第一話
鼻につく薬品の匂いは、最初は苦手だった。だが、それも何度か通っていればいつのまにか気にならなくなっていた。
けれど、病院特有の緊張感というのだろうか、重々しい空気はいつまで経っても慣れない。
ーーーーここか。
僕は203号室の扉を開ける。中に入ろうとした瞬間、風で前髪が舞い上がった。窓が開いているようだ。薄黄色のカーテンが揺れている。
中にいた敦也ーーーー僕の親友は俯き、本を読んでいた。僕に気づくと、ゆっくりと顔を上げる。
「やあ、智司。待っていたよ」
相変わらずの呑気な声だった。心配してきたのに、少し拍子抜けする。
「個室に変わったんだな。前の場所、誰もいなくなっていたからびっくりした」
僕が前来た時、敦也の病室は4人部屋だった。個室に変わったという事はもしかして容態が芳しくないのだろうか。
「うん、3日前に」
「部屋変わったなら言ってくれよ。わざわざ看護師さんに聞いてきた」
「ごめん、ごめん」
ごめん、なんて少しも思ってなさそうな明るい声で敦也は言った。そして、そうだ!と呟き、手に持っていた本を閉じて僕に手渡した。
「もう、良いのか?」
僕は本を受け取りながら、聞いた。さっきちらっと見た時はまだ半分くらいしか読んでなかった気がする。
「もうとっくに読み終わってる。敦也がなかなか来てくれないから二週目に突入してた」
「あぁ、悪い」
今度は僕が、悪いとは思ってないような声色で謝った。いや、久しぶりのお見舞いになってしまった事は本当に悪いと思っている。
「今回のも、面白かったよ。やっぱり智司の選ぶ本にハズレはないね」
「そうか、それはよかった。同じ作家で他にも面白いのがあるから、また持ってくる」
「頼んだ」
敦也は入院してすぐ、入院生活が退屈だと相談をしてきた。僕はそれならこの機会に本を読むといいと、普段本を読まない敦也でも比較的読みやすい本を厳選し、お見舞いついでに渡すようになった。
すると敦也はすぐに文学の世界にのめり込んだ。面白い、面白いと僕が進める本を次々に読んでいった。
敦也はハッピーエンドが好きだった。誰かが不幸になったり、死んだりするような終わり方は好きじゃない。
だから僕は敦也に渡す本は必ず一度目を通していた。最後は笑顔で終わるラストじゃないと、敦也は気に入らない。
「新しい職場は、どう?」
唐突に聞かれて、思わず敦也の方を見ると目線と目線がぶつかった。敦也はいつも人の目をじっと見つめて話す。こっちが思わず目を逸らしてしまいたくなるくらいに。そして、人が普通は避けたくなるような話題でも気にせずに触れてくる。それが良くも悪くも彼の性格だ。
「さあ、また辞めてしまうかもしれない」
僕はそう返した。こんな事を言って呆れただろうか。僕は前の職場を先月に辞めたばかりだ。
だが、敦也は呆れるそぶりを一つもせずに言った。
「智司はまだ19だ。色々な事に挑戦するのも良い」
「お前だってまだ19だろう」
僕はすぐに笑って返したが、すぐに敦也が言わんとしている事が伝わり口角を下げた。
敦也は自分に繋がれた点滴を見上げる。僕も目線を点滴に合わせた。
「智司の19と僕の19は違うよ。未来のある19と、未来のない19。全然違うよ」
敦也はこんな事を言う時もいつも笑顔だ。怖いくらいに笑顔だ。
「頼むからそんな事は言わないでくれ」
僕の言葉に敦也は笑顔は崩さないまま、ごめん、と、小さく言った。
敦也はもうすぐ、死ぬ。それは随分前から知らされている事だ。
異変を感じた時にはもう手遅れだったと、敦也から告げられた時は頭の中が真っ白になった。その時はその場から動けず、しばらく何も言葉を発する事ができなかった。カラカラに乾いた喉からようやく出た言葉は、「冗談だろう?」だった。あの時の事は今でもよく覚えている。
生憎僕には医療知識がなく、病名を聞かされてもよく分からなかった。病名をインターネットで検索して少しでも理解しようと思った時もあった。だが、理解したところで僕に何も出来るはずはないと、静かにパソコンを閉じた。いや、あの時の僕はただ知るのが怖かっただけなのかもしれないが。
「智司に向いている仕事はもっと他の事なんじゃない?」
敦也が言った。暗い雰囲気を少しでも変えようとしたのだろう。
「例えば」
「学校教師とか」
「まさか」
僕はおどけて見せた。学校教師なんて、考えたこともなかった。
「智司は教えるの上手かったよ。僕、何度も助けられた」
僕らは学生時代、テスト前になるとよくファミレスに行き、勉強をしていた。理数系が苦手な敦也には何度か勉強を教えてる機会があった。物分かりが良く、いつも真剣に話を聞く敦也に教えるのは確かにとても好きだった。
