とうが、反応はほぼ同じことだ。撃たれた事実に反応して、倒れているように見える。こういうところも、なんだか生物っぽくなくて不気味だった。


 作戦会議からは2日経った。冒険者ギルドとの調整のため、お嬢様は王都と屋敷を往復する生活になった。そのため、今は俺の訓練にマリーさんが付き合ってくれている。彼女の調整目的もあるようだ。


「他のを探しましょう」


 そう言って、彼女は手のひらの上に透圏を作り出した。お嬢様のは薄紫だったけど、マリーさんのはちょっと薄めで、青に寄った青紫だ。中身もぼんやりしている。いつもは落ち着いた雰囲気で、余裕のある態度を見せる彼女だけど、この魔法を使うときばかりは少し自信なさげだ。


「お嬢様みたいに使えたらと、いつも思っているのですが……」


 自分の手のひらの半球を見つめながら、彼女は少し悔しそうにつぶやいた。

 その後、完全な紫色で作ると負担が大きすぎて使い物にならないから、自分の青いマナの色に寄せて、だましだましやっていると、彼女は恥ずかしそうに言った。

 しかし、弓の腕前や家事の手際を思うと、何でもできそうな女性という印象はまったく揺るがない。お嬢様が横にいるときとはまた違った、安心感のようなものがある。


「近場に1体いますね。そちらへ向かいましょう」

「はい」


 マリーさんに誘われて、新たな標的の方へ向かう。


「マリーさんは、魔法の方の矢は撃たないんですよね」

「はい。当日はマナを温存する必要がありますので」


 というのも、お嬢様とマリーさんだけが、目の森の戦闘で透圏を使える存在らしい。それで、慣れているお嬢様はいざしらず、マリーさんは可能な限りマナを温存して透圏に注ぎ込むのが、結局は全体の役に立てるとのことだ。


「どうやって覚えたんですか?」

「透圏のことでしょうか」

「はい」


 すると、マリーさんは、少しイタズラっぽい顔で笑った。それから、ちょっと距離を寄せてきた。近い。今日はなんだかベリー系の匂いだ。で……俺の反応を楽しんでいるのがわかる。


「知りたいですか?」

「いや、まぁ……いずれできればいいなとは思ってるんで」

「……ある日、15歳のときでした。屋敷の執務室に忍び込んでですね……もちろん、後で許可は得ましたが、教書を一冊お借りしまして……自室でこっそりとですね」

「誰にも言わなかったんですか?」

「はい。練習中に気絶することもありましたから、主に就寝前と、日中の手持ち無沙汰になった時間に、誰にも知られないように練習していました。あの時期はベッドのシーツに変な液体が染み付いて、釈明に困ったものです」


 顔はまだちょっとからかっているような感じだけど、目はすごく優しい。昔を懐かしんでいるように見えた。


「教書があるとは言え、完全に独学でした。なかなかうまく行かずに泣いたものです。近くには最高の手本がいましたが、頼るのも悔しくて」


 目だけじゃなくて、顔もだんだん、穏やかな笑みになってきた。一方、視線を少し伏せている。


「始めてから、1年後ぐらいでしょうか。どうしてもコツが掴めなくて。今よりもずっとぼんやりとした、かろうじて機能する程度のものでしたが、悔しいのをこらえてお嬢様に見せに行きました。助言でもいただこうと」

「どうなりました?」

「大泣きされました」


 そう言って、少し含み笑いを漏らした。

 その後、彼女は周りを見回した。犬も冒険者もいない。そのことを確認すると、話を続けた。


「私も釣られて大泣きしまして」

「……ちょっと想像できないですね」


 俺が真顔でそう言うと、彼女は笑顔のまま、指で俺の頬をちょっと強めに(つつ)いてきた。


「お嬢様が泣かれた理由は、結局聞きませんでした。私は、ただ驚かせたくて、喜ばせたくて、内緒で取り組んでいたのですが……泣かせてしまったことが、とても悔しかったのを覚えています」


 それから彼女は言葉を切って、無言で歩いた。

 相変わらず、何か香水みたいなものが香ってくる距離感だ。でも、それ以上に彼女との距離が縮まった気がしている。


「お嬢様が泣かれた理由は、なんとなく察しが付いているのではないですか?」

「……そうですね、なんとなくわかります」


 彼女は急に立ち止まった。手を体の前に揃えて重ね、目を閉じ、嬉しそうな感慨深げな表情をしている。

 そして、彼女は目を開け、俺に右手を差し出してきた。


「リッツ様にお越しいただいて、本当に嬉しく思います。ともに頑張りましょう」


 彼女があの屋敷の従者で、俺がその客とか、そういうことはどうでも良くなっていた。

 強くうなずいてから、彼女の手を握った。少し冷たくてすべすべした手で、強く握り返された。



 当日は夜から戦闘開始ということで、少しずつ睡眠時間を調整していった。

 庭に植えたハーブには、就寝前の気分を落ち着けて寝付きを良くする、いわゆるカモミールとかラベンダーみたいなものが植えてある。それで、夕食後にはハーブティーを飲むようになった。

 冒険者の方も、森の帰りに屋敷に顔を出しては、そういうハーブを頂戴していった。最初からそういうつもりで、庭に大量に植えまくっているらしい。

 来訪者にあまり顔を売ってはまずいので、会っても会釈だけで済ませると、相手も慣れたもので同じように会釈を返された。このお屋敷に閣下が招かれる客は、だいたい秘蔵っ子みたいに思われているらしい。


 食事の時間もだんだんズレていった。というか、減って1日2食プラス間食みたいな感じになった。「食べ盛りなのにごめんなさいね」と奥様に謝られたけど、ぶっちゃけそういう時期は過ぎていたので気にしなかったし、生前の食生活を思えば大変健康的だった。



 そして、当日の昼になった。


「ちょっと足りなかったと思うけど。起きたらつまめるものを用意しておくから」

「枕元にはこちらの香を。気分を落ち着けてくれるはずです」


 自室の前で、奥様とマリーさんが就寝前の挨拶に来てくれた。


「どうしても眠れないようだったら」


 奥様が言葉を切って、ちょっとイヤラしく微笑まれた。


「添い寝してあげよっか?」

「それ、寝かせる気ないですよね?」


 すると、目の前の2人は真顔で互いに顔を見合わせ、こちらに満面の笑みを向けて両手と声を合わせた。


「いやーん!」

「あ~もう!」


 俺は笑いながら顔を真赤にした。そこで、マリーさんが真顔に戻って「今こそ、その香の出番です」とか言って、それで3人でまた笑った。

 笑いも収まったところで、お二人は改まって、柔らかな表情を俺に向けた。


「おやすみなさい」

「おやすみなさい」

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