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野本大五郎と戦争

作者: 小椋智大

1 野本大五郎の日記


昭和十六年 十二月八日

 

 朝。日本晴れ。鶏の聲が聞こえました。僕は美子と雑炊を食べてゐました。母は朝の仕度をしてゐました。

 ラヂオで大本営陸海軍部の発表を聞きました。西太平洋におひて米英軍と戦闘状態に入れり、と聞きました。

 開戦劈頭の合図をこの耳でしかと聞き、體に熱がほとばしつています。熱に浮かされたやうであります。

野本恒夫少佐が僕の父であることをほこりに思ゐます。暴慢不遜なる米國を倒して下さい。

 僕たちは日本の勝利を確信してゐます。

 隣組副組長の中神さんの奥さんがやつて来て、「かならず勝つでせう」と何度も言つてゐました。

 支那・ロシヤに勝を制した日本の兵隊さんが負けるはずがありません。

 僕は今大きな気魄に満ちてゐます。今は工廠で海軍さんへ武器を供することでしか我が國への貢献はできませんが、いずれ逞しい日本兵となることを強く願ひ、望んでゐます。



昭和十七年 六月三十日


 僕は軍歌を歌ひました。守るも攻むるも黒鐵の浮かべる城ぞ頼みなる──

 ラヂオで戰ひの状況を聴きました。海軍さんの躍進が報道され、僕は涙を落しました。感謝の気持でいつぱいです。

 いつも僕は父の寫眞を持ち歩き、海に向かつては敬礼してゐます。

 隣家の晴雄君が應召にかかつたやうです。僕も御国の爲、いち早く兵隊になりたいと思つてゐます。



昭和十七年 十月九日


 僕は徴兵検査を受けました。

 父上とは異なる陸軍へ志願致しました。航空兵への志願が多かつた爲でせう、僕は陸軍に志願するやう上官様より命を享けました。海軍、陸軍共に同じ日本を守る兵士である以上、僕が陸軍兵士となることに後悔はありませんでした。

 徴兵検査の結果、乙種合格で、来年には應召がかかると判然と言われました。

 一年経つたら、僕は兵士です。想像する丈で、気持が昂ります。

 僕は高らかに軍歌を歌ひます。

 天に代わりて不義を討つ──



昭和十八年 一月十七日


 ガ島の撤退爾来、戦況が不利に傾きつつあるといつた旨を度々耳にするようになりました。僕と同じ工廠に勤める勤労動員の友達の廣瀬君が「日本負けてしまうん」などと弱音を吐きました。

 僕はそれが許せなくて、彼の首を絞めました。

 「何てこと言うか」と叫びました。すると工長が駆け付け、僕の頰をぶちました。そして廣瀬君の頰もぶちました。僕はすつきりしました。

 こつそりですが廣瀬君の靴に鉄屑を入れておきました。



昭和十八年 二月二十三日


 遂に僕のもとに召集狀が届きました。


  第一補充陸軍歩兵。

  召集部隊は歩兵第五十五聯隊××聯合隊區司令部


と確かに書かれてゐました。

 胸が躍りました。熱い焔が體の中で噴きあがつてゐます。その焔は大和魂の権化だと信じて居ります。僕は兵士として日本を背負つて戰いに向かゐます。母も美子も隣で大変喜んでゐます。





2 野本大五郎の覚悟


 大五郎は椰子の木が立ち並ぶ森の中に設置された野営地にいた。陽はすっかり落ちていて、周囲はまっくらだ。小さな洋燈がここそこに置かれてあるが、火力が乏しいため、あまり役に立っていない。

 大五郎は羨望の眼差しを上官たちの方へ向けた。彼らはここから二十米先の場所で、火をくべた薪を中心に車座になって談笑している。

「この際、マラリアにでも罹ってみたいなあ」と、後ろからささめく声が聞こえた。この情けない声は遠藤だ。

「そんな弱気になったら、勝てる戦にも勝てんようになる」大五郎は後ろを振り向き、声を潜めながらも強く言った。

「そうは言っても、アメリカの空軍の攻撃見ただろう? あんなもの相手に勝てるはずないって」

 大五郎は弱気なことを平然と言う遠藤の眉の垂れた覇気のない顔を見て、燃え滾るような怒りを覚え、力任せに彼の頬を打った。パシンという鋭い音が夜のしじまを裂く。その音に気付いたのだろう、上官たちが「何だ、何だ」と立ち上がり、そのうち一人がこちらにやって来た。

「何を騒いでる?」

 上官が小さく言った。小さいながらも威厳ある声だった。

「申し訳ありません。遠藤隊員の頬に蚊が止まっていたもので、その退治のため彼の頬を打ちました」

 大五郎は淡々と言った。

「ここは蚊が特に多い。そんなことをいちいちしているようでは、夜は越せんぞ」彼は携帯していた三八式歩兵銃のグリップの部分で大五郎と遠藤の頭を強く叩いた。「余計なことで体力を使うな。さっさと休養をとり、明日の戦に備えろ」


 大五郎は椰子の木に凭れ、夜空に浮かぶ満月を眺めていた。

「野本君。君は軍人のあるべき姿だ」遠藤が頭と頬を擦りながら声をかけた。「だって空母の艦長の息子だもんね。すごいや」

「父さんは関係ない」

「ぼくもね、最初は支那、ロシヤとの戦いに勝った日本軍に憧れ、そんな日本軍の一員として戦いに出向けられることが光栄に思っていた。でも、ここビルマに来て、初めて戦争が怖いと思うようになったんだ」

