檻内焦鳥
昼が過ぎ、夕暮れも終わり、夜の来訪。全く望まない、テュール皇子との二晩目である。
特に彼から文などは届かないので、私は自分の部屋で紅葉草子を読んでいる。語り継がれ、転写されてきた、この地域に伝わる古典文学。もう、何度読んだだろう。
紅葉草子、それは身分格差のある男女の駆け落ち物語。燃え上がるような恋を、儚い紅葉に見立てた話。贅を捨ててでも結ばれたいと、手を取り合い、連れ戻されそうになれば、入水し、愛する者と寄り添う事を選択する華族娘の悲恋。
彼女は、自分の家族や一族の事を考えなかったのか……。何もかもを捨て、その人と引き裂かれるなら死ぬ。そこまでの激しい恋。
ああ……私もそのような恋に身を投げてみたい……。片想いではなく……想われたい。
「武陵桃源に迷い込んでしまったようだ」
ティダ皇子の声。私は紅葉草子の本から目を離し、部屋を見渡した。黒装束の男がいる。体格からして男で、装束の色は皇族のみが着ることを許される漆黒。しかし、女性のように、衣で顔を隠している。
夢? 何の音もしなかったのに、彼は私のすぐ近くに座っている。
「今宵の天女は笑ってくれ……ないのか」
やはり、この声はティダ皇子。彼は私の髪を手に取った。全身の体温が急上昇して、激しい動悸に襲われる。
「ティダ皇子……」
これは、夜這い……。何度も、何度も、何度も夢見た状況。嘘……。喜んではいけないのに、どうしようもなく嬉しい。
「テュールを連れ回して、酔い潰してしまった。今夜は二晩目だというので、代わりに連れ出しにきた」
代わりに? なら、夜這いではない……。
ティダ皇子の手が伸びてくる。彼が手に持つ扇子が私の顎に触れそうになった。私は思わず手に持つ紅葉草子の本で、扇子を払った。
「扇子でも触らないで下さいませ。大華を摘めるのは唯お一人のみです」
ティダ皇子が目を丸めた。
「指一本触れるなと言うから扇子にしたのに、これでも怒るのか……」
戸惑うティダ皇子に背を向ける。テュール皇子との婚姻前に、私を攫ってくれるのかと一瞬浮かれた。私の阿呆。でも、泣きそう。歓喜の強さ分、絶望感も強い。
「摘む覚悟がおありでしたらどうそ。たった二晩続けて逢いに来ることさえしない方に摘まれるよりは、良いでしょう」
私は体を丸めた。俯いて、袖で隠さないと涙を見られてしまう。
「意中の男で無かったからと泣くな」
はい? 今、何て言った? 何故、今の会話の流れでそういう台詞が出てくる。
思わず、私は背を伸ばして振り返っていた。涙が飛び散る。
「意中? 笑止! 身内を人質にし、嫁げ、恋せよと言う方など!」
口にしてから、やらかしたと慄く。全身が震える。視線が合ったティダ皇子の目の光は……分からない。何を考えているのか見抜けない色である。表情も乏しい。
「……いえ……聞かなかった事にして下さいませ……。今のは身勝手と、己の性根の悪さ故に飛び出した言葉でございます……」
私は逃げるようにティダ皇子から顔を背けた。懐から扇子を出して、顔を隠す。
「ふむ。手を出させなかった、が正しいのか。さて、どうしたものか……。ソアレ、あの男の何が気に入らない?」
問いかけに、私は言葉を詰まらせた。何が気に入らない? その答えは一つしかない。彼は、ティダ皇子ではない。だから、気に入らない。彼自身には何の落ち度もない。
「何も……。誠実で……優しい方でございます……。私を慮って、一線引いて下さったのはテュール皇子です」
だから、歩み寄ろう。そう思っていたのに、いとも簡単に揺らいだ。ティダ皇子の姿を見ただけで、私の決意は吹き飛んでしまった。
「何も……ねえ……全身から拒絶の空気を出して……。ありつつも君をば待たむ……よくもまあ、そんな嘘が言えたものだ。いや、長年の文なども全て偽りか……」
「ええ。私が贄となれば、愛する一族の未来は明るい。憐れな生贄など真っ平御免です。なので、骨抜きではなく心抜きします」
私は机に向かい、墨仕込み筆を手にした。
「心抜き?」
「生まれてから、ただ一人の姫になるのだと縛られたのです。ならば、私もそういう扱いをされなければ、我慢出来ません」
自分の台詞が、ストンと自分の絶妙な位置に嵌った。焼け焦げそうな気持ちになるまで、ティダ皇子を想っているのに、踏み出せない理由はこれだ。磨きに磨いた私という宝石を、一晩で砕きたくない。私は輝き続けたい。寵愛を一心に受けたい。
来ない男を待って、侘しく過ごしたくない。袖を濡らす夜、嫉妬に狂って絶叫しそうな日々。皇居に飛び交う、女の恨み辛み。後宮なんて、もっと酷いに違いない。
歌や詩、物語に綴られて残って、語り継がれてきた女の叫び。私もその一人に加わるなんて嫌だ。
嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
沈黙が続く。ティダ皇子は親しい友人であるテュール皇子の為に、私を迎えにきた。その行為が、私の全身を突き刺し、血塗れにするとも知らずに……。
半紙にさららと龍詩を綴る。半紙を折らずにティダ皇子へと渡した。
「菜花の昨日の花は枯れずとも……人の心をいかが頼まむ。おい……これを俺に持っていけと?」
