寒月別離
春霞局の神楽殿にて、一人で舞う。間も無く月が頭上まで登りそうな時間帯。
軽やかで雅な振り付けの舞なのに、気分は憂鬱。寒さで手足がかじかむ。春の気配を感じさせる梅が咲いても、まだ二月。深夜であるし、かなり冷えている。
明日、ナナリー様の誕生式典が執り行われる。こっそり部屋を抜け出し、最後の練習。舞が一番不安。
華族の娘にとって、催事で宴席を彩ることは花形。幸福な未来を得る為の第一歩。親の威信をかけて、皇族の妃に相応しい娘だと選ばれるように、日夜修練に励んでいる。
私は明日の宴、全ての席に参加する。雅楽、舞、龍歌、茶道、花道、将棋、唄読み合わせ。ナナリー様への奉納という名の元に行われる数々の宴。華族の娘が競い合って手に入れる座であるが、私は特別扱い。
依怙贔屓による参加だと、嫌がらせ、陰口を叩かれる。その通りだが、私が望んだのではない。楽器が壊されたり、酷い中傷話。
私がテュール皇子の正妃候補として、ナナリー様が直々に育てたのは、周知の事実。その娘が、ついに公の場に現れる。宴の席、全てに現れ、おまけに稀有な美貌の持ち主である私を、妃がねに選ばない官吏は居ない。
宴席で大失敗をしなければ、の話だ。ここまで道を敷かれて、無様な姿を見せたらどうしよう。
上手く役目を果たせば、明後日、私は官吏達に妃がねに選出される。
その次は初指南相手の指名、日取りの取り決め。
華族の娘に行われる初指南。礼儀作法を一通り確認され、最後に床への入り方を教わるという儀式。
父親の上官に教養の確認をされ、嫁ぐ為の手ほどきも受ける。そういう通過儀礼。愛し合った殿と甘い初夜が許されるのは、一般市民の世界の話。
名のある殿にお墨付きを貰った娘は、引く手数多。輝かしい未来が約束される。
この初指南、妃がねになると皇族を指名する事が可能。妃がねという名称は、そこからきている。
こんなにも素晴らしい娘です。どうか見初めて下さい。気に入って下さい。妃にして下さい。そういう意味を込めて、皇族に初指南という名の、お手付きにしてもらうのである。
前々から、教わっている風習だが、嫌でたまらない。女を磨いて、好きでもない男に処女を捧げる。こんな習わし、廃れてしまえば良いのに。
そういう乙女の叫び声がついに届いて、近年では、初指南の夜に最後まで致さない事の方が多いという。教養の確認まで。
しかし、私にはそのような夜は訪れない。私はテュール皇子と褥を共にし、そのまま三晩続けて抱かれ、正妃に就任する。それが私の人生における既定路線。
格好悪い不細工皇子と契る訳でもないのに、胸が張り裂けそう。テュール皇子の前で、嫌ではないと、演技を出来るだろうか?
明日など来なければ良い。いっそこのまま、神楽殿から飛び降りて、逃げ出したい。皇居を囲う砦は高く、その向こうの堀も深い。よって、庭に出ても逃亡不可能。
私は雑念を捨てようと、踊り続けた。
初指南をティダ皇子にしてもらった。最近、そういう話を二度耳にした。優しくて天にも登るようだった。そんな自慢話。
そのうち、彼に初指南された妃がねの中から、ティダ皇子の妃が生まれる。三晩連続で褥を共にした妃がねが妃になる。そんな女性が現れたら最悪。顔を見たら殴るかもしれない。私もこっそり楽器を壊すかも。
「このように太陽の精が舞うと、夜が去ってしまうのではないか?」
急にした声に、心臓が口から飛び出るかと思った。ストンと神楽殿の屋根から降りてきた暗い影が二つ。私は虚を突かれて固まった。
ティダ皇子。それに彼が飼う巨大な黒い狼。
「人……人を呼びますよティダ皇子! 夜更けに乙女の……」
トンッと跳ねたティダ皇子が、私の目の前に着地した。腰を抱かれ、左手を握られる。
「かつては、このように逢瀬を重ねた事もあっただろう? ソアレ、一晩くらい遊んでくれないか?」
にこやかに笑うと、ティダ皇子が私の頬に顔を近づけた。かなり酒臭い。
一晩くらい。
遊び。
私は思わず、ティダ皇子の足を強く踏んづけた。
「逢瀬ではなく将棋の相手です! 指一本触れないで下さいませ! 私はテュール様の妃になる娘です」
ティダ皇子を力一杯突き飛ばす。彼は私の手を離し、後退した。
「そのような激怒の顔をして、戦争で死ぬかもしれん男を無下にするとは、薄情な娘だな」
困ったように笑うと、ティダ皇子は肩を竦めた。
怒って、罵って、不敬罪だと捕縛してくれれば良いのに。そうしたら、もう死ぬから伝えます。貴方が大好きです、なんて告白出来る。
絶対にあり得ない妄想。虚しくて、悲しいだけだ。一族の顔に泥を塗る事なんて出来ない。ティダ皇子も、足を踏まれたくらいでは怒らない。正当な理由で突き飛ばしただけで、激怒したりしない。
田植えの視察時に、子供が遊びで投げ合っていた泥団子が当たっても、「元気で何より」と大笑いして子の頭を撫でるような人だ。
