暗転予感
晩秋。もう、冬の到来。今朝、早くも庭先に微かに雪が積もっていた。庭の木々の葉を白化粧する粉雪に、朝日が乱反射して、きらきらと輝く。
縁側に腰を下ろして、ぼんやりと眺める。出仕するテュール皇子を見送ったばかり。用事まではまだ時間がある。
「おはようございますソアレ様。まあ、雪」
「おはよう、マール。もう、冬になるのね」
促すと、マールは私の隣に腰を下ろした。
「あの、ソアレ様。お願いがございます」
「何かしら?」
「琵琶の練習を積みまして、上達したと思いますので、今度ティダ皇子がいらしたら座敷に呼んでいただきたいです」
気合い十分という様子。マールは私に深く頭を下げた。
「以前のことを気にしていたのね。あの翌日、テュール様も申していましたけど、貴女に非は無かったのよ」
テュール皇子が側女を庇うか試しただけ。ティダ皇子がマールの琵琶を気に入らなかった訳ではないという。
「いいえ、ソアレ様。ティダ皇子は本心から褒める場合は、口説いて下さるそうです。このままでは、女としても、陽月御所の女官として悔しいです」
私は無理矢理微笑んだ。皇居内のどこにいても、自分の屋敷の中でさえも、ティダ皇子。ティダ皇子。ティダ皇子。
これでは、嫉妬心が燃え盛るだけで、忘れるのとは真逆である。
「ええ、分かりましたよマール。けれども、順番ですよ。貴女だけ贔屓すると、他の側女が怒るもの」
私はゆっくりと立ち上がり、さも気にしていませんというようにマールに背を向けた。彼女の艶やかな髪を掴み、庭へと投げてやりたい。背中を蹴り飛ばし……。
奥歯を噛み、袖の中に隠した手は拳を握る。笑顔を顔に貼り付ける。
「マール、明日から護身術の指導役の方がいらっしゃるのを覚えているわね?」
確か、中々の色男だった。妻帯者では無かった筈。
「はい。しかし、ソアレ様。テュール様も申していたように、護身術など不必要なのでは?」
「中々、容姿の整った方なの。テュール様が妬いていれば、その間くらい私から目を逸らさないでしょう? 指導者はラバンという方です。後宮のお茶事から戻って来る前にいらしたら、貴女がもてなして」
「そんなことをしなくても、テュール様の目にはソアレ様しか映っていないですよ」
ええ。そう呟いて、私はマールから離れた。昨日、お茶事用に準備した着物の確認。ラン妃よりも派手過ぎず、かといって地味過ぎても非難される。後宮に呼ばれると、嫌味しか言われない。
ふと、思い出す。
「負けた振りとか、もっとあしらいを覚えろ……。もっと地味な着物にしようかしら……」
舛花色に、暗めの紅葉柄の打掛を箪笥から探し出す。
「あら、ソアレ様。お召し物の変更ですか? それは……あまり……」
衣装部屋に顔を出したミンメイが、私の腕に乗る打掛を見て、眉間に皺を寄せた。
「良いのです。どうせあれこれ嫌味を言われるのなら、気に入りではない衣装が良いでしょう」
「まあ、そうでございますね。わざと抹茶を掛けられたりするかもしれませんし」
ミンメイが苦笑いを浮かべる。私もきっと、同じような表情だろう。
「今日は投げ込み花月と言っていたけど、多分嘘よ。香付花月とかかしら」
私の予想は当たるのか、外れるのか。後宮まで行きたくない。
「何だとしても、ソアレ様なら問題無いでしょう」
ミンメイと雑談をして、その後に衣服や髪を支度。今日はアイラを伴わせる。彼女の格好や髪型、装飾品も確認。晩秋に相応しいように、統一しないとならない。
準備が終わると陽月御所を出て、後宮へ向かった。後宮は、龍王御所の裏手側、ユルルングル山脈の峰に築かれている。
陽月御所を出て、まずは龍王御所へと向かう。かつて暮らしていた春霞局を通り、東狼御所を抜けて、龍王御所。
「こんな風に、広い皇居内を自由に歩けるようになったのよね……」
ベルセルグ皇国の皇居は、別名天の原城。城下街はかなり眼下。薄雲がかかると、街は見えなくなることもある。
龍王御所の向こう、西狼御所の庭から喧騒が聞こえる。かなり遠いが、私にはそこに誰がいるのか分かった。
「きゃあ、ソアレ様! 向こうにいらっしゃるのはティダ皇子ではなくて? ほら、あの白狼はそうです」
アイラがうっとり、というように西狼御所の外庭を眺める。
