②(神の前における)ヒューマニズムの徹底否定が逆説的に「人権」という概念と「民主主義」を誕生させたプロテスタントによる宗教改革
小室直樹『憲法原論』『宗教原論』より、プロテスタントによる「宗教改革」で唱えられた「予定説」が、「人権」という概念や「近代民主主義」を生み出すきっかけになったことについてのまとめ。
キリスト教は、宗教改革を経て、ヨーロッパの隅々にまで広がったが、そのキリスト教はまた、近代資本主義、近代デモクラシーの精神の基礎としても動きはじめた。
資本主義もデモクラシーも、みんなキリスト教理解のうえに立っている。
しかしキリスト教といってもそれは「旧教」のキリスト教ではなく、16世紀の前半、ドイツのルター、スイスのカルヴァンらによる「宗教改革」以後の「新教」のほうのキリスト教。
すなわち「プロテスタント」。
特にカルヴァンによって唱えられた「予定説」によってキリスト教の性格はそれまでとはガラリと一変し、そしてその変化が近代民主主義を産み、近代資本主義も生み出す結果となった。
では宗教改革とプロテスタントの誕生によってキリスト教の何が変わったのか。
そしてその変化が当時のヨーロッパ社会にどのような影響を与えたのか。
● ヨーロッパ社会を激変させたプロテスタントによる「宗教改革」と彼らの唱えた「予定説」
プロテスタントの「予定説」では、人間が最後の審判において救済されるか否かは、すでに決まっているとされる。
そこに人間の意志が介在することなどありえない。
最後の審判の際に、誰が救われるのか、それは神のみが決めることであって、もしそれが人間の世界でどれだけ悪人といわれる者であったとしても、神が決めることならそれは神のすることが絶対的に正しい。
あらゆる啓典宗教で最も忌避することを一言でいえば、それは、神を人間の召使いであると考える考え方で、それはいいかえれば、人間が生きるために利用しているという考え方のこと。
宗教上における正邪の判断、善悪の判断というのは、人間が判断できる代物ではない。
ところが、中世のキリスト教会は、信者に聖書をわざと読ませないようにして、勝手に神の意志を代弁して、聖書に書かれてもいない「外面的行動」である善行や修業を積めば救われるとか、あるいは「秘蹟」という教会が考え出した儀礼によって、信徒に神の恩恵を与え、救済を保証するといったことをしていた。
「秘蹟」(サクラメント)とは、カトリック教会において、生まれてからすぐに受ける洗礼の儀式から始まり、死ぬときに受ける終油の儀式まで、全部で7種類の儀式をうけさえすれば天国に行くことができるという僧侶たちの教え。
教会は、14世紀のころから金儲けのために、いわゆる「免罪符」を信者に売りつけて、
「善行を積まなくとも、お金さえ積めば救われる」などという、本来の教義にもとることを行い、そればかりでなく、信者に対しては「カネを貸して利子を取ってはいけない」と教えておきながら、教会みずからが金貸し業を営むようになった。
聖職者の地位を、お金で俗人に売り飛ばすという「売官」も日城茶飯事のことになっていた。
カルヴァンの行ったのは、キリスト教を本来の姿に戻せ、イエスがいたころの教えに戻せという運動。
だから、改革というよりは「原点回帰」の運動。
プロテスタントは、「聖書だけ」を教義にしているのであるから、聖書のどこにも見当たらない煉獄など認めるわけにはいかない。
また、プロテスタントは、「信仰のみ」で救われるとするのであるから、「秘蹟」など多の行為による救済という手段を認めるわけにもゆかない。
キリスト教は、信仰のみを救済の条件とする宗教で、人の内面における信仰の他に、何ものも救いのために行動が必要とされない。
この点においてキリスト教は他の宗教とは全く違う。
キリスト教においては、すべての人は罪人であるとする。
パウロは、
「もし、神が人の外面的行動に目をつけて救うか救わないかを決めるのならば、救われる人は一人もいないであろう」といった。
罪人である人間は一人残らず救われるはずがない。
しかし、恵み深い神は、人間の罪はみな無視なさる。外面的行動は問わず、内面的信仰にだけ注目したまう。
人間が内面において神を信仰すれば、ただそれだけで、神は恩恵を与えて救いたまうのである。
これは驚くべき教義で、他の宗教と全く異質的。
救われるためには、善行も修業も少しも必要ではない、というのだから。
ユダヤ教やイスラム教においても信仰は重視するが、「信仰だけ」ということはない。
確固とした戒律(宗教のさだめ)があって、外面的行動によってその戒律を守らなければならない。
外面的行動を無視しては、ユダヤ教やイスラム教は成立しえないのである。
仏教も、釈迦が定めた「戒」と僧伽の「律」を守ることが大事で、仏教は、外面的行動としての戒律をきわめて重視する。
