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初恋梅園

 一面、淡い桃色。甘い匂いに囲まれて、私の胸は弾けそうなほど、とくとくと鳴っている。


 春の訪れを知らせる、梅の楽園。ほんのりと橙に染まる空は、間も無く日が落ちるぞと告げている。


 彼が、腕を伸ばして、枝の一つを手折った。まだ蕾の多い枝を、差し出された。


「あ、ありがとう……ございます……」


 あまりにも嬉しくて、両目に涙が滲む。


「ん? 気に入らないのか?」


 彼が、私の顔を覗き込んだ。知り合って2年、あっという間に背を抜かれ、頭一つ分も違う。だからか、彼は背中を丸めて、グッと下から見上げるように私を見た。


 ち、近い……。


 私は梅の枝をギュッと抱きしめて、首を横に振った。


「まさか。一生の宝物でございます」


 彼の無骨な指が、私の涙をすくった。なんて、優しい笑みを浮かべるのだろう。


「それは大袈裟な表現だな。その枝、世話しても長くはもたない。次はカドュルの桜を見せてやろう」


「いえ。目に焼き付いたこの梅は、胸の内で永遠に咲くのです。山脈に桜が咲くのですか? そんな遠くへ、どうやって行くのです?」


 私を皇居から連れ出して、市街地外れの梅園へ。それだけでも、驚きだったのに、北にあるカドュル山脈?


「山脈……人里ではナルガの森か。友が連れて行ってくれる。だが危ないので、枝を折ってきてやろう」


 人里?


「人里?」


「ソアレ、日が落ちる。そろそろ皇居に戻るか」


 話をはぐらかすように、彼は私を抱き上げた。着物分かなり重い私を軽々と持ち上げる逞しさ。


 えいっと首に手を回したいけれど、そんな勇気は無い。どうしてこう、ドキドキ、ドキドキしているのだろう?


 これこそ、きっと、世に言う——……。


 ————…………。


 ——……。


 目を開いて見上げると、毎日眺める天井があった。梅の枝は無い。


 机に突っ伏して眠ってしまっていたらしい。


 三年、いやもうすぐ四年前になる事を夢に見たのか。まだ、鼻孔を梅の香りがくすぐるような錯覚がする。


 背を伸ばして、何をしていたのかと、周りの状況を確認。


 半紙、筆、墨、硯……文、文を書こうとしていた。


 目の前には、梅の小枝。庭に植えてある梅には、かつて贈られた宝物を添え木してある。上手くつき、今年も花を咲かせてくれた。


 この小枝は、それとは別の場所から手折った。本当に文を書きたい相手には、何も書けない。


 私は今日も、恋しい相手を思い浮かべて、恋しくない相手に何とか文を書く。


「君とこそ 春来ることも待たれしか……」


 古典龍歌そのままで良いか……。私は筆を持ち、半紙にさららと文字を綴った。


「梅も桜も……たれとかは見む……」


 貴方と一緒に春の訪れを待っていたのに、梅も桜も誰と見ればよいのでしょう。ふむ、これでは全くもって、恋文ではない。


 梅や桜を眺めながら、来ない相手を待っている。単に、そういう侘しさを醸し出す歌。作者も確か……夫を亡くした後に歌った。


 少し、変えれば良いか。


「貴方と一緒に春の訪れを待てれば良いのに……。よし、これでよし」


 せっかくなので、梅の絵を添える。どうせならと、朱墨で梅の花を描く。我ながら美しい。半紙を乾かし、梅の枝に結ぶ。


 後はこれを側女の女官に届けてもらうだけ。


 ……。


 ……。


 私は文を結んだ枝を火鉢に放り投げた。


 あっという間に文は燃え、梅の枝は赤く爛れて、悲鳴を上げていく。


 梅の香りが部屋を満たす。


 初恋の象徴。永遠に消えない幸福な思い出。


 私は間も無く、顔もよく知らない皇子の元へ嫁ぐ。この火鉢の中の梅の枝のように、大火傷すれば回避出来るだろうか?


 真っ赤に染まった炭を火箸で持ち上げる。


 私はそっと炭を火鉢の中に戻した。


 両親、親戚、彼等が抱える雇用者。私が背負うのはその全て。何もかもを捨てて、逃げるような娘にはなれない。


 私はもう一度、同じ内容の文を書くことにした。貴方と見る梅は、全く色彩のないものだ。そんな皮肉を込めて、梅の絵に朱墨は使わなかった。実に可愛げのない行為だが、言わなければ相手には分からない。誰も、私の心の内など知らない。

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