「ああ、あの白狼は確かに……」
巨大な白い狼。その隣に黒装束の人物。ティダ皇子とヴィトニルという獣に間違いない。純白の毛並みに、一筋の舛花色。太陽の下で見ると、あのような姿だったのか。
「女官用の通路ではないと、このように殿方の姿を見れるのですね。何をしているのでしょう?」
期待の眼差しのアイラに対し、私は首を横に振った。
「遅刻すると嫌味ではすみません。行くわよ、アイラ」
「まだ、かなり早いです。もう少し近くへ。いえ、ソアレ様。龍王御所にて、少し見るだけでも」
「はいはい、分かったわよ。他の側女に自慢しないように。でないと、連れ回されるわ」
止めていた足をまた進める。アイラは扇で顔を隠しているが、私は堂々と素顔を見せて歩む。皇族正妃、それも後宮外に住まう妃だけの特権。準皇族扱い。今、この国においてその扱いは私のみ。
龍王御所まで行くと、西狼御所の外庭は目と鼻の先。大勢の人がいると思ったら、全員皇国兵。
「稽古でしょうか? 噂で聞いたのですが、ティダ皇子は皇国兵に色々と指南しているそうです」
頬を赤らめて、アイラはティダ皇子の背中を見つめ続けている。扇がもう口元まで下がっていて、良くない。私はアイラの扇を目の下まで引き上げた。
本当は目も隠さないとならない。アイラの熱視線に嫉妬心が湧いているので、余計に目も隠したい。しかし、私の気持ちは絶対に外へは出さない。そう、決めている。
「そうなのですか」
確かに、皇国兵と皇国兵は木刀を握り、二人一組で向かい合っている。ティダ皇子はそれを眺めている風に見える。
「はあ……。後ろ姿でも格好良い気がします。東部での落石事故にて、大活躍されたとか。身分関係なく取り立てて下さるそうですし、この国の未来は明るいですね。大勢の市民がティダ皇子が皇帝を継がれる日を待っております」
マールは私を見ないで、ティダ皇子の背中を凝視している。
私はマールの発言に、ぞわぞわと鳥肌を立てた。
ティダ皇子は皇帝にはならない。テュール皇子とそういう話をしている。
独裁体制で宰相や官吏に疎まれている皇帝。身分制度保持や、税の引き上げをしようとしている宰相とその取り巻き。
あちこちで、不穏な話を耳にする。
そして、そこに必ずティダ皇子の名が加わる。
ティダ皇子が居るから、ティダ皇子ならば、ティダ皇子が統治する国なら……。出征すれば大勝にて帰国。災害があれば我先にと、自ら災害対処や指示者となる。実力、人柄主義に、市街地では奴隷層の者とまで親しくしているとか。
ティダ皇子の期待は高まる一方らしい。今のマールと同じように、皆が噂をする。明日、明後日、来年、その先の国の行く末は明るいと夢を見ている。
なのに、その本人はこの国など要らないと吐き捨てている。
私には、この国の先行きは暗く思える。
ティダ皇子をきっかけに、いつかこの国は悲鳴を上げ、爆発する。悲惨な時代へと突入するような予感。
今、空を覆いはじめた黒い雲のように、ある日突然、この国は暗い谷底へ落下するのではないだろうか。
「ソアレ様?」
声を掛けられ、私はマールを見た。怪訝そうな表情。私はニコリと微笑んだ。
「大勢の殿の勇ましい姿、目の保養でしたね。そろそろ行きますよ」
名残惜しそうなマールに流し目。私は龍王御所の入口へと向かった。
見張りもなく、皇居内を自由に歩ける……か……。特に龍王御所。本来、女官さえ立ち入りできない場所。
世間話しかしたことのないレオン宰相。彼を取り巻く中央政権の官吏達。そしてティダ皇子との関係性。
私なら、それを探れる。
テュール皇子が時折告げる、ティダ皇子への苦言。以前から気になっていた。
——過ぎたるは猶及ばざるが如し。国を荒らすな
今なら、何となく、あの苦言の理由を推測出来る。
「ソアレ様は何故、皇太子の正妃を目指さなかったのですか? いいえ、長年の初恋を実らせたかったなんて惚気は聞きたくありません」
ふふふ、とマールが微笑ましそうに肩を揺らした。
笑みを返しながら、私は自分の足が泥沼に嵌っているような感覚に陥った。テュール皇子の妻なのに、ただ彼の唯一無二の女を目指すと決めたのに、私は違う道へと進もうとしている——……。




