皇子逃亡
春霞局の葛姫。両親と、ごく少数の者が知る本名はソアレ。古語で太陽の意味を有する、高貴な名を与えられた娘である。
名に込められた願い通り、妃がねに選出された。両親と彼等の背後にいる権力者の思惑通りに、本日初指南の夜を迎える。
出征したティダ皇子は、皇居を経った日から二十七日経つのに、未だ帰らない。私の所へは、戦況について、そもそもどの国と何処での戦なのかさえ、届いてこない。皇妃になれば、そういった政治の話を耳にする機会があるだろうか。
夕暮れ時に、父の屋敷へテュール皇子が現れる。年に数度しか訪れた事のない私の部屋。
間も無く御簾があげられ、皇子に披露する教養を他の殿にも途中まで見せる。琴、龍笛、舞までである。それに何の意味があるのかと問えば、殿の優越感だそう。父の考えは分からない。
私は操り人形よろしく、従うだけ。左様でございますか、そう首を縦に振るだけである。
見せびらかしを行った後、御簾が下げられ、テュール皇子を部屋に迎える。そこから私とテュール皇子は二人きり。但し、隣室で父の側近と母の側女が交代で見張りをする。
寝所を飾る屏風は、岩窟龍神話の梅園祝いを基にした絵柄のものにした。
梅は、私の初恋の象徴。それを眺めながら、一生に一度の花を散らすのだ。我ながら、皮肉めいた性格である。
身を清め、髪を梳かしに梳かし、木蓮の香料でほんのり香り付け。
端麗な顔なので、化粧は薄く。
テュール皇子より贈られた、唐紅の織物で仕立てた着物を纏い、臨戦態勢。
私の支度をした側女達が下がる。私は陰鬱な気分に笑顔を貼り付けて、背筋を伸ばした。龍笛に口を付ける。
歓迎の意味を込めて、春芽吹きの唄を選んだ。龍笛で前奏。その後、琴に変える。一通り弾き終わったら、部屋の前にある廊下で演奏した唄に合う舞を踊る。
この日の為に、美しく整えられた庭。白い小石を敷き詰めた、名のある庭師が造形したという庭園。そこに私を照らす篝火。屋敷の囲いの向こうから私を眺めると、まるで天女に見えるだろう。
天女と皇子の恋物語。後世に残る絵や文学にしやすい。そんな風な意味を込めて、今回の演出を考えたのは私の父らしい。
馬鹿馬鹿しい。金の無駄。その金を家臣の給与にしたり、食べ物を買って、祝いだと配れ。そう、言いたくて仕方なかった。
苛々しても、体に染み込むまで励んできた舞は完璧。微笑む美しい乙女は、見事な舞を披露。先月の、ナナリー様の誕生式典と同様である。
さて、ここでテュール皇子が現れる。廊下の向こうから、私に近寄ってくる。彼は私の手を引いて、部屋に入る。それで、側女が御簾を下げる手筈。
しかし、来ない。
廊下の向こうには誰も居ない。
何故?
屋敷の囲いの向こうで、大勢の殿が私を見ている。早くこの視線から逃げたい。テュール皇子が現れないと、何も始まらない。
えっ……私……テュール皇子の正妃として育てられたのに……袖にされた?
今頃、戦場にいるティダ皇子への恋心を封印してここに居るのに、何の為に自分を押し殺して生きてきたのか……。
「天津風 雲の通ひ路吹き閉ぢよ をとめの姿しばしとどめむ」
古い龍詩。扇で顔を隠す殿が近寄ってくる。
室内で行う筈の龍歌の読み合わせをここで?
