流星搜索
大陸中央、ベルセルグ皇国皇居。私の母は皇帝陛下の弟であるレオン宰相の第2妃側女。
母の役職は、上葛という、妃世話係の最高責任者。
皇居の春霞局。私は母と共に、大半の時間をそこで過ごして成長した。
レオン宰相の第2妃ナナリー様に大変気に入られている母の娘。その私にはナナリー様からあらゆる教養を与えられている。
ナナリー様の一人息子、テュール皇子の正妃候補。それが私。名はソアレ。この国で、女性の本名は隠すもの。私は母の役職名に因んで葛姫と呼ばれている。
葛とは、折角愛くるしい容姿に生まれたのに、実に可愛げのない別称。気に入らないが、仕方ない。私に命名権は無い。
葛姫は、ナナリー様御本人や彼女が選りすぐった女官から、手習い、文学、料理、茶道、華道、雅楽、和歌、古典、香道、舞踏、碁、将棋とあらゆる教養を教え込まれている。
それで、間も無く嫁入り可能な年齢、16歳。そろそろテュール皇子へ嫁ぐことになる。
華族の娘の花形、妃がね。式典の際に舞や雅楽を披露して、選ばれた娘をそう呼ぶ。幼少から教養を叩き込まれた、美しい娘にしかなれない。妃がねに選ばれても、皇帝陛下や皇子の指名を得られないと、皇妃にはなれない。
まあ、妃がねに選出されれば、名のある殿から縁談話は引く手数多。
しかし、私は違う。第2妃や両親の政治的思惑の元、最初から正妃になる事がほぼ約束された娘。余程の失態をしない限り、父や母が権力を失わない限り、この地位は揺るがない。むしろ、私の入内により、両親の地位は益々確固たるものになり、ナナリー様も強い後ろ盾を得る。
未来の夫であるテュール皇子を、私は催事の際に何度か見かけたことがある。遠くて分かりにくいが、整った容姿の穏やかそうな皇子だった。評判も同様。未だ、手を付けた娘のいない方だと聞いている。
私は非常に幸運な娘であろう。穏やかな格好良い皇子の正妃として、何不自由なく、贅沢をして生きていける予定。但し、テュール様の寵愛を受けられるかは、自分次第。
美しく生まれ、教養も叩き込まれてきた。自信はある。
春霞局の若い女官達は、皆して私を羨む。
確かに、私はこの世に生を受けてから、不自由なく、豊かに育った。更には、こうして輝かしい未来を約束されている。
しかし、籠の中で可愛らしく鳴くしかない鳥。そんなことを思うこともある。自由に焦がれてならない時がある。
なぜなら——………他の殿に、うっかり恋をしてしまったから………。
∞ ∞ ∞
神殿御所にて舞を練習した帰り。春霞局手前の東狼御所にて、私は久し振りに彼と会った。
私の中で、ぱちん、ぱちぱちと燻っていた火種が炎になる。一目見ただけで、胸が騒めいてしまう。
男性禁制の廊下なのに、向こう側から歩いてくる殿。
現皇帝の唯一の子。皇太子ティダ・ベルセルグ。突如現れた想い人。その威風凛々とした歩き姿に、息が止まるかと思った。
「春霞の中に隠されている太陽ではないか。その姿、舞の練習帰りでしょうか?」
穏やかで優しい微笑みなのに、ティダ皇子の目は笑っていない。さあ、この娘をどう揶揄い、弄んでやろうか、そういう視線。黒真珠のような瞳に吸い込まれそう。この目に見つめられて、好き放題されてみたい。
私は足を止め、廊下の端に寄り、頭を下げた。3人いる側女も私の隣に並び、同じような体勢になった。
手に持つ扇でしっかりと顔を隠す。
「こちらの道は、皇族男子といえど、通られてはならぬ場所でございます」
「ああ、知っている。しかし、こうでもせねば、まるで天女だという噂の、そなたの姿を拝めまい」
噂も何も、私の姿を知っているではないか。他人の振りをするなと、怒鳴りたい。
ティダ皇子が私の目の前に立ったのが分かる。視線の先に、漆黒に一文字雷のような紋様を施してある鉄革沓。この特殊な沓を履くのは彼しかいない。
顔を見なくても、この沓を見れば誰だか分かってしまう。御簾の向こうに、時折見かけるこの沓には、胸が甘くなったり苦しくなったりさせられている。
ティダ皇子が、私の扇を指でつまみ、ゆらゆらと揺らした。
「私の姿など、間もなく見られるではないですか」
ゆらゆら、ゆらゆらと揺れる緋色の扇。まるで、真っ赤に染まって、弾け飛んだ紅葉の葉のよう。奥歯を強く噛み、ティダ皇子が去ることを願う。
「そうか、間も無く初指南に婚姻の儀式か。そんな歳なのだな……」
