業火大華 1
馬小屋に行き、馬の確保。皇居侵入は難しいが、逆は容易。皇国兵の格好なら特にそう。自分にそう言い聞かせても、手汗が酷い。
乗馬はまだそんなに得意ではない。滑りそうな手綱を強く握りしめ、私は皇居関所へと向かった。案の定、簡単に抜けられた。名前と所属を言えば良いだけとは、こちらが心配になる。
関所より続く道は二種類。中央は万階段。その左右に馬や馬車、牛車も通れる坂道。私は左手側の坂道へと進み、しばらくゆっくりと下った。
皇居が遠ざかると、馬を止める。
「レージング! レージング聞こえるか! 化物聴覚ならば聞こえるのだろう! 主を呼べ! これより主の背に乗る何もかもが滅びる! ソアレが死ぬ!」
黒狼は西狼御所に居たのを確認している。
これで、あの黒狼が反応するかは不明。ティダ皇子を呼びに行くとは思えない。人の言葉を理解しているなら、西狼御所の喧騒の時点で黒狼はティダ皇子を呼びに行っている。
「テュールとソアレが死ぬぞ!」
大狼とテュール皇子、大事な弟分の妻である私。ティダ皇子の優劣はどちらだ?
私は馬を蹴り、市街地へと向かった。皇居坂道が終わるまでは順調。しかし、坂道を下り切ると、馬に放り投げられそうになった。滑り落ちるように地面に降り、馬の足から逃げる。
馬は逃げてしまった。あとは、走るしかない。しかし、鍛えてはきたが、所詮は温室育ちの令嬢。全速力も長くは続かない。
私は下準備してある空き家へと向かった。父の所有物の一つ。早歩きで街を進む。人が少ない。あちこちから、西へ、そういう話が聞こえてくる。
間に合え、間に合え、間に合え、そう念じながら、私は足を進める。
空き家で着替え。皇族を示す黒装束。背は厚底靴で誤魔化す。装束の下に、布で作ったものを仕込んで体格も大きく見せる。黒い外套はティダ皇子の私物。先月、テュール皇子と西狼御所を訪れ、寒いと嘘を付いて、口八丁で奪い取った。
国紋である、三頭ハイエナの銀刺繍にそっと口付けをして、岩窟龍へ祈る。これを羽織るのは、今ではない。
どうか、彼を慕う者を、この国の大勢の者に加護を……。
「酷い匂い。鼻が曲がりそう」
ティダ皇子は耳だけではなく鼻も良い。もしも、彼が戻ってきたら、寸前まで正体を見抜かれる訳にはいかない。
割れた窓で、自分の姿を確認。革命軍とやらと接触している、ティダ皇子の偽物よりは本物に見えるに違いない。
あとは……これから自分がしようとしている事に、身の毛がよだつ。喉を潰す。本当にそんな恐ろしい所業、出来るのだろうか? しかし、私の声のままだと、女声だと何も出来ない。練習しても、大きな男声は出せなかった。ボソボソと喋るならどうにかなるが、皇居内を男の振りをして忍び歩いていたのと、今からは違う。
この国で一番度数の高い酒を喉の奥に含み、顔を外套に押し当てて絶叫。これで駄目なら、物理的手段である。
肌に触れると激痛がする草も、同じく口に放り投げた。焼けるように熱い。
覚悟を決めろ、もう戻れない。自分に言い聞かせる。大粒の涙がいくつも落下していった。
努力の甲斐があり、見事に嗄れ声。やり過ぎず、不足過ぎない。ティダ皇子の声とはそんなに似てないが、女の声だとは分からない。どうにかするしかない。
狼を模した仮面を懐に忍ばせ、漆黒の法衣を羽織る。
後は、革命軍を探し出して、様子を探る。
西の外れにある、奴隷が住まうという農村地区だと調べはついている。
西へ早歩き。太陽が燃えあがる紅蓮となり、西へと向かっている。私と同じだ。
徐々に街外れになり、人が増えていく。興奮強そうな市民ばかり。
∞ ∞ ∞
さあ、立ち上がれ!
戦え!戦え!自由を掴むために戦え!
龍が現れ、岩を砕き、ひらけた大地へ雨がそそがれ、命を育む!
自由を今こそ、この手に掴め!