それにしても、自ら創作した龍歌ではないばかりか、古い龍歌そのまま。何の捻りも加えられていない。おまけに恋の龍歌でさえない。天女の姿を見たいから、通り道を塞いでくれなんて言われても困る。
テュール皇子は、相当私に対する思い入れも感慨もないようである。
「龍山の峰より落つる天の川 恋ぞつもりて淵となりぬる」
この返歌。テュール皇子の龍歌とまるで対を成さない。長年恋い慕ってきましたよ。そういう歌を考えていたのに……と、やけっぱちで披露した。適当だ適当。何せ、テュール皇子にその気がない。
これは、幸先不安。正妃になった瞬間から放置なのだろう。好きでもない殿に抱かれる日々より気が楽? いや、わずか一六歳にて女として終了とは悲しい人生だ。皇妃は他の殿に抱かれることは許されない。
禁断の恋をして、死ぬのも一興という皇妃もいるらしい。私がそういう性格なら、ティダ皇子の胸に飛び込めていた。
テュール皇子の足取りは、ゆっくりとしていて、じれったい。彼が私の前まで来ると、ふわりと木蓮の香りが広がった。
テュール皇子にそうっと手を取られる。ティダ皇子の、肉厚で硬い、豆まである手とは違う。骨ばっているが、すらりと滑らかな手。少し震えている。
何故?
今夜、テュール皇子は好き勝手に過ごせる。皇族による初指南とは、そういうものだ。普通の初指南のように、あれこれ取り決めがある訳ではない。
一応、龍歌の読み合わせと、碁か将棋の手合わせに、それから雅楽か舞を披露するのは決まっている。ほぼ、もう終わった。
後は食事、囲碁か将棋。私が嫌なら会話しなくて良いし、抱かなくたって良い。私としても、テュール皇子が現れて朝まで共にいたという事実があれば、とりあえず役目を果たしたことになる。
テュール皇子が現れたということは、おざなりにするつもりでも、とりあえず正妃に迎えるつもりがあるという意味。ナナリー様や、下手したらレオン宰相に命じられているのだろう。父の派閥はかなり大きいし勢いがある。
屈辱的な扱いだが、仕方ない。蝶よ花よと育てられて、いくら磨きに磨いてきても、結局選ぶのは相手だ。
彼に手を引かれ、部屋に入る。側女が御簾下げ、部屋から出て行った。
テュール皇子は動かない。扇で顔を隠したまま。殿が顔を隠し、女の私が明け透けなく素顔を披露しているとは、とても滑稽な状況。
「テュール皇子様。名をソアレと申します。今夜は長年励んで参りました成果を見ていただきとうございます」
私が挨拶をすると、テュール皇子が扇を下ろした。
そこにあったのは、真っ赤な顔で困り笑いをしている姿。予想外の事態に、私は言葉を失った。テュール皇子が、私に赤面。こんなの、想像していなかった。
遠目だと気がつかなかったが、従兄弟だけあってティダ皇子とどことなく似ている。口周りが特にそっくり。
目は似てない。ナナリー様に似た形。瞳の色は薄紫がかった黒。全然、目が合わない。
「噂で……それに先日行われた母の祝いの席にて……色々と見聞きしている」
やっと目が合ったと思ったら、テュール皇子は直ぐに下を向いてしまった。
「こういう事は、朝から支度しているのだろう? 疲れているだろう。ゆっくりとしなさい。隣で少しばかり、食事をしてくれれば……退がって構わない」
退がって構わない⁈
動揺していたら、テュール皇子は扇を懐に入れた。空いた手が私の空いている手を取る。テュール皇子の両手が、私の手をギュッと握りしめた。
「少々期待していたが、顔を見て即座に分かった。その日に会った男と、義務感で契る必要は無い。そうかそうか、私の文や贈り物、噂などでは好いてくれなかったか」
衝撃的な発言。顔を上げて私を見据えたテュール皇子の寂しげな困り笑いに、私は放心した。テュール皇子は直ぐに俯いてしまった。
「明日、予定を空けてある。以前、文に氷洞を見てみたいと綴っていたであろう? 出征した皇太子が無事に帰国するように、龍王神社へ参拝に行くから付き合って欲しい。そうしたら、帰りに氷洞へ寄る」
氷洞? そんな事、書いたっけ? 毎日のように、とりとめのない文を認めてきたので記憶が曖昧。
私から手を離すと、テュール皇子は用意してある座椅子に腰を下ろした。私は慌てて隣へと移動して、七輪で温めている酒入り薬缶に手を伸ばした。
「酒を飲むと自制が効かなくなるので、今夜は飲まん」