「学校教師じゃなくてもいい。家庭教師や塾講師もある。智司にはそういうのがきっと合ってる」
確信を得たように、敦也は何度も頷いた。
「僕には、向いてない」
少し考える素振りをして、なるべく明るく僕は返した。
すると敦也は僕に眩しいものを見たかのように目を細め、言った。
「向いてるよ。智司ならうまくやれる」
敦也は就職活動をした事がないからわからないんだ
そんな言葉が口を出そうになったが必死に飲み込んで、「敦也は僕を買い被りすぎだよ」と笑って返した。
敦也は、僕の事を何も知らない。
◇
僕は毎朝、5時50分頃に目を覚ます。
アラームは6時に鳴るようにしてあるのだが、何故かいつもアラームが鳴る前には目を覚ましてしまう。今更鳴ったところで耳障りなだけだと、アラームを解除してベッドから降りる。
まず最初にカーテンを開け、朝日を浴びた。今日も天気だ。夏真っ盛りと言ったところだろうか。雲ひとつない空だった。
一階に降りると母親がキッチンで朝食を作っていた。テーブルの上にはもう既にバンダナに包まれている、出来立てほやほやであろう弁当が3つ置かれていた。
母さんとは「おはよう」とだけ言い合い、風呂場に向かう。寝汗をシャワーで流し、身体を洗った。この時、ついでに髪も一緒に洗ってしまう。シャワーの温度を熱めに変え、眠っていた頭と身体を叩き起こす。
風呂場から出て仕事着に着替えると、僕がシャワーを浴びている間に妹も起きていたらしく母と一緒に既にご飯を食べていた。
「おはようございます」
妹が言った。妹は僕に敬語を使う。そして、いつもどこか僕との間に壁を作っていた。
その理由の一つとして、血が繋がっていないからというのがある。
妹は母の再婚相手の連れ子だった。僕の本当の父親は七年前に亡くなっている。ちなみに再婚したのは一年ほど前の事。
突然兄弟になった年上のよく知らない男なんて、今時の女子高校生が距離を開けたくなるのも仕方ない事だろう。
だが、母との関係はなかなか良好みたいだった。女同士は仲良くなれるタイプ同士だとものすごいスピードで仲良くなるらしい。
僕も急いで席に着き、箸を握る。正一さんーーーー父さんは社員旅行で今、家にはいない。3人だけで食べる朝食だ。
「今日も暑くなるみたいね」
母さんが言った。
「32度超えるらしいよ」
僕はキュウリの漬け物を口の中でポリポリ言わせながら返した。
「お父さん、夕方帰ってくるって」
母さんが妹ーーーー香澄ちゃんに向けて言う。
「うん、メール来てた。お土産楽しみ」
「そうねえ」
チラっと二人の方を見ると本当の親子のように笑い合っていた。やはりこの二人は相性が良いみたいだ。僕には眩しいくらいの微笑ましい光景だった。
食事を終え、時計を見るといつも家を出る時刻より10分ほど早かった。だが、家に居てももうする事はないし今日は早めに出ることにした。
「いってらっしゃい、気をつけて」
玄関で靴を履いていると、リビングから母の声が聞こえた。
「いってきます」
僕は返したが、なんだか自分が思っているよりも小さな声が出てしまった。母にはちゃんと聞こえただろうか。
玄関には父が生前使っていた釣り具やゴルフクラブが置いたままになっている。
今でもこれらを見ると父が使っている姿を簡単に思い浮かべられた。
実は僕は、釣りをする父は何度も見たが、ゴルフをする父の姿は一度も見たことない。
だが、何故か懐かしいような、そんな気持ちと一緒にクラブを握る父を思い浮かべていた。
いつか智司も使う時が来る。決して安いものばかりではないから。と、母は捨てずに取っておいてるが、今はまだ自分が使う姿は想像つかない。
僕はもう一度、「行ってきます」と今度はちゃんと 母に聞こえるように言い、駅に向かった。
僕がいつも通勤に使うダイヤは一日で一番の人口密度らしい。今日みたいに手すりに掴まれる日はラッキーなくらいだ。もう少し空間に余裕があれば、単行本を取り出して立ちながらでも読書を始めるのだが、ここまでの満員電車だと鞄に手を突っ込むのでさえも難しい。
仕方なく目線を窓の外にやる。冴えない男の姿が映った。しばらく自分の顔を眺める。
ーーーーボーっとしやがって。
ふと、上司の言葉が耳に届いた。上司といっても今の職場の上司ではない。前の職場の上司だ。
僕は、自分の冴えない姿を見るうちに嫌な記憶を蘇らせてしまった。なんとか他の事を考えようと頭を巡らせたが、結局それはうまくいかなかった。
