散花夢中
——恋のまさる頃かな
まあ、夢のようですティダ皇子。ずっと、ずっと、ずっと……長年お慕い申し上げておりました……。
私は大泣きしながら、両手を広げて、駆け出した。
しかし、彼は私に背を向けて、歩き出す。
百夜目、今日こそは素直になろうと、朝から晩まで自分に言い聞かせていたのに……。
∞ ∞ ∞
ぼんやりする。目を開けたのに、視界が霞む。次第に意識がはっきりとしてきた。ここはユルルングル霊峰ではない。滝も梅も無く、温かな黒狼もいない。
見慣れない天井。牡丹柄の天蓋……陽月御所の御帳台内だ。それで、布団の中にいる。
布団に横になる私の隣に、テュール皇子が座っていた。胡座をかいて……こくり、こくりと眠っている。彼の両手は私の右手を握りしめていた。温かいよりも、熱い……。
「テュール様……」
思っているよりも、小さな声が出た。
「ああ、起きたか。体は辛くないか?」
心底安堵した。テュール皇子はそういうように微笑んだ。
「ええ。そそっかしくて申し訳ございません。一人で湯浴み、おまけに檜風呂に温泉なので、つい心がはしゃいだようです」
起きようとしたら、首を横に振られた。
「朝から疲れたのだろう」
テュール皇子の手が私の手から離れた。彼の左手が私の額に乗る。
「熱くはないが……一晩休めば元気になるか?」
発言に、私は驚いた。目が丸まる。今夜は、ついに初夜となるというのに、テュール皇子にその気はないのか? いや、私の事を慮ってくれるのか。
私を愛しいというような眼差しに、今日という祝いの日がとても嬉しい。そういう笑みに見える。
「どうした。急に泣いて……」
私はゆっくりと体を起こした。テュール皇子の左手を両手で握る。左手の薬指に嵌められた、特注の結婚指輪を眺める。神前で、誓い合った。私は、この人の妻だ。自分で摘んだ初恋に未練を残していてはいけない。
「百夜、いつ手を出してくれるのかと……。思ったり……していました……。それは……恋とは呼べますか?」
え? と目を丸めたテュール皇子の手を、きつく握る。
「笑って下さると、ホッとします。決して裏切りたくないと思うのです……」
全部、真実。だから簡単に口に出来る。反応が無いなと思って顔を上げると、テュール皇子は赤黒かった。四隅の灯篭でかなり明るいが、昼間の太陽の下なら、真っ赤に見えるのだろう。
「ソアレ……」
手が震える。それでも目を閉じた。瞼の裏に、満開の梅園が広がる。しかし、香りは木蓮。私は目を開いた。駄目だ、テュール皇子の顔を見ていた方が良い。それも口元ではなく、目だ。
眼前にテュール皇子の顔があって、彼は目を閉じる寸前。視線が交差し、テュール皇子がビクリと固まった。更に赤くなった気がする。
「待て……大分慣れたが……そう見つめられると……」
テュール皇子の視線が泳ぐ。そう、これだ。この手慣れて無さ。私に照れる表情。それから、時折こちらに注がれる期待の眼差し。こそばゆいが嬉しい。
「今か今かと思って、つい目を開けてしまっ……」
途中で、割といきなり、口付けされた。背中を支えられながら、布団に倒される。激しくない、優しい触れるだけの口付け。続けて三回。誓い口付けと同じ、神聖な回数。
「末永く大事にする……」
「はい……私も……」
帯を解かれながら、私は自分に言い聞かせた。この人を傷つけないようにしなさい。たとえ、どんなことがあろうとも……彼が誠実な限り、真心を返す。
すっかり寝巻きを脱がされ、全身に口付けされながら、時折立つ鳥肌に私は怯えた。テュール皇子は私の体に夢中なのか、気がついていない様子。安堵している、冷ややかな感情の自分に慄く。
羞恥心で動悸は激しいが、どうしてこうも、嫌悪感ばかりなのか。
最悪。最悪とはこの私の事だ。私はきっと、この優しくて誠実な皇子様を、この世で一番傷つける。それで、守りたいものも手から溢れ落ちるに違いない……。
何故、この素敵な人に心惹かれない。
嬉しい、幸せ、感じている、そういう態度はどうやったら出るのだろう……。
テュール皇子の口元を薄めで見ると、全身に熱が迸った。目を閉じて、ティダ皇子の姿を見つけると、胸を揉まれることが急に良い事に感じた。
自分を酷い女だと罵りながら、私はテュール皇子をティダ皇子と思い込んで、抱かれる事にした。
自らへの嫌悪感が最高潮に高まった時、丁度貫かれるところだった。痛みに謳気が混じって、私はさめざめと泣いていた。
「痛いか……」
テュール皇子は止まってくれた。私は、素直に頷いた。
「最初はそうだと聞いてます……」
心配そうな目で、私の頭をよしよしと撫でるテュール皇子。冷えた体に体温が戻った気がした。太陽という名前の私よりも、テュール皇子の方がよっぽど陽だまりのようだ。
「慣れだと言うし、続きは明日にするか」
え?
