①「日本には契約概念が存在しない」と言われる日本人の契約に対する意識の低さ
契約の絶対性や一義性がわからず、容易に「事情変更の原則」を持ち出しては都合次第で約束をチャラにしてしまう日本人の契約に対する意識の低さについて。
小室直樹氏によれば、
キリスト教は、宗教改革を経て、ヨーロッパの隅々にまで広がったが、そのキリスト教はまた、近代資本主義、近代デモクラシーの精神の基礎としても動きはじめたという。
今日の国際社会では、キリスト教を本当に理解していないと、大変なことになると。
それはいまや、全世界がキリスト教文化に包み込まれてしまったから。
資本主義もデモクラシーも、みんなキリスト教理解のうえに立っている。
ところが、日本人はキリスト教を理解していないから、資本主義は成立せず、経済は「鵺のような経済」(資本主義と社会主義と封建主義が合わさった混合経済)になってしまっていると。
そのためさらには、日本ではデモクラシーも機能せず、役人に三権を簒奪されてしまっている状態で、これは、ヒトラーが出現する兆しとさえ感じられるほどだと。
キリスト教と近代資本主義、近代デモクラシーの関係とは?
◆ 「日本には契約概念が存在しない」と言われる日本人の「契約」に対する意識の低さ
● 契約の「絶対性」と「一義性」
小室氏によれば、「近代資本主義」は商品売買における「契約」から出発し、また、「近代デモクラシー」とは「社会契約思想」から出発するものだという。
そしてこれらの契約は、人間同士の対等な契約でなければいけないと。
そしてその「契約」の特徴として、
まず「絶対」であること、そして「一義的なもの」(意味が一つということ)であるということ。
「契約」とは「一義的なもの」であって、だからああともとれる、こうともとれるというようなことでは困る。
契約とは、それを「守った」か「破った」かの、二者択一的に決められるものでなければならず、解釈で契約内容をコロコロ変更されるようなことがあってはならない。
「契約」とは基本、"契約締結時に前提とされた事情がその後変化し、元の契約どおりに履行させることが当事者間の公平に反する結果となる場合に、当事者は契約解除や契約内容の修正を請求しうるとする"いわゆる「事情変更の原則」は許されない、認められないというのが大原則。
そしてその意味において、初めに双方で交わした契約内容は、いかなる事情が生じようとも、正しく「絶対的」に守られなければならない。
ところが、日本人にはその「一義性」や「絶対性」がわからず、コロコロ都合次第で、初めに約束した契約内容の履行を正しく実行せず、ああだこうだ理由を持ち出して、"こんなことになるとは思ってなかった"とか、簡単に「事情変更の原則」を持ち出して、双方で交わした契約を反故に、約束を守らないということを平然としてしまう。
日本人には「契約」における「絶対」性と「一義」性が理解できない。
そして理解しないまま、資本主義社会および民主主義社会を形成してずっと暮らしてきている。
小室氏の指摘されるに、
「日本の『約束』は人間関係を離れて存在できない」
「人間関係から分離した抽象的な約束はありえない」
という。
それはつまりどういうことかといえば、
「人間関係が変われば約束も変わる」
ということで、だから約束を交わした相手に、
"あんなことしやがって!”とか"あんなひでえことしやがって"というようなことをされた場合、
それとは全く関係のない約束の効力まで一緒に無効化してしまうのだと。
日本人が契約だと思っているそれは国際社会で通用するようなものではなく、契約ではなく単なる「約束」にすぎないものだと。
「契約」とは、客観的であって、人間関係とは端から分離されている。
だから相手と仲違いしたからといって、売買契約の効力が変わることなどありえない。
契約は、両当事者の社会関係(身分の上下、力の大小・・・・・・)から抽出されていて、契約の文面だけが問題となるが、
一般に、その社会契関係、社会状況が変わったとしても、条文の解釈は変わらないというのが原則。
すなわち「事情変更の原則」は成立しないというのが決まり。
しかし日本人はそのような「契約」というものの考え方がわかっていないため、「日本には契約概念が存在しない」と言われてしまう。
日本の企業では、アメリカ企業と契約を結ぶとき、アメリカ側が持ってきた契約書に、あまりに細目にわたって詳しく規定してあるのに驚かされるという。
こんなに細かく決めておかないと信用できないのかと気を悪くする人もいるという。
だがそれは違っていて、アメリカ人が詳細をきわめた契約を決めておくのは、後になって解釈をめぐって争いごとが起きるのを防ぐためにそうしている。