井戸水を運んでいた官吏が転んで、全身水浸しにされたのに、水も滴る良い男だという意味か? と笑って許す殿だ。
怯えた表情で土下座する官吏と、豪快に笑って去るティダ皇子の絵。そんなものが、女官の間で回し見されている。
「戦争で死? どういう意味でございますか?」
「出征だ。明日の朝に出立する。催事の日に戦場へ向かえとは、酷い話だ。まあ、叔父上は俺の存在が邪魔だからな。父上も、弱い後継ならば要らん。名乗り上げて来いだとよ」
ティダ皇子はその場に座り込んでしまった。隣に音もなく、黒狼が移動してきた。ティダ皇子が黒狼にもたれかかる。実に絵になる姿。
妃の居ない、現皇帝陛下の一人息子。6年前にティダ皇子を何処からか連れてきて、彼こそ次期皇帝にして皇太子だと宣言した皇帝陛下。次期皇帝予定だった、皇帝の弟であるレオン宰相は影で激怒しているそう。
私はそのレオン宰相の次男テュール皇子に嫁ぐ娘として育てられた。父はレオン宰相の秘書官吏。母はレオン宰相の第2妃の上葛。だから、ティダ皇子とだけは結ばれることが許されない。
他の誰か、例えばレオン宰相だとか、彼の長男シエルバ皇子、彼等の周りにいる偉い官吏に手を付けられても問題ない。ティダ皇子だけは禁忌。自分だけではなく、一族郎党、滅びへ向かう。
皇帝陛下の宣言とは真逆に、皇帝にはならない。そのうち帰るべき場所へ帰ると飄々と言ってのけるティダ皇子。そんな彼は、私や一族の後ろ盾にはなり得ない。
「相変わらず、テュール、テュール。あの軟弱臆病も果報者だな。さて、死なないとは思うが少々侘しい夜だ。かつては親しくしていたし、明日披露する舞を見せてはくれないか?」
寂しげな、懇願の眼差しに、首を縦に振りたかった。
「疲労で明日、最善を尽くせないと困ります。それに、色恋遊び激しい方と共にいる所を見られると困ります。お休みなさいませ」
私はティダ皇子に背を向けて、足を踏み出した。
「御武運を……健やかな姿で戻られることを祈ります……」
震え声が出た。涙が溢れて、頬を伝う。
死なないと本人が言う通り、彼は鬼神の如く強いというから死なないだろう。人間離れした怪力と身のこなしらしいので、今夜が死に別れではない筈。
しかし、私は彼の戦う姿なんて見た事がない。戦に行くということは、死と隣り合わせ。
恋い慕う相手と、こんなやり取りで、今生の別れになったら最悪。足取りが重い。しかし、彼を見たら泣きながら抱きつく自信がある。そうしたら、私の背負う何もかもが粉々に砕け散る。
「ソアレ。次期皇帝はテュールである。それで、まあ、俺は時折帰る。待ち人が居ればだ……」
今、何て言った?
私は思わず振り返りそうになった。ティダ皇子の発言の意図が読み取れない。
「俺は酒と女が好きだ。本能には抗えない。しかし、まあ……その何だ? 最も良い座を与えるぞ。唯一無二の華は無理でも、常に中央に咲く大華だ」
それは、どういう意味? 私は振り返った。ティダ皇子は立って、私に背を向けている。
「危ない。飲み過ぎだ……。俺は友の女には手を出さん。眺めたり、話すくらいだけにせねばならん。それに、太陽は皇帝の上で輝きたいと言うからな」
私はその発言を聞いて、ティダ皇子に向かって駆け出しそうになった。彼に抱かれて、破滅したい。
しかし、足に力を入れて不動を貫く。一時の快楽の為に、幾多の犠牲を払おうというのだ。そんなこと、許されない。
「かつては親しくしていたのだし……可愛い笑顔と美しい舞を見せてくれると思ったのだが……。どうしてこうも嫌われたのかね」
スタスタと歩き出すと、ティダ皇子は神楽殿から飛び降りた。
嫌われた? 嫌ってなどいない。しかし、まあ、そういう態度を貫いている自覚はある。私は彼に誤解を与えて、初恋を失った?
今なら、まだ間に合う?
けれども、友の女には手を出さない。先程、そう言っていた。
「帰るつもりだが……一応あばよ、ソアレ。達者でな」
私の方へ体の向きを変えたティダ皇子は、爽やかな笑顔で大きく手を振った。
待って!
私の声は掠れて、殆ど出てこなかった。
待って、舞を披露するので見ていって欲しい。そう告げたいのに、声が上手く出てこない。
「あの軟弱臆病は、実に優しい男だ。泣いて、滝を見てみたいなどと言えば、手配してくれる。不自由な暮らしだろうが、テュールの傘の下でなるだけ自由に生きろ!」
「待っ……」
次の瞬間、瞬きをしたら、ティダ皇子と黒狼の姿は消えていた。
滝を見てみたいと泣いたのは、十歳の私だ。絵ではなく、本物の滝を見てみたい。紅葉草子に出てくる、華厳の大滝を見せてくれたのは、ティダ皇子だ。
黒狼と共に突然現れた、謎の男の子。皇太子だと知ったのは、しばらくしてからだった。
私はその場に崩れ落ちた。
嗚咽が漏れる。
震え声で、大好きです、死なないで帰ってきて、そう呟いても当然の如く返事は無かった。