儒教に至っては、儒教の戒律は、すべて外面的行動に関することばかりになっている。
人間の内面的行動なんかどうでもいい、とまではいっていないものの、実質的にそのように解釈する儒学者もおり、
「舜の服を着、舜の言を唱し、舜の行いを行えばこれ舜のみ」
と、すなわち、外面的行動が聖人たる帝舜と同一であれば、この人は聖人である、という主張さえあるほど。
ところがこれら、他の宗教とは全く違って、キリスト教では、人間の心のなかの信仰だけを問題にする。
「神を信じ」、「神を愛し、隣人を愛せ」ば、その人個人が救われる、というのがキリスト教の教え。
神の恵みを受けて救われるためには修業したり善行を積んだりする必要は少しもない。
いわんや、学問などは少しの必要もない。社会身分的にも関係しない。
秘蹟のような儀礼は必要でない。それは拒否される。
呪術や魔術は、必要でないどころではなく、拒否、厳重に禁止される。
これこそが、キリスト教の奥義。
が、中世のキリスト教会は、信者に聖書を読ませないほど本来の姿から逸脱をした。
「信仰のみ」(心でキリストを信じさえすればよい)であるべきキリスト教が、外面的行動である善行や修業を重んずるようになっていた。
もっと悪いことに、カトリック教会は、外面的行動に他ならない「秘蹟」という儀礼によって、信徒に神の恩恵を与え、救済を保証するということさえしていた。
こうして、キリスト教は、本来の姿からして見る影もないものに逸脱した。
これを本来の姿にもどすために起きたのが「宗教改革」だった。
宗教改革の趣旨は「信仰のみ」。
人間の内心における「信仰のみ」で、神は恩恵を与え救いたまう。外面的行動は一切無関係だとする。
カトリック教会の堕落、腐敗に対する批判の声を上げて宗教改革の口火を切ったのが、マルティン・ルターで、ルターは1517年に、「95ヶ条の提題」という文書を公表して、マインツの大司教が信者に売りつけている免罪符について弾劾し、法王自身が神の教えを踏みにじっていると批判した。
このため、ルターはドイツ帝国から追放されることとなるが、彼を支持するザクセン選帝侯によって庇護を受け、こののちルターの教えはドイツばかりか、ヨーロッパ各地に広まっていく。
そして、さらにその後、宗教改革の運動は、カルヴァンの登場によって、ローマ教会のみならず、絶対王権と全面対決するまでになり、ついには西洋史、世界史全体を変えていくほどの運動へと発展していく。
カルヴァンは、ルターに始まるプロテスタンティズムの思想をさらに突き詰めて、「予定説」を中心とした一大思想を体系を作り出し、その思想が回り回って、ついには絶対王権をひっくり返し、民主主義をもたらす結果ともなった。
予定説の考えでは、そもそも人間はどんなことをしようとも、絶対に救われない存在だとする。
どんなに善行を施そうと人間は救われない。何をやってもムダ。
それを決めるのは「神」のみであって、もし人間が自らの意志や行動によって救われるとなれば、それは人間のほうから神に対し、善行をしたのだから救えというようなことになってしまう。
それは人間の驕りだと。
神の意志によってすべては予め決められている。そう考えるのが「予定説」。
そのためプロテスタントでは人間の「自由意志」を認めない。
どころかヒューマニズムさえ認めない。
ルターは、ヒューマニズムの大立者エラスムスの「自由意志論」に対して、「奴隷意志論」を公表して、
ヒューマニストの説を反駁した。
人間には意志の自由はなく、よいことができるのも、すべて神の恩恵によるものだと主張した。
キリスト教においてはもともと、「神」とは「主」(王)であり、人間は神の臣民、あるいは下僕であるということになっている。
神にとって人間は、焼き物師がつくった彼の前の器に変わらない。
万物の創造主である神が、人間をどうこうするなど自由自在。
既に人類はアダムとイブが、神の命令に逆らって禁断の身を食べたことによって楽園を終われ、その後も連帯責任として永遠の命を奪われ、限られた寿命しか与えられないという「原罪」を負った。
しかしそんな堕落した人間を神が救済するのは、そうすることによって神は人間に対し、自らの力の素晴らしさや栄光を顕すためだと、本来のキリスト教やカルヴァン主義では考える。
キリスト教のこうした考えは人間軽視どころではなく、神の前で人間には何の価値もないし、何の可能性もないとする。
キリスト教の予定説では人間は奴隷であり、神の道具に過ぎない。その意味で、人間には権利もなければ、自由もないと考える。
近代民主主義とは正反対の思想だが、ところが「近代民主主義」ばかりか「人権」という概念もまた、ユダヤ教からもイスラム教からも、仏教からでも儒教からでもなく、民主主義とは最も遠いはずのキリスト教が支配するヨーロッパから誕生した。