神との契約と違って、人間(法人を含む)の間の契約は、契約の本文の他に、施行規則や解釈書があるわけではない。そこで解釈をめぐっての争いが起きることを防ぐために、なるべく詳細に書いておくのだという。
契約が、神との契約に源流を発し、人間関係、社会関係から抽出されていればこそ、こういうことになるのだと。
ところが、日本の契約書には、
「もしこのことをめぐって論争が起きたときには、双方、誠意をもって交渉すべし」
などという条項が当然のように付け加えられてることが多いという。
こんな条項は、契約書には全く不必要。
法学者の川島武宣博士は、こんなことを書き込むようでは、日本人は、契約書というものを少しもわかっていない、と慨嘆したという。
近代デモクラシーの大前提は「契約を守る」ということ。
欧米人の考える契約とは、言葉そのもの。
言葉によって明確に定義されないかぎり、それは契約とは呼べない。
契約とは言葉。
「契約とは、言葉によって記された約束である」ということを示す象徴が、企業が取り交わす契約書。
欧米の契約書には虫眼鏡で拡大してみないかぎり、読めないような小さな字で、ぎっしりさまざまな条項が書き記されている。
考え得るあらゆるケースを想定し、
「この場合はこうする」「このときには、こう対応する」と列挙されている。
契約書とは言葉の塊。
欧米における契約とは、「破った」か「破らないか」かが明確に判定できるものでなければならない。
破ったか破らないか判然としなかったり、
「破ったようでもあり、破らないようでもある」事態を許すのでは、契約と言えない。
そこで欧米では、契約は文書にしておく習慣が生まれた。
欧米では契約書に細かな条件を定めるが、これもそのため。
また欧米の契約は、当事者の人間関係に左右されないし、事情変更の原則も成立しないとされる。
この点も中国や日本と違うところ。
「契約」よりも「約束」を重視する日本人。
しかしこれは、日本人がキリスト教を理解せず、日本人独自の宗教観をベースにしていることによる影響が大きいとのこと。
◆ 「契約」を絶対視するようになったユダヤ教徒とキリスト教徒の教訓
● 神との「契約」を破って幾度も滅ぼされそうになった古代イスラエルの民
旧約聖書の教えとは「こんな目に遭いたくなければ、神様との契約を守りなさい」という1点、ただそれだけ。
旧約聖書が伝えようとしているメッセージは、要するに「契約を守れ」、この一言に尽き、
神様はアブラハムに対して、
「お前の子孫にカナンの地と永遠の繁栄を与えよう」と約束をした。
しかし、その約束は無条件に与えられたものではなかった。
あくまでも神との契約を遵守するかぎりにおいて、という条件付きだった。
それがつまり、「契約」ということ。
ところが、古代のイスラエル人たちは、その契約を守らなかった。
その結果、神から皆殺しにはされなかったものの、約束の土地を失い、バビロニアの奴隷になった。
そこで旧約聖書は「この教訓を絶対に忘れてはならない」と伝えうものとなっているのだ。
イスラエル人がユダヤ人になったのは、この「バビロン捕囚」からで、バビロニアの奴隷になったイスラエルの人たちは、「なぜ自分たちは、こんな目に遭っているのだろうか」と考えた。
そして過去の歴史を振り返ってみたら、自分たちが神様との契約を無視したからだということに気付いた。
そこで彼らは過去の失敗の歴史を旧約聖書という形に集約し、今後は神と結んだ契約、いわゆる「律法」をきちんと守ろうと考えた。
そうすれば、神様はもう一度、イスラエルの民にカナンの地を与えてくださるのではないかと。
これこそがユダヤ教の原点。
ユダヤ教は古代イスラエル人の信仰をベースにしているが、神との契約を無視した苦い経験があって初めて、あの強固なユダヤ教の信仰が生まれた。
バビロン捕囚という体験によって、古代イスラエル人は、ユダヤ人へと変身した。
古代イスラエルの人々は、不信心で、すぐに昔のことを忘れてしまう者たちだったが、今のユダヤ人は違う。
彼らはどの土地に住もうとも、信仰を捨てずに生きつづける。
そして、つねに神との契約に基づいて、自分の生活を律していく。
ユダヤ人がそんな、「契約」の遵守に対して厳格な民族になったのは、バビロン捕囚という苦い体験があったからだったのだ。
● 神との契約を改訂したイエス
しかし本来、旧約聖書とは古代イスラエル人と神との間に結ばれた契約の書であって、ユダヤ民族以外の人々には関係ない宗教だった。
ところが、その旧約聖書をベースにして、まったく新しい宗教が生まれる。
それがキリスト教。
イエスは、戒律さえ守っていればそれだけで天国行きが保証されるとしたユダヤ教徒たちの形式的な信仰スタイルを批判し神との契約を改訂(旧約→新約)したが、その際、契約対象をユダヤ人以外にも広げる革命的なことを行った。