前勤めていたところでは散々だった。全く仕事ができなかった。焦る気持ちが前に出て、何をしてもミスばかりだった。
一度に沢山の仕事を与えられ、一つ仕事が片付くと次何をしたらいいのかすぐには思い出せず、よく立ち止まっていた。すると、すぐに上司の怒鳴り声が響いていた。
立ち止まっている間にもお前への給料は払われるんだぞ、と。
あぁ、ごもっともだ。と思い急いで仕事に取り掛かった。
だが、僕はなかなか他の人のように仕事を早くきちんとする事が出来なかった。
「何故たったそれだけのことにそんなに時間が掛かる。スローモーションかと思った」と言われ、
それからスピードを上げてやると、確認が怠り大きなミスをした。
ミスが続くと「ちゃんとメモを取れ。お前が頭が良いなら話は別だがな」と言われ、次の日からメモを取るようにしたが
「何故そんな事をいちいちメモに取らないといけない。頭で覚えろ」と言われた。
それからは、僕が近くをうろつくとシッシッと手で払いのけられ、すれ違う際には「邪魔」と肘で脇腹を押されるようになった。それが毎日続いた。
初めての仕事だからすぐには慣れないのは当たり前、なんて考えは甘かった。誰もそんな風に優しい目では見てはくれなかった。実際、僕と一緒に入った同期の奴らはほぼ完璧に仕事をこなしていた。
新人に求められるのは使えるか、そうでないか、それだけだった。そして、僕は完全に後者。使えない奴と判断されたらもう僕への期待はゼロにほど近くなり、仕事を一つも任せてくれなくなった。
何の為に職場に通っているのだろうかと僕は耐えられなくなり、ついには上司に仕事をくださいと土下座をした。
そして与えられた仕事は上司が出したゴミの片付けだった。名前を呼ばれたら、すぐに席に駆けつけろという指示だった。そして、「これ、捨てといて」と、もう使わない書類を渡される。それを受け取り、そのままゴミ箱に向かう。
すると、すぐさま上司の怒鳴り声が部屋に響く。
「シュレッダーに掛けろ!かさばるだろうが!ゴミ袋だって金なんだよ。お前が出してくれるんなら別だけどな」
僕は慌ててすみませんと頭を下げ、急いでシュレッダーを操作し始めた。冷たい汗が額を流れたのがわかった。
スイッチを押すと、また怒鳴り声が聞こえてきた。
「まだ残ってるだろう!」
直ぐに振り返り上司が指差す床を見ると、くしゃくしゃに丸まったゴミが何個か机の下に転がっていた。僕はまたすみませんと謝り、しゃがんでそれを拾い始める。
拾いながら僕は考えた。
この、丸まったゴミはそのままゴミ箱に捨てても良いのだろうか……これも、一度シュレッダーにかけるべきだろうか……。
結局、またかさばると怒られるのを想定し、丸まった書類も全て伸ばしてシュレッダーにかける事にした。
だが、紙を伸ばした瞬間、僕の目に飛び込んできたものに動きを止めた。大きな文字で「給料泥棒」と書いてあったのだ。確実に僕に当てられた文章だった。
思わず手が震えたが、僕は気づかないふりをしてそれをシュレッダーにかけた。その様子を見た傍観者達の笑い声が遠くから聞こえてくる。
パワハラと言えばそうなのかもしれないが、こればっかりは仕事の出来ない僕が悪いと言わざるを得なかった。上司を責められない気持ちが僕の本心だった。だが先月、僕はついに耐えられなくなり辞表を提出した。
新しい仕事は割とすぐに決まった。ハローワークに勧められた清掃の仕事だった。優しい人ばかりだが、前の職場の事がトラウマになり今もビクビクしながら毎日を過ごしている。
清掃をしながらいつも頭の中では前の職場の事を考えている。上司の声が耳を支配し、離れてくれない。
床をモップで履く
ーーーー仕事が遅い、早くしろ
窓に洗剤をつける
ーーーーお前は何も出来ないんだな
窓を拭く
ーーーーもっと丁寧に仕事をしろ
トイレの掃除を始める
ーーーーヘラヘラしやがって
ずっと上司の声を聞きながら、仕事をする。僕はよく、敦也ならあの職場でどうしただろうか……と考えてしまう。上司との関係も気さくで容量が良い敦也ならうまくいったのかもしれない。敦也と僕は何もかもが違う。敦也の明るさは人を惹きつける魅力があった。
「悪いけど、バケツの水変えてきてくれる?」
今の上司である小林さんの声が耳に届いた。僕は意識を過去から現在に戻した。
「すいません、今持っていきます」
謝る事ではないのに、まず最初に謝罪の言葉が出てしまうのは、もう僕の癖になってしまっている。
敦也の代わりに僕が死ねばいいのに。敦也の余命を聞いてから、僕は何度もそう思った。