「何を今更。戦争なぞ、怖いものだ」

「野本君でもそう思ってるの?」

「当然だ。戦争は怖い」

「でもどうしてそんなに平気でいられるの?」

「平気ではない。今にも狂いだしてしまいそうなほど、怖い、恐ろしい」

「まさか」

「ほんとだ。ただ、怯えたって仕方がないんだ。目の前に起こっていることだけがすべてなのだから、それを受け入れ、今自分にできることをするしかない。それがぼくの場合、『戦う』ということであるだけだ」

「……戦いで死ぬ覚悟はできてるの?」

「僕にあるのは戦う覚悟だけだ」

「……死ぬ覚悟は?」

「言っただろ。僕にあるのは戦う覚悟だけだ。死ぬ覚悟なんて持っているだけで邪魔になる」

「やっぱり、すごいなあ」

「もうぼくは寝るぞ」

 赤みを帯びた満月に黒い雲がかかっている。そして月が雲に完全に覆われて、いっさい見えなくなってから、大五郎は目蓋を閉じた。





3 野本大五郎の怒り


 大五郎はバケツと雑巾を持って、蒲鉾型の兵舎の扉を開けた。薄汚れた部屋の中には英兵がいた。彼はこちらを一切見遣ることなくビルマ人の女性の肩に手を回し、彼女を抱いていた。

大五郎はそんな彼らの方をなるべく見ないようにすたすたと部屋を横切り、小さな扉を開けた。そこはトイレだ。便器に大量の糞が溜まっていて、大五郎はそれを素手で掴み、バケツの中に入れた。

 吐き気を催すほどの臭いに顔を歪ませながら、大五郎は胸の中にある忿怒・悔恨・悲哀そのすべてを便器にぶつけるように「畜生、畜生、畜生……」と小さな声で何度も言った。呪いをかけるように、何度も何度も。

トイレ掃除を終えると、英兵が「センキュー」と嘲るように言った。大五郎が曖昧に頷くと、英兵は何かを投げた。大五郎がそれを受け取る。タバコの箱だった。中にはしけたタバコが三本入っている。英兵は軽く会釈をし、ビルマ人女性のもとへ戻っていった。

 大五郎が兵舎を出ると、すぐにタバコの箱を力いっぱい握り潰した。すると、前の方から誰かが歩いてきた。遠藤だ。彼の容貌は少し前に比べるとかなり変化した。頬はこけ、目は落ち窪み、足は鶏のそれのように細い。大五郎も一週間前に比べると、かなり痩せ細ったが、遠藤の変化は異常なものだった。

「終戦してから、こんな目にあうとはね」遠藤は汚れた歯をこぼし笑った。

「終戦など、信じていない」

 大五郎は言う。

 遠藤は大五郎を睨みつけるような鋭い眼差しを向け、「いつまで言っているの?」と冷たく言った。「ここでいくら軍人らしく振舞おうとしても、何の意味もないよ? 依怙地になった餓鬼みたい」

 大五郎の拳が震える。しかし、その拳を遠藤の頬には向けなかった。深呼吸をし、そして、掘立小屋の方へ速足で歩いていった。

「虜囚となることは軍人として非常に恥辱なこと、死同然だ」大五郎は静かに呟いた。そして、頬に熱いものが伝ったのを感じた。「父上……申し訳ありません」涙声だった。





4 野本大五郎の帰還


 大五郎は甲板に立っていた。欄干に腕を置き、船のつくる波紋を眺めていた。

 隣で男三人が露営生活の過酷さや同隊の擲弾兵の誰それが惨たらしい死に方をしたとか、そういったことを滑稽話かのように談笑していた。

「収容所にいりゃ、演劇も見れたし、酒も思う存分飲めて、タバコも不自由なく吸えた。聞くところによると内地はぼろぼろじゃねえか。こりゃあ戻るのが億劫やあ」

「おらあ、あのビルマの女抱いてさあ」

「たまげた。それは英兵の許可なくか?」

「まさか、そんなこと。英兵の方がカモンって」

「英兵の言語分かるやつはいい待遇だったって聞くが、ほんとだったんだ。で、日本の女とどう違ってた?」

 男たちがあまりに野卑な会話をするので、大五郎はたまらなくなって欄干を強く拳で叩き、船尾の方へ歩いていった。

 船橋あたりに五人程屯しているのが見えた。その中に遠藤がいた。彼らは株札を持って、煙草を賭けよう、現金を賭けようなど皆一様下品な笑みを浮かべていた。そんな彼らを傍目に横を通り抜けた。遠藤はこちらを一瞥もくれなかった。

 大五郎は茫漠で呆れるほどに広大なこの海を見ていた。

 どこかから小さなジェット機が飛んできた。

「ありゃあ、英兵さんのブリストル・ブレニムやねえか?」

「英兵さんが見届けに来て下さったんやあ!」

「ありがとう!」

 そんな暢気な声が横から聞こえて来た。


『アーロン収容所』(会田雄次/中公文庫/1973年)

『俘虜記』(大岡昇平/新潮文庫/1967年)


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― 新着の感想 ―
[良い点] 第一章は当時を思わせる言葉遣いで描かれており、とても引き込まれました。 [一言] 近代史はあまり知識がないのですが、もうあのようなことがないようにしなければならないと強く思いました。
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