ユダヤ人でなくても、神の恩恵を与えられるようになった。
しかも、モーゼが結んだ律法では「割礼をせよ」とか「ブタを食べるな」とか、いろんな戒律が事細かにあったのだが、それをすべて破棄して、ひじょうにシンプルな条件に変えた。
すなわち「神を信じ」、「神を愛し、隣人を愛せ」、この契約条件さえ守れば、神様はその人を救済してくれるというのがイエスの教え。
さらに旧約聖書では、神との契約を守れば、イスラエル民族全体が救われるというものだったが、キリスト教においては、「神を信じ」、「神を愛し、隣人を愛せ」ば、その人個人が救われるということになった。
つまり、神と契約を結ぶ主体も集団から、個人に変わった。
こうしてキリスト教では、従来のユダヤ教から引き続き、契約に対して厳格な精神を引き継ぐとともに、また個人主義が発達することとなった。
● パウロによって、信者たちの内面的信仰と外見的行動が区別され、キリスト教における「二分法的思考法」が確立される(パウロ教)
キリスト教では、イエスの教えにより、物事の倫理規範は人間の外面ではなく内面にあるとしている。
後世の宗教改革において、カトリック教会が行う秘蹟や免罪符をルターが否定したのは、内面的な動機と関係なしに、儀礼という外的行動によって救済されるとしたから。
この内面的、外面的という「二分的思考法」が、キリスト教を語るうえでの重要なキーポイント。
キリスト教における最重要人物の一人であるパウロのなした最大の功績は、人間の内面と外面は全く違うということ、すなわち、「内面と外面の二分法」を明らかにしたこと。
マックス・ヴェーバーは、パウロのこの大独創がなければ、キリスト教は世界宗教たりえないどころか、生きのこることすらできなかっただろうと指摘している。
原始キリスト教は、ローマの法律に反するとの理由で大弾圧を被った。
生き残るためにパウロが採った方策が、この「二分法」だった。
ローマの市民は、外面的にはローマの法律どおりに行動したが、内面においては、キリスト教徒たれと、人間の内面と外面、すなわち信仰と行動を峻別した。
キリスト教には法も規範もないため、元々こういう側面を持っていたが、特に強調して誰にでもわかる形で解説したのがパウロだった。
それゆえ、キリスト教はパウロ教だともいわれている。
キリスト教では、この二分法によって、信仰と人間の行動を全く別個にしているため、信仰を変えることなくなく、外面的行動を変えることができる。
日本の江戸時代にキリシタン禁令が出されて、幕府は信者たちに踏み絵を踏ませて信仰の有無を確認しようとしたが、本来のキリスト教においては、いくらイエスの描かれた絵を足で踏もうが、内面の信仰が確立されているのであれば何の問題もない。
イスラム教のような、人間の内面と外面が密接に絡み合っているような宗教では、世俗の法律とイスラム法が矛盾して、国や自治体が定めた法律が否定される事態が生じる場合も出てきたりしてしまうため、欧米の憲法における「信仰の自由」の保障も、それは、人間の内面の信仰と外面の行動を区別すればこそ問題なく制定することができる。
◆ 契約にルーズなイスラム教徒や、中国人や日本人
● ユダヤ教・キリスト教から派生したイスラム教徒が「契約」に対してルーズなわけ
それは、小室氏によれば、イスラム教の唯一神であるアッラーが、ユダヤ教やキリスト教が戴くヤハウエの神と違って、非常に"寛大"な神様だからだと。
イスラム教の神様は旧約の神様ほど、契約違反に対して厳しくないし、短気でもない。
イスラム教の神様は、ひじょうに寛容。
つまり、人間が罪つくりなことをしても、その人物がふだんは宗教的に正しい生活をしていたら、情状酌量をして許してくださる。それがイスラム教の神様だという。
旧約聖書に出てくるモーゼの神様は、たとえ日常生活は正しく過ごしていても、偶像を刻んだりして大罪犯したら、どんなことがあっても許さいない、それとは大違い。
イスラム教の神様の寛大さを、象徴的に表しているのが、
「イン・シャー・アッラー」(アッラーの思し召しによって)という言葉。
イスラム教徒が何か悪いことをして反省する際には、同時に、「アラーの思し召しによって」、どうぞお許しいただけませんかと神様のお慈悲を願う。
するとアッラーはまことに寛大な神様なので、「これからは気を付けろよ」と許してくださる。
神との契約においてさえ情状酌量が許されるのだから、ましてや人間同士の契約、それも異教徒のぷ米人や日本人との契約なんて、そんなに一所懸命守るわけがない。
といっても、彼らにしても、「契約を破ることがいいことだ」とは、もちろん思ってはおらず、やはり契約を破るのはよくないことだと分かっている。