手で静止される。
「あ、あの……私は……」
「私も華族の娘の立場くらい分かっている。文や龍歌に偽りは無いと感じていたが、盲目であったな。私の隣で落ち着かんだろうが我慢してくれ。んー、そうだな……こう言うべきか。座りなさい」
命じられたら断れない。はい、と返事をして腰を下ろす。
「いえ……単に緊張しているのでございます……」
「そうは見えん。あれこれ教えてくる世話焼きがいて、目が肥えてしまってな。一目で分かった。君を取り巻く環境を考えれば分かるというのに……浮かれて……阿呆だな……」
赤面。少々期待していた。浮かれていた。そして、書いた本人が忘れた文の内容を覚えている。つまり、テュール皇子は私の事を気にかけてくれていた。そういうこと……。
贈与物から彼の気持ちを感じたことは無かったが、春霞局の女官達はうっとりしていた。単に、私の琴線が頑なだっただけなのだろう。
長年お慕い申し上げておりました。そう、嘘をつくべきか……本音を話すべきなのか……。流石に、他の殿に恋い焦がれていますとは言えない。
「私も阿呆娘でございますテュール様。多くの娘と同じように、恋に憧れているのです。しかし、顔も分からない方に恋心など抱けません。あの……これからは、違います……」
えっ……とテュール皇子が私を見た。ここは、笑うべきだが止める。私の本心を見抜いて、優しい言葉をかけてくれた方。一生を捧げる相手。決められた運命に嘆くよりも、この方に恋をする努力が必要。一先ず、なるべく嘘をつかないようにしよう。
私は感じたままの表情を浮かべた。多分、ぎこちない困り笑い。何せ、眉尻が下がっているのが自分で分かる。
「付き合えではなく、付き合って欲しいとは、私を慮って下さるのですね。それに氷洞。おそらく、紅葉草子に感激して文に認めたのでしょう。自分が覚えていないことを、覚えて下さっているのは、大変嬉しいです」
テュール皇子の良いところ探し。自分の五感で接したら、ティダ皇子に恋をしたように、この方とも恋に落ちれるだろう。私にとって、それが最善。
世の中には、もっと大きな悩みを抱えている者ばかり。私は果報者であるのだから、初恋が叶わない事くらいで、死にたいと嘆き続けていてはいけない。
浅漬けを口に運ぼうとしていた、 テュール皇子が、手を止めた。箸からポロリと浅漬けが落下する。
落下した浅漬けを拾おうとしたら、手を握られた。テュール皇子が反対の手で浅漬けを掴んで、口にいれた。しばらくそのまま。
不意に私から手を離し、ポリポリと浅漬けを噛む。その後、彼は少しずつ、他の料理にも箸をつけた。
何か話さなければ。そう思って唇を動かした時、テュール皇子が私を見た。
私を見つめて、ジイッと見つめ続けて、何か言うのかと思ったら……何も言わなかった。
彼はまた私から顔を背けて、食事を続ける。
「冷めるので……食べなさい」
促され、私も箸を手にした。
「はい」
食事をしながら喋る事は、ごく親しい家族との時のみ。
最初に殿が食べ、その間は琴や琵琶、舞などで楽しませる。その後、殿の話を聞きながら食事をする。普通の初指南はそういう流れらしいが……二人で無言の食事。何これ。
時折、テュール皇子の視線を感じた。しかし、私が彼を見ると、俯いている。
あらかた食事が終わると、側女と側近が膳を下げた。代わりに用意された、清め水と歯磨き用具。
まずは手水の器に手拭いを入れて、濡らし、テュール皇子の手を拭く。そうしようとしたら、テュール皇子はバッと立ち上がった。
「明日の朝、迎えに来る……」
……はい?
「明日、迎え? テュール様?」
「手間をかけさせるが、帰るので手筈を頼む」
サッと立ち上がったテュール皇子は、もう隣室への襖を開けている。見張りの側近へ声を掛けている内容は……聞こえない。
困る。こんなの困る。
「膳の内容や、味付けに不満がございましたか? それとも私……」
「いいえ。嫌われたくないのです。出直します」
言うやいなや、テュール皇子は隣室へ移動して、廊下へ出てしまった。
出直す?
出直すとはどういうこと?
初指南の夜に、何もされずに去られるとは最低の烙印。
嫌われたく無い。もしそれが建前であったなら——……。明日、彼が会いに来なかったら——……。
足元がガラガラと崩れていく。そういう、錯覚がした。