ほうっと、小さな溜息のような声。この低い声色はどうも耳を擽る。ああ、本当に耳元で優しい言葉を囁いてもらいたい。そういう熱情が湧いてくる。
そんな歳もなにも、私と彼は同い年。なのに、彼はどうしてこうも大人の色気を纏い、成熟した壮年のように喋る。
私の扇から、ティダ皇子の手が離れた。
「義理の妹と遊ぶのも一興かもしれん。楽しみは取っておくか。さて、隣の白雪のような娘、名は何と?」
遊び。その言葉に私の心は深く傷つく。抉られ、膿み、眠れない夜を過ごすことになる。
「ネ、ネージュでございます……」
横目で見ると、ティダ皇子が私の側女ネージュの扇を取り上げていた。ティダ皇子はネージュの白くて滑らかな頬に手をあて、彼女の扇で顎を上げている。
「春霞局の葛姫付きの女官なら、琴を上手く弾けるな?」
「は、はい……」
獲物を射るような眼光で、ネージュだけを見つめるティダ皇子。私の中に、暴風が吹き荒れる。
こういう時に、一族、両親、何よりナナリー様の期待を背負っているというのは呪いだ。そうでなければ、ティダ皇子の澄ました横顔をひっぱたいてやる。それで、死刑台送りになるのだ。
唯一無二の華になれぬので、どうぞ首を刎ねて下さいませ。この世の地獄にて、恋の業火に燃えるよりも、安寧の死の方が幸福だというものでございます。
そう言ったら、このティダ皇子はどうするのだろうか? 私を唯一の妃に迎えてくれるだろうか? 多分、そうしてくれる。きっと、ティダ皇子は私を見捨てない。
また、このような不毛な思考に支配される。無駄な想像。現実に出来ない計略。現実逃避の妄想。
ティダ皇子は、兵士という兵士を鍛え、特製の沓で蹴る男だが、決して女性には手を挙げない。命を盾にすれば、彼の妃の座を手に入れられるかもしれない。
背負う期待、義務を全部放棄してしまえれば、の話だ。私にそんな勇気はない。
そうして手に入れても、ティダ皇子は私だけを見たりしない。彼は幾人もの女を渡り歩く。嫉妬で狂うだろう。そんなの、最低最悪の人生だ。それでも、嫌いになれない。大好きだと思ってしまう愚かな娘。
何故、こんなに激しい恋に落ちてしまったのだろう。
「テュールと将棋を指す。彩ってくれる女官を探しに行くところだった。この可愛い雪の姫君にしよう。葛姫、未来の夫に酒の手配をせよ」
「か、可愛い? ゆ、雪の姫君?」
ティダ皇子に熱視線で微笑みかけられたネージュが、顔を真っ赤にした。平凡な顔立ちの娘だが、今のはにかみ笑いは大変可愛らしい。ティダ皇子の親指が、ネージュの唇をなぞっている。
ネージュの反応に対して、とても満足そうなティダ皇子の腹を、殴りたい。男子禁制の廊下を歩き、このように女官を口説く、何たる破廉恥皇子。
しかし、皇居で奉公する若い華族の娘の多くは、このような好機を待っている。そして、女遊びは殿の中では雅で美しいもの。色恋は上流貴族の教養とさえ呼ばれる。
なんて国だ。
腹が立つ。苛々する!
それに……悔しい。
悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。悔しい。
私だって、義務である未来が無ければ、扇を投げ捨ててティダ皇子の胸に飛び込みたい。
「西の言葉で、ネージュは雪の意味だ。しかし、このように桜色に染まる雪など見たことがない。春霞局の桜雪。皆にそう紹介しよう」
さあ、とティダ皇子がネージュの背中に手を回した。扇で顔を隠してあげている。
二人が歩き出して、隣から居なくなった。扇で顔を隠す私からは、もう二人の姿は見えない。
手を付けられた女官の噂話によれば、ネージュのように呼ばれた女官は彼の膝の上で酒のお酌をする。それから、命じられれば琴や舞などを披露。気に入られれば、ティダ皇子は彼女の床に入る。
紫陽花局の女官が、ティダ皇子が用意してくれた垂れ衣冠が大半可愛らしかったとか、あまりにも甘美で素敵な夜だったとか、言いふらしている。おまけに、書にまでしているとか。
思い出したら、ふつふつと、茶釜の水が沸き立つように、私の内側から怒りが噴出してきた。
「兄もおらぬのに、義理の妹などとは何のことでしょうか。それに私は太陽の名を持つ娘。たった一人の殿の為に生まれてきたのです」
つい扇を閉じて、ティダ皇子に突きつけていた。ここは男子禁制の場所。隠す道理は無い、そう自分に言い聞かせる。
ティダ皇子とテュール皇子は兄弟のように親しいが、従兄弟である。私がテュール皇子と婚姻しても、ティダ皇子の義妹にはならない。