● 「人権」と「特権」の違い
「人権」というのは、万人に平等に与えられるもの。
人間でありさえすれば、誰でも無条件で与えられるというのが「人権」の概念。
「人権」という概念は近代民主主義の誕生と密接に関係していて、近代民主主義が出てくるまで、地球上のどこにも「人権」などという概念はなかった。
人権がまったく存在しなかった時代に、反対に腐るほどあったのが「特権」。
中世においては、あらゆる人がそれぞれの特権を持っていた。
王様には王権があったし、領主たちにも領主たちの特権があった。
商人や職人たちは「ギルド」という特権的な組合を結成して、新規参入する業者を徹底的に排除した。
農奴の場合でさえ、彼らの特権はとても小さかったけれども、それでも「家族をバラ売りされない」という特権を持っていた。
そしてこれはたとえ領主といえども、彼らのその特権を奪うことはできなかった。
ところが、「予定説」を信じる人々が登場したことによって、そうした「特権」が普遍的な「人権」へと変貌を遂げた。
一部の人が持つのではなく、誰も同じ特権を持っているという状態になったことで、それが「人権」と呼ばれるようになったのだ。
人権とは、あくまで誰もが等しく持っているもの。
一部の人しか持っていない人権は、中世の特権と何ら変わらない。
なぜ、1000年も続いてきた中世の社会が、予定説によってあっという間につくがえてしまったのか。
予定説の考えでは、無眼で万能の力を持った神の前では、人間など無価値同然に過ぎないと考える。
そしてそれは、たとえ王侯貴族であっても変わらない。
プロテスタントの唱える「予定説」における人間の価値の否定が、それまでは絶大な権力で人々を支配し君臨してきていた王侯貴族たちの地位や権威まで一緒に引きずり降ろしてしまったのだ。
予定説の基本にあるのは、「無眼で万能の力を持つ神様」。
こうして神をとてつもなく高い場所に置いたとき、その神様を信じる人たちにとって、世界はガラリと変わって見える。
どんな人間だって、偉大な神に比べれば、けし粒以下の存在に見えてくる。
この世の決まりごとなど、大したことはないと思えてくる。
それまでのヨーロッパ人にとっては、王様や領主というのは、途方もなく偉い人に見えた。
しかし、神様の目から見たら、王様も自分も大した違いはなくなる。
予定説を信じれば、王様だろうが領主だろうが、平民と同じ人間ではないかという意識が生まれてくる。
人間は神の下にあって、みな平等である。
したがって、人間が持っている権利もまた、みな同じである。
そこから「人権」という考え方が生まれた。
またここから、「予定説」が「民主主義」のスタートラインともなった。
● 予定説が近代「革命」を起こすエネルギーの源に
宗教改革以前の当時のヨーロッパ社会は、「伝統主義」が支配する社会だった。
支配階級である王侯貴族の領主たちが、いつまでのその地位や身分でいられるように、未来永劫、幸せだった昨日までの状態が今日もこの先もずっと続けばいいと、「永遠の昨日」を願って、過去からずっと「慣習法」として守られてきた社会の仕組みや決まりを、人間の都合で勝手に変えてはならない厳格なルールとしてきた。
ところが、神の絶対を信じるプロテスタントからすれば、「昨日まで、そうやってきたから」という理由では納得できない。
彼らにとって何より大事なのは、それが神の御心に沿っているかどうかだけで、神様のためなら逆に、社会の仕組みなんてぶち壊して、作り変えてかまわない。
近代の歴史は「革命」の歴史と言っていいが、その革命もまた「予定説」の産物だったのだった。
ルター、カルヴァンによって広められたプロテスタンティズムは、ヨーロッパ各地に広がっていき、信者を増やしていった。
プロテスタントは、フランスでは「ユグノー」、イギリスでは「ピューリタン(清教徒)」と呼ばれたが、いずれも予定説が信仰の根底にあった。
このプロテスタントの人たちには、それまでの特権だらけの社会がデタラメなものに見え、彼らによって、王権体制への叛逆が始まる。
1579年には、ネーデルランド(オランダ)北部のプロテスタントたちによってフェリペ2世の廃位が宣言され、「ネーデルランド共和国」が建設された。
そして1642年には、絶対王政を倒した最初の市民革命といえる「ピューリタン革命」がイギリスで勃発する。
ピューリタン革命は、当時のチャールズ1世が王権神授説に基づいて王権の強化を図り、議会の同意を得ないで課税したり、貴族に献金を強要しようとしたことに対して、議会が反発したことから始まったが、騒動は激化して内乱へと突入し、最終的にオリバー・クロムウェル率いるピューリタンの独立派が主導権を得て、ついには国王を処刑するまでに至る。