それは、予想を遥かに超えた提案である。私に夢中で仕方がない。雨のように愛を囁き、褒め称えてくれていた。全身くまなく食べようというくらいだったのに、止まれるのか。
「大事にすると言ったからな」
私の体を起こすと、テュール皇子は優しく抱きしめてくれた。
「あの……でも……平気です……」
「そうか? 私は無理だ。痛くて辛そうな顔を見たくない」
よしよし、と今度は頭ではなくて背中を撫でられた。
「これから毎日、帰ってきたらそなたがいるのか」
弾むような声に、私は目に涙を滲ませた。テュール皇子から少し離れて顔を見たら、屈託無い笑顔だった。今、世界中で一番自分が幸せ。そういう表情。目に溜まった涙が、零れ落ちた。笑みも溢れる。ああ、本当に温かい。
テュール皇子は私の体を抱き上げて、膝の上に横座りさせた。
「明日の夜も宴会だが……明日というか、もう今日か。今夜の宴席では、この体勢か。絶対に顔が真っ赤になる。相当、揶揄われる」
困った、とぼやくと、テュール皇子は私の頬に口付けをした。もう正式に正妃なので、膝の上で、彼のお酒の酌をすることになるのか。
「今も……赤いですよ……」
さっきまではどうだっただろう? 嫌々してないで、ティダ皇子を重ねたりしないで、真剣に向き合えば良かった。現実逃避していても、テュール皇子に恋することは出来ない。
今は……うん、大丈夫。ほんのりトクトク鳴る心臓。嬉しいと思える心。百夜通い中は、ティダ皇子との喧嘩みたいなやり取りに心を奪われていたが、そのティダ皇子は多分もう私の前に、あんな風には現れない。
友である、テュール皇子の正真正銘の女になった私に、彼は近寄らない。きっと、そうだろう。
「困ったな。そなたが愛くるしいばかりに……。情けない姿を晒すのか……」
「こんなに好かれて、三国一の果報者でございます。そう、告げるので大丈夫です」
不安げに遠くを見ていたテュール皇子が、勢い良く私を見て、惚けた。
「そう……そういう嬉しい事しか言わないな……」
照れ照れしているテュール皇子を見るのは、安心する。私はきちんと、この人を傷つけないでいると分かるから。彼の真っ直ぐな気持ちに、私の酷くて最悪な心が洗われる気もする。
片想いが長かった私には、テュール皇子が私に何をされたいのか、言われたいのか、手に取るように分かる。
私は意を決して、えいっとテュール皇子に口付けをした。
「理性が保てんから……誘わないでくれ……」
指が私の胸を這う。唇を唇で塞がれ、啄ばまれる。
「痛くて……んっ……辛いと……また……んっ……」
また止まって下さるのでしょう? 尋ねたいのに、急に激しくなったので言葉が出ない。
「うん」
子供っぽい返事だけが返ってきた。舌が私の口の中に入ってくる。目を瞑っても、今度は梅園もティダ皇子の姿も浮かばない。
あるのは、帰ってきたら、毎日私が居ることを、うんと喜ぶテュール皇子の笑顔。
これは、良い傾向。
私の初恋はもう終わったもの。自分で捨てて、粉々に砕いた。次の恋に身悶えして、永華を咲かす。
そうだった。テュール皇子に一生愛されて、唯一の女となるのだ。
たった一人に愛される。それが、私にとって譲れないもの。譲れないということは、私もその一人を愛せる筈。特に、テュール皇子のような人ならば……。
空が白むまで、私はテュール皇子に甘やかされ続けた。痛そうなので止める。またイチャイチャする。そうして、三度目にして、私はテュール皇子と一つになれた。




