九話
今日は仕事のトラブルがあって残業になってしまった。会社を出るときには二十二時を回っていたが、電車に乗るのは三十分ほど。それから歩いて十分ほどなので約束の時間には間に合うだろう。
「ただいま、人身事故により電車の到着が遅れています」
終電には間に合ったが駅の構内にアナウンスが無慈悲に響く。駅に到着した時には二十三時五十分を回っていた。ここから自宅のマンションまで歩いて十分。財布の中に五円玉は持ち合わせていない。走りにくいパンプスを脱いで手に持ち私は久しぶりに全力疾走をした。
「お帰り、急いで急いで」
死神の呑気な声を無視して空き瓶に駆け寄り五円玉を出した。
「良かった、間に合ったね。それにしてもボロボロだねえ」
ストッキングは擦り切れ、転んですりむいた膝から血が出てしまっている。暢気すぎる声に文句を言いたかったが、息が上がってしまってそれどころではなかった。玄関まで戻って鍵を閉め、洗面所でストッキングを脱ぎ、靴を履かずに走ってきた足で上がってしまった床を拭く。拭いているうちに涙がぽろぽろと出てきた。大した人生でもないのにそうまでして生きたいのかと段々とみじめになってくる。
―――違う。ここで待ってくれている死神を差し置いて別の死神に命の灯を消されるのが我慢ならなかっただけだ。
「怖かったでしょう?僕も怖かった」
そう言って死神は背中を擦る。骨の感触しかないのに幽かに温もりを感じたような気がした。思わず死神のローブにすがり、泣いてしまう。
「恐れられるだけの存在の話し相手をしてくれる人なんてそんなにいないからね。君を失ってしまうと思ったら本当に怖かった」
こんなに泣いたