隠密鉾盾
間も無く、テュール皇子の正妃となって、初めての春。実に穏やかな天気。昼食後で少し眠い。私は縁側に座り、ぼんやりと庭の菜の花を見つめていた。
仄かに香ってくる、梅に惑わされる。
「ソアレ様。また菜の花を眺めているのですか?」
背後に人の気配。声で誰だか分かる。ネージュの問いかけに、私は軽く頷いた。
「ええ。私は菜花妃ですからね……」
日に日に、後宮からの呼び出しが減っている。今月はまだ一度も呼ばれていない。
「毎日、お熱い事でございますね。そういえば、聞きました? ラン妃、ティダ皇子と良い仲だとか」
私は思わず振り返った。ネージュを見上げる。
「まさか」
ネージュの隣に、マールが並んだ。これから、テュール皇子と共に菜の花畑に行く。全員の支度が出来て、二人は迎えなのだろう。
「ネージュ、私が聞いたところによると、ラン妃の完全なる片想いみたいよ。まあ、シエルバ様の妃ですからねえ」
愉快そうなマールに、ネージュも楽しそうな笑みを浮かべた。
「それで、ソアレ様虐めが減ったのでしょうね」
「今は、ティダ皇子のお手付き女官を探して虐める事に熱心らしいわ。あーあ、ティダ皇子って器量良しより教養有りが好みらしいのよ。私も一芸に秀でたい」
毎日、毎日、毎日、あっちでも、こっちでもティダ皇子。うんざりする。
私は立ち上がって、二人に背を向けた。
「私を呼びに来たのでしょう? 行きますよ」
足を動かそうとした時、風が私の衣服と髪を揺らした。
「よーう、菜花天女。テュールは居るか?」
屋敷の囲いの屋根の上に、突然ティダ皇子が現れた。白狼の上に乗っている。
マールとネージュが、感嘆の悲鳴を上げた。
「可愛い反応をありがとう。琵琶姫に桜雪姫。で、桜雪姫、テュールは居るか?」
親しげながらも、かなり引いた目線に、苛立つ。私に恋の龍歌を詠んでから、まだ1年も経過していないのに、この気の無い態度。無性に腹が立つ。
私は毎度毎度、自分の事を棚に上げて、怒り狂ってしまう。本当に、阿呆な女。
「テュール様は御在宅です。ソアレ様と物見遊山です。呼んできます」
上擦った声で、ネージュが返答をした。
白狼が体を揺らすと、ティダ皇子は反動で飛んだ。トンッと縁側に着地。ネージュ、マールの順に頭を撫でてから、私の前に立つ。
私には何も無し。素通りである。話しかけようにも、隙が無い。いつもこう。良くて挨拶しか出来ない。
「テュール!」
ティダ皇子の呼び掛けに、テュール皇子が玄関の方から姿を現した。
「ティダ。ああ、もしやこれから出掛ける事を聞いたのか? 共に行くなら将棋盤か囲碁……痛っ」
ピシッ、ピシッとティダ皇子はテュール皇子の額を指で弾いた。この光景、しょっ中見かける。
「本当に阿呆め。様子見してても何も気がつかない阿呆。見かねて少し整備した。後宮管理くらいしろ。妻の周辺にも気を配れ。しばし国を離れる。自分の群れは自分で管理しろよ」
低い声を出すと、ティダ皇子はテュール皇子の胸に指を突きつけた。
後宮管理に、妻への気配り?
「国を離れる? ティダ、待て。この間も話しをしたが、皇太子が行方をくらますな」
「皇帝にはならないし、こんな国は背負わん。父上と叔父上の次はお前。それこそ、この間も話しをしたぞ。軟弱臆病の子狼の癖に、この俺の背に乗ろうとするんじゃねえ」
何度も見たような光景。私は少し身震いした。テュール皇子の表情が険しい。
今の私には、その理由が分かる。こっそり、皇居内を歩き回って情報を集めているから。
ティダ皇子はあちこちで、皇帝にはならない。そう告げているが、誰もそれを信じていない。皇帝陛下からの強い希望に、レオン宰相からの過度な妬み。
彼の実力、人柄主義のせいで、蹴落とされつつある貴族達。
皇居内、中央政権の雰囲気はかなり悪い。日に日に悪化しているように感じる。
「ティダ。背負う、背負わない、そういう問題ではない」
「こんな矜持の無い国、叔父上と色々と教えたお前で十分。俺は誉れ高い大狼として生きる。あと一年も無く去る。しっかりしてくれ。早ければ一ヶ月、遅ければ半年後に一度戻る。成長しておけよ」
屋敷囲いの屋根の上で、白狼が大咆哮した。力強く、三度。ティダ皇子は一足飛びで白狼の背に乗った。
「あばよ」
瞬きをしたら、ティダ皇子と白狼の姿はもう見えなかった。
「ティダ! おいティダ! 異常な聴覚だから聴こえているのだろう!」
庭に向かって、テュール皇子が絶叫した。
しかし、返事はない。テュール皇子はその場に蹲り、くしゃりと髪を掻いた。
「頂点から順に下を守れ……。矜持ある者を見捨てたりせん……」
ポツリ、とテュール皇子が呟いた。
「私は上になど立てる器では無い。気概を持てとか、臆病とか、そういう事ではない。頂点のお前が眩し過ぎるからだ……」
独り言では無く、異常な聴覚らしいティダ皇子へ向けた台詞のようだ。
「優劣つけて見捨てる……。お前は何も捨てられん。手を伸ばす先を広げるばかりではないか。何故、視野が広いのに自分の事だけ見誤っている……」
私は、両手で顔を覆ったテュール皇子の隣にしゃがんだ。触れて良いのか迷いながら、彼の背中にそっと手を当てる。
「とても物見遊山という状況では無いですね」
「すまないソアレ。私は置いて行ってくれ」
私の顔を見ず、テュール皇子は自分の髪をぐしゃぐしゃにした。
「まさか。こういう時にこそ……」
私を見上げたテュール皇子の瞳に宿っているのは拒否。私は口を閉ざした。自分達の世界に、男の世界には踏み入るな。そのように感じた。
「分かりました。ネージュ、マール、行きますよ」
私は側女二人を連れて、テュール皇子から離れた。玄関まで来て、物見遊山の中止を告げる。
「私は支えにならないようです。色々と気持ちを落ち着かせたいので一人になりたいです。ネージュ、マール、私とテュール様抜きで行ってきて」
屋敷から人払いして欲しい。そういう意図を伝えるために、冷たい声色を出した。ネージュとマールは「畏まりました」と頭を下げた。
溜息混じりで、私室へと移動。
机に向かい、頭を抱える。
ベルセルグ皇国は、間も無く破裂する。
ティダ皇子は私とは全然話さない。テュール皇子も私を政治には決して踏み込ませない。そもそも、私は妃として知れる範囲の事ではない話まで仕入れてしまった。
「どうすれば良いの……」
近々、大狼狩りが行われるという。
一匹で、村一つ壊滅させる化物猛獣、それが大狼という生物らしい。時折、人と共に生きるという大狼の生態は謎に包まれている。人は、大狼を馬や赤鹿の代わりに従わせようと試みてきた。しかし従わせられず、どの国も諦めたらしい。
大狼とは群を大事にし必要最低限しか狩りはしない。忠義に厚い種族。激昂させれると、村一つ食い荒らし、酷いと国さえ滅びるという。龍王御所の図書室で、古い文献にそのような話が記載されていた。
龍王御所で聞いた大狼狩りは、この大狼を探し出して狩るという話ではない。
大きな四つ尾の白狼と共に暮らす皇帝陛下。そして、ヴィトニルやレージングと呼ばれる大狼と共にいるティダ皇子。この二人を狩るという意味。
狩りの結果など、考えたくもない。
私は私室の鍵を閉めて、打掛と着物を脱いだ。盗んだ官吏服に着替える。髪を長髪男性様にまとめた。もう、慣れたものである。窓から外へ脱出もそう。
ティダ皇子不在のうちに、また不穏な話が進むだろう。
私は、どうしようもなく、自分の行動を止める事が出来ない。
忍び足で裏庭を進んでいると、梅の香りに誘われた。
——ねやちかき 梅のにほひに朝な朝な あやしく恋のまさる頃かな
一日足りとも忘れられない龍歌。テュール皇子に愛でられるたびに、私は梅の匂いに敏感になっている。約一年になりそうな結婚生活の思い出よりも、ティダ皇子とのわずかな交流ばかりが蘇る。
——ソアレぐらいだ。俺の優劣を惑わすのは
ティダ皇子の優劣……。
私は、暗くて深い沼に、ズブズブと沈んでしまっている。