◆ ピューリタン革命からその後フランス革命・アメリカ独立宣言に至るまでの、「民主主義」政治完成までの長い道のり。
● イギリスの二つの革命
イギリスで発生した「ピューリタン革命」によって、はじめて絶対王政から脱した「民主主義」制度の道が開かれるが、まだ完全なものではなかった。
ピューリタン革命において、クロムウェルは史上名高い「ニュー・モデル・アーミー」という革命軍を組織して王の軍隊を破ったが、そのとき彼の勝利に貢献したのが、手工業者や農民を中心とした「水平派」だった。
クロムウェルは革命の成立後、革命軍の将兵全員の討議で革命方針を決めようとする会議を開くことにした。
しかしその会議は「パトニーの大論争」と呼ばれる激論となる。
なぜならそれは水平派が、
「イングランドで生まれたすべての人間に選挙権を」と求めたのが原因だった。
これに対してクロムウェル側の代表者のアイアトン将軍は、
「万人に共通する権利など、あるはずがない。財産を持っていない人間が、国政に口出しすべきではない」といって猛反対した。
「万人は平等である」という現代においては当然の常識のように語られるようになったことも、当時の感覚では、アイアトン将軍の反応のほうが一般的な反応だった。
当時の社会では「権は身分によって違う」、つまり身分ごとに特権があるというのが、不動の真理だと思われていた。
中でも重要だったのが、「財産による区別」、とりわけ「土地による区別」だった。
土地を持っている貴族、あるいは準貴族、準々貴族などの特権階級は、議会に代表を送ることはできるけれども、それ以外の人々は政治的発言権を持たない、というのが中世の常識だった。
それをいきなり「万人が平等な権利」を持っている」というのだから、これはまるで天動説をひっくり返して地動説を唱えるようなもので、
そのためコペルニクスと同じように、水平派の人々は迫害されることとなった。
しかしその後、結局は地動説が真理と認められたごとくに、「平等」や「人権」という概念も定着してゆくこととなったが、
しかしそこへと至るまでには大変な時間がかかった。
「平等」や「人権」を標榜する近代民主主義は、アメリカ合衆国の独立と自由・平等などの基本的人権、人民の革命権などを掲げ、近代市民社会の原則を樹立した「アメリカ人権宣言」(1776年)や、「人権宣言」や「封建的特権の廃止」などの決議が行われた「フランス革命」(1789年)によって確固たるものとして確立されるが、
そこへと至るまでには120年以上もの長い時間と、数多くの革命闘争を経なければならなかった。
しかも、フランス革命やアメリカ独立宣言を経た直後においても、「デモクラシー」とはむしろ、「悪い政治」「最悪の政治」の代名詞だったという。
デモクラシーがそうしたマイナスイメージからようやく脱して市民権を得たのは、20世紀に入ってから、せいぜいこの100年のことだった。
ピューリタン革命において、予定説を信じたプロテスタントたちは最終的に国王を処刑してしまったが、国内では一方で、それはやはりやり過ぎだったのではないかという、革命派の過激さや危険性が次第に強く認識されていくようになり、その結果、イギリスでは1658年のクロムウェルの死後、1660年に、ピューリタン革命で処刑されたチャールズ1世の子供が、亡命先のオランダから呼び戻され、チャールズ2世として即位し、ステュアート朝の王政が復活することとなった。
イギリスでは、これによってピューリタン革命で成立した共和政は約10年で終わりをつげ、一時的に「王政復古」が果たされる。
民主制に対する批判というのは当時も現代において問題視され批判されているような内容と変わらず、イギリスでは議会が王様によってしょっちゅう反抗しているものだから政治が乱れ、国全体が弱くなったという批判が挙げられていた。
また、当時はイギリスにとって長年の仇敵として存在していたフランスが王政を敷いていたため、イギリス人の中には、「やはりフランスのように王様が絶対権力を持っているほうがいい」と考える人がたくさんいたという。
ところが、議会の権限を尊重することを条件に即位させたチャールズ2世が、王権神授説をとり、カトリック信仰を復興させようとして、再び議会との対立を深めたため、そこでもう一度、イギリス議会の政党の議員たちが協力して国王を追放。
そして代わりにまた、今度は国民の権利と自由を確認した「権利の宣言」を受け入れることを条件に、オランダから新国王ウィリアム3世とメアリ2世を招き、無血での国王の交替させた「名誉革命」が達成されることとなる。
こうした経緯をへて、イギリスでは国王自体は存続されるものの、実権は持たない「立憲君主政」が確立されることとなった。
まだちょっとまとまっていなです。途中です。