龍が現れ、宝に満ちた穂を揺らし、命を繋ぐ!
ついに我らに龍の王が現れた!
我らこそが龍の民!
∞ ∞ ∞
群衆の中で、私も歌う。こんなにも、この国は悲鳴を上げていたのか……。
皇居でのほほんと暮らしていて、現実感が薄かったが、全身が震える。自分達とは違う、痩せた体に、血走った目。子供の異常な手足の細さに涙が出そうになる。
農作物の不作と聞いて、食事量が減った。貴族の私と、国民では大きな隔たりがある。
こんな世界、知らないでいたかった。
「日没と共に皇居へ向かう!」
革命軍の主要人物を探さないとならない。その中に、ティダ皇子を騙る者がいる。
私は人混みをかき分け、方々歩いた。
日没、早くしないと日没となってしまう。
「シッダルタ、ティダ皇子が見当たらないのだが知らないか? 予想以上に人が増えていて、指示を仰ぎたい」
「ティダが居ない? さっきまで、酒を飲んでいただろう? 居ないとは……」
不意に、飛び込んできた台詞に足を止める。市街地でティダ皇子を呼び捨てにする者がいるなんて驚愕。土埃で汚れる黒髪を三つ編みにして、横流しにしている青年と、体格の良い壮年。
「シッダルタ、お前なら検討がつくだろう?」
「いや、まあ、多分……。何を考えているか、相変わらず分からない。今日は寡黙だし……」
ブツブツ言いながら、小走りで川の方へ向かった青年をこっそり追いかける。シッダルタ……シッダルタ……何処かで聞いた名前だ。何処でだろう?
河原に黒装束と黒い外套が翻る。私は草陰に身を隠した。
「ティダ! 何をしているんだ?」
ティダと呼ばれた人物が、シッダルタの掛け声にゆっくりと振り返った。私が持ってきた仮面と良く似た狼を模した仮面をしている。岩窟龍王の偶像を模したこの仮面。考える事は皆同じ。皇族しか使えない代物があれば、顔を隠しても騙される。
「少し、考え事だ。日没に出るぞ」
一瞬、ティダ皇子かと思った。そのくらい、似ている声だ。しかし、喋り方、声の出し方が全然違う。
「ああ。人も続々と集まっている。それで、困惑していて……」
「なら、すぐ戻る。状況やこれからの手筈を脳内整理していてな」
「そうか……。向こうで待っている。皇帝たる男が一部の者に邪魔されて皇帝になれないなどおかしい。国中がティダ、君の味方だ」
気合い十分というシッダルタに、ティダ皇子を騙る者は小さく頷いて、体の向きを戻した。
シッダルタの姿が遠ざかる。私は懐からナイフを取り出して、草陰を移動した。体格はティダ皇子よりやや小柄。つまり、今の私となら入れ替わっても気づかれ難いだろう。
「全く、こんな役回り……とっとと逃げないと……」
ティダ皇子として、国民を煽りに煽って、皇族とぶつからせる。この偽物が消えると、ティダ皇子が何と反論しようと、真相は闇の中。
やはり。こういう計画。調べ上げた計画通りである。
私はティダ皇子の偽物に突撃した。全身が震え、恐怖で叫び出しそうになる。しかし、声を出したら、シッダルタという青年に気がつかれる。
狙うは心臓を一突き。外したら、そこで終わり。護身術を学びたいとゴネて、この一年、かなり身のこなしが良くなった。隙も突いたので、私が手に握るナイフはティダ皇子の偽物の体に深く沈んだ。
これが、人を殺す感触……。
「なっ、何や……」
「さあな。地獄で会おう」
掴み掛かられる前に、突き飛ばす。次は蹴り。最後は体当たり。川に偽ティダ皇子が落ちた。泥色の川に、暗褐色が広がるも、激流へと流されていく。
これで、もう後戻りは出来ない。
私はサッと身を潜めて、周囲を窺った。シッダルタは今の殺人に気がついていないよう。
ティダ皇子として、革命軍の先頭に立つ。途中で投降して、皇国兵に偽物だと披露する。捕縛され拷問されるだろう。
問題は顔。それからこの体。顔は今から焼くが、女だという事実はどうするべきなのか、捕縛直後にサッサと誰の陰謀か吐けば体は見られなくて済むかもしれないと考えているが、拷問にまで進むとどうだろう?
顔を焼く。拷問。目眩と吐き気に襲われる。
皇居中にティダ皇子を蹴落とす計画を匂わせる文をばら撒いた。
人を殺した。
私は、この地獄の花道を進むしかない。
ここまでするとは、私は狂っている。しかし、瞼の裏には極楽のような梅園。どうしようもなく、愛しているのだ。
彼の愛する者まで守る事が、真実の愛だろう。私はそう思う。
——聞きました? ラン妃、ティダ皇子と良い仲だとか
——様子見してても何も気がつかない阿呆。見かねて少し整備した。後宮管理くらいしろ。妻の周辺にも気を配れ。
私の周りからは、いつも不穏が消えていく。
誰のお陰なのか、後から分かる。
——新妻は、唯一無二の大華を望んでいるらしいぞ。テュール、お前が裏切ったら、弟分として喉元を噛み切ってやろう。
テュール皇子にそれとなく回ってくる縁談話を潰すのも、ティダ皇子である。
そういう事を、私はこの二年の間、皇居内をうろついて知ってしまった。
蘇る、今年の春先の朧月夜。眠れなくて、こっそり陽月御所を抜け出し、龍王御所、皇居真っ正面にて酒を飲んでいるティダ皇子の姿と台詞。
白狼にもたれかかり、親愛こもった瞳で白狼を撫でるティダ皇子を見つけてしまった。それで、聞いてしまった。
——なあヴィトニル。あの女は訳が分からん。一度は友と恋仲だと思い、諦めた。なのに大嘘つき女。またその話? 黙れ、お前にしか話せんのだから聞け
隠れたが、匂いや音で気がつかれると思った。白狼と一瞬目が合ったので、慄いた。しかし、ティダ皇子はかなり飲んでいるせいか気がつかなかった。彼の傍に、酒瓶が何本も転がっていた。
——追いかけても、拐しても、他の女を使って気を引こうとも、何もかも与えられる男なのにこちらを見ない。指一本触れることすら拒絶。扇でも駄目だとよ
よしよし、というように白狼の尾がティダ皇子の頭を撫でた。
——それどころか他の男に嫁ぐ。おまけにその夫にも気がない。後宮に、いやこの世の女達に喧嘩を売る。全く、最悪だな。あれは本当に毒花だ。囲うのに手間暇ばかりかかる。何を考えているんだか……女帝か。あの軟弱臆病が皇帝になるから、その上に君臨するのか
それは違う。何故、そんな発想に至る。私は思わず心の中で突っ込んでいた。
——ふははははは! あれは年老いて容姿醜くなる程に、内側から光り輝くぞヴィトニル。あの気性の激しさは炎のようだ。里に帰っても見に来ないとならないな
ベシベシ、ベシベシと白狼の尾が強くティダ皇子の頭を殴った。
——固執するなと言われても本能だ。まあ、友の女に手は出せん。なのに、他の女に食指も動かなくなったし……。はあ……この俺の子を残せんのは、世界の損失なのに……化物女め
益々、白狼がティダ皇子の頭を殴った。私こそ彼を殴りたい。最悪、毒花、おまけに化物。何て言い草だ
——煩い。黙って聞け。親友の愚痴くらい聞け。性欲という本能を律しろ、誓え。誓いを破ったら死なないとならないのに、恐ろしい無理難題だろう? 本能に抗える生物なんざ存在しない。
駄目だ。この人は訳が分からない。思考回路がサッパリ分からない。誓いを破ったら死なないとならない?
バシバシ、バシバシ、バシバシとティダ皇子の頭を殴る白狼。少し、応援してしまった。
「痒いから止めろ。何だ、久々に決闘するか?」
私は、ぼんやりと白狼とティダ皇子の決闘とやらを眺めた。ティダ皇子は、人ではないのかもしれない。化物である大狼とじゃれ合うように、戦う姿にそう感じた。
私は、あの夜に自分の選んだ道が大間違いだと、よくよく理解した。彼の本質を見抜けなかった。もっと話をしてみれば、彼の本心を知れたかもしれない。お互いの妥協点を見つけられただろう。
そして、気がついた。私がこの国にいる限り、彼はベルセルグ皇国から完全に離れない。
それならば……。