次期皇帝の義妹、皇太子の義妹。その方が響きが良いのでこんなことは言ってならない。しかし、つい口から飛び出していた。
さあ、平凡で、そこらに沢山いるような容姿のネージュよりも、美貌の神に愛される私を見ろ。最後に顔を見せた時よりも、私は更に美しい大人の女性へと成長した。
私を盗み見る殿は、一様に私に恋をする。テュール皇子の妃候補でなければ、そういう暗喩を含めた恋文も大量に送られている。
しかし、ティダ皇子はニコニコと笑っただけだった。
「先程チラリと見た時もそうだが、やはりまだあどけないな。夢見る乙女なのは愛らしいが、皇居後宮において唯一無二の華など咲かんぞ」
子供の戯言は微笑ましい。そういうような態度に笑顔。
「いいえ、咲きます。名は古くは太陽。今はソアレという名の華で、大輪でございます」
穏やかで優しいという噂のテュール皇子。時折贈られてくる品や恋文から感じる義務感。心のこもってなさ。
誰もが羨む娘。その実態は、憐れな娘。初恋に身を焦がしながらも、勇気を出せずに、指を咥えて眺めている。嫁ぎ先の殿からも、関心を持たれていない。
何て惨めなのだろう。自分に足りないものが何たるか、私は分かっている。
愛嬌。
それから、強い独占欲を捨てられないこと。テュール皇子が私の他に妃を持つことは許せるのに、ティダ皇子だと許しがたい。彼を他の女性に指一本触れさせたくない。そんな手で触られたくない。
そなただけだと、甘やかされたくてならない。ティダ皇子の言う通り、私は現実が見えていない恋に恋する子供。
貴方の華になりたい。さめざめと泣いて、縋り付きたい。しがらみという葛で身動き出来ない私を、攫って欲しい。
誰にも口に出来ない、夢物語。
私はティダ皇子に会釈をして、背を向けた。
「雪有り詩無ければ人を俗了すと申します。ネージュ、名誉ある指名ですので励みなさい」
ネージュは龍詩や龍歌が苦手。雪が有っても詩がないようでは、せっかくの風景も平凡になる。
何で、こんな嫌味を口にしてしまったのだろう……。私は自分の体を支配する、どす黒い感情に慄き、早歩きでその場を立ち去ろうとした。
「ならばソアレ、側女の為に、未来の夫へ文を届けよ」
私は「はい」と短く告げて、春霞局へと逃げた。自分の部屋に閉じこもる。
恋文。
テュール皇子にそんなもの書けない。何も感じないからだ。テュール皇子と交わす文は、古い龍歌を使った、何とも無機質なやり取り。彼を想って恋歌を考えようとしても、そもそも彼の事など殆ど知らない。向こうも同じだろう。
時折、春霞局に忍び込んで、私と将棋を指していたティダ皇子とは違う。息が詰まる生活だと、つい零したら、ティダ皇子は夜中に皇居から連れ出してくれた。あの夜の、天の川が目に焼き付いて離れない。
12歳の春に、平民の格好で街を散策した事など、どうやったって忘れようがない。道すがら手折ってくれた梅の枝を、接木して今でも眺めていることを、ティダ皇子は知らない。
私は密かに期待していた。テュール皇子を押し退けて、ティダ皇子が私を妃に迎えたいと宣言する事を。しかし、12歳の秋を境にティダ皇子は私の前に現れなくなった。
ある日、不意に途絶えた足取り。待てども待てども、現れない。それは、夫に飽きられた妻と同じではないだろうか。創作物や、女官達の憂いた話に触れるたびに、私はそのように感じた。
手を付けられることもなく、去られた。遊び相手としてならと、揶揄われる。酷い男。そんな人にどうしようもなく恋心を募らせる自分。
【かくばかり恋ひつつあらずは高山の
磐根し枕きて死なましものを】
こんなに貴方を恋い慕っている苦しさに耐えているより、高い山の岩のもとで死んだほうが良い。
今日の気持ちを込めたら、そういう龍歌が出来た。
恋文に付けた香りは木蓮。テュール様から贈られた香料。
それから、絵を添えた。険しい岩山の下で、身を縮めている女性と我が国の象徴である岩窟龍。
乙女よ、死は忌むべきものである。さあ、立ち上がりなさい。そうして、岩窟龍に見つけられた娘は救出された。神話の一節「乙女と龍王」の場面を自分なりに絵にしたもの。
香料や絵は、溢れ出る恋の枯葉を隠す森。
この夜、私はティダ皇子に抱かれるネージュの姿を想像して、夜空を見ながら琴を弾いた。涙が頬を伝って、止まらない。
曲は流星の祈り唄。
流れ星に願いを込めて祈れば叶う。そういう曲。
空が白んでも、私の前で星は流れなかった。