しかし、それも最後は「イン・シャー・アッラー」と唱えて、「私は仕事上の契約を破りました」と反省すれば、神様は許してくれるため、欧米人のように人間同士の契約を死んでも守ろうとは思わないということになるのだという。
イスラム教は、マホメットがユダヤ教やキリスト教の欠点を徹底的に研究して作り上げた宗教だが、しかし、そのイスラム教を信じている限りは、「人間同士の契約も絶対である」という概念は生まれない。
したがって、近代資本主義も近代民主主義も成立しない。
● 「因果律」で物事をとらえ「場合によっては、契約を破ってもしかたがない」と考える中国人や日本人
日本から中国へと進出した企業経営者たちは、
「中国人は契約を守らない」と、口々にこぼすという。
それも企業の経営者だけでなく、政府の高官でさえも、平気で約束を破る。
そんな国では安心してビジネスができない。
しかし、小室氏に言わせれば、こうした点では、実は中国人も日本人も五十歩百歩だという。
たしかに日本の企業はずいぶん国際化してきため、このごろは欧米の企業なみに契約書にはシビアになった。
法務部を置き、専門の法律家に契約書を作らせる企業は増えきた。
その意味では、日本人は契約の重要性をよく理解するようになってきたといえるが、それでも、それはあくまでビジネスの分野だけの話で、その精神が日常生活一般に及ぶエートスになっているかと言えば、そうではないと。
政治家の公約の例を見れば分かるように、
「場合によっては、契約を破ってもしかたがない」と、いまだに日本人は心の中で思っている。
その原因を探っていけば、人間同士の「契約の絶対」がないという問題にぶち当たると小室氏は指摘する。
契約こそ、民主主義や資本主義を支える基礎中の基礎。
しかし契約に「絶対」の概念を持つ欧米人との違いは、やはり宗教の違い。
日本人や中国人は、「予定説」で物事を考える欧米人と違って、仏教の「因果律」で物事を考える。
「因果律」とは、原因は結果を招き、結果は原因による、という考え方。
つまり、よいことをすればよい報いがあり、悪いことをすれば悪い報いが返ってくるという考えで、因果律で考えた場合、悪いことをしたヤツが救われて、何も悪いことをしていない自分が救われるとはかぎらないというのは、とても納得がいかない。
仏教の場合はこの因果律が徹底していて、もし現世において悪い行いをすれば、来世において、必ず「六道」(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天)の世界のより低いほうのステージへと落とされ、苦しめられることとなる。
また、現世において、自身が不幸を背負うのも、それは前世での行いが悪かったからというふうにとらえられる。
ところが、キリスト教の予定説はぜんぜん違う。
誰が救済され、誰が救済されないかは、神が一方的に決めることで、それは必ずしも前世における善行や悪業の違いによって決定されるものではない。
この予定説に関しては、敬虔なクリスチャンとして知られる内村鑑三でさえ、首をかしげるところがあったようだ。
内村は、人から、
「よいことをしたって悪いことをしたって、誰を救うか、神が一方的に決めてしまうのは不公平ではないか」と聞かれて、
「神が不公平だというなら、自然だって不公平ではないか。ある女は絶世の美女なのに、ある女は二目と見られぬ醜女に生むのだから」と答えたが、
小室氏によれば、これは内村の間違いで、もしこの問いに予定説を唱えたカルヴァンなら、
「不公平でいいのである」と答えるはずだと。
「公平だとか不公平だというのは、人間のいうことだ。人間の感覚で神を批判するなど涜神(神を汚すこと)行為も甚だしい。神は絶対だから、人間社会の是非善悪などの関係なしに、最大の悪人でも救済するのだ。人間が文句をいったって仕方がない」と。
だから、「因果律」で物を考える日本人や中国人では、何か自分にとって損だとか、納得がいかないというケースが発生すれば、
どうしても因果律の考えで、悪くもないのに契約の通りに従わされるという事態に、不平不満を生じてしまうことが避けられない。
◆ キリスト教の「予定説」に対する無理解が、日本にいつまでも本当の民主主義や資本主義を根付かせない
● 「近代資本主義」や「近代デモクラシー」はキリスト教の精神の基に成り立つ
小室氏によれば、いまだに中国でも日本でもアラブでも近代資本主義も近代民主主義も生まれていないという。
「近代資本主義」や「近代デモクラシー」はキリスト教の精神の基に成り立っている。
では、キリスト教の精神が、「近代資本主義」や「近代デモクラシー」に一体どのような影響を与えて成立したというのか?
それには、「宗教改革」にて、プロテスタントの唱えた「予定説」に対する理解が欠かせないという。