貴方の事を全く信用出来ません。そういう文だ。人に頼むとは、という意味も掛けた。
「ええ。酔い潰れて寝ている方の枕元へ置いておいて下さいませ。昨日や本日の様子だと、慌てて逢いに来てくださるでしょうね」
私は花瓶に生けてある菜花もティダ皇子へ差し出した。水で濡れている茎を向けてである。私は立ち上がり、精一杯の笑みを浮かべた。
「人は手に入らないものにこそ、夢中になるでしょう? 手に入りそうで入らない。届いたと思ったら、するりと零れ落ちる」
ティダ皇子の膝の上に、菜花を落とした。
「動揺しながら逢いに来られたテュール皇子にこう言います。うら寂しい、可愛げのある態度でです。百夜通いでもしてくだされば……信じられると思います……」
私は、よよよよよ、と泣き真似をして、崩れるように腰を下ろした。
もしも、万が一、ティダ皇子が私に迫ったら、同じことを告げる。私を有象無象と一緒にするな。いや、有象無象などこの世にそんな女は存在しない。色恋遊びなど、滅ぼしてくれる。
皇族が一夫一妻となり、仲睦まじく暮らせば、少しは世間の風向きが変わる。世に埋もれる乙女の願いを私が叶える。私も幸福になるだろう。自らの手で、世界を切り開くのだ。
どう反応するかと思ったら、ティダ皇子は子供が新しい発見をしたというような、あどけない表情である。
「ふははははは! 我が友はなんつう毒花に惚れた。よし、気に入った。そなたに協力してやろう」
高笑いをした後に、ティダ皇子は膝の上の菜花を掴んだ。反対の手には、いつの間にか折りたたんでいた半紙。彼がスッと立ち上がる。
「その百夜通い。俺が上手く話をつけてやろう。さめざめと泣くそなたに提案した、とかな。よし、明日は部屋にこもり、泣き真似しておけ」
ティダ皇子は、どことなく機嫌良さそうに見える。
「そうかそうか。群れの為の手練手管か。俺にしては阿呆な見誤りをしていた。ソアレ、破壊令嬢と呼ばれないようにしてやった礼がまだだ。明日、神楽殿にて返せ。いや……もっと良い場所がいいな」
それは、どういう意味? 問いかける前に、ティダ皇子は部屋から出て行った。それも、何故か鼻歌交じりである。
翌日、日没頃にテュール皇子が春霞局に現れた。私はというと、ティダ皇子に言われたのもあるが、テュール皇子の気を引くために、傷ついたような振る舞いをしていた。
内心、テュール皇子に抱かれる日が遠ざかって喜んでいたりする。
「我が娘にも等しい葛姫を、酒に飲まれて無下にするとは何事か! 丞相ロロ殿や我が春霞上葛に顔向け出来んであろう!」
私を訪ねてきたテュール皇子を捕まえたナナリー様が、そう激怒したらしい。というより、私は隣の部屋で聞かされている。
ナナリー様としては、私の父であるロロの後ろ盾が無くなるのは避けたい。レオン宰相の第1皇妃よりも勢いがあるのは、父や母のお陰だからである。
出仕を怠る程飲むとは何たる恥晒し! などなど、可哀想なくらい怒られているテュール皇子。彼は、一言も反論しない。ただ、すみませんでしたとだけ口にしている。
部屋に共にいる側女のネージュとマールは、テュール皇子に同情的な意見を述べた。
「長年、慕っていた菜花姫様といよいよ婚姻。そこにティダ皇子からの大祝杯で、有頂天になったそうですよ」
「菜花姫様、テュール皇子は出仕を怠っていないそうです。皇太子に直々に指名されて、共に仕事へ行かれたとか」
ほら、ね、機嫌を直して下さいというネージュとマール。多分、二人は臍を曲げた私の説得係。この情報は、ナナリー様経由のものだろう。
自分の事なのに、私の胸中は、ティダ皇子の事で頭が一杯。今日も会いに来てくれるらしいので、その事で胸が踊ってしょうがない。ニヤケ顔を隠すために、ずっと扇で顔を隠すか、机に突っ伏さないとならない程だ。
「まあ、浮かれる気持ちも分かります。菜花姫が嫁げる歳になるのを、指折り数えていましたからね」
え? 指折り数えていた? そうなの? 私は思わず声に出しそうな程驚愕した。
「昨夜、テュール皇子は何度も宴会を抜け出そうとしていたそうですよ」
「大勢の殿にやっかまれて、邪魔され、潰されたのです」
嘘か真か、ネージュとマールの発言に私の心は震えない。私の心は、どうしようもなく、ティダ皇子の事でしか揺れないらしい。
「はい。……あの、母上、菜花姫とは?」
「そう呼んでください。皆にそう告げた姫は大変、可愛らしかったですよ。それを……自ら……。誠実に謝りなさい」
衣擦れの音がして、ネージュとマールが立ち上がったので、テュール皇子が私の前に現れると分かった。
ほら、ここまで貴女の為に怒った。だから、息子を許しなさい。これは、ナナリー様からの圧力でもある。私は襖に背を向けた。人が遠ざかる気配と、人が近寄ってくる気配。私は俯いた。
「二人で、話をしたい」
文なら兎も角、見抜き上手そうなテュール皇子を、私は騙せるのだろうか?
ティダ皇子に担架を切ったが、私はテュール皇子の心を鷲掴みに出来るのだろうか? それも、一生。死ぬまでとは、想像もつかない。おまけに逆は無理そうとは、酷い女。確かに毒花だ。
結局、私は圧力に屈して、流されるしかない。
扇で顔を隠したまま、無言で立ち上がり、テュール皇子の手を引く。私は部屋へテュール皇子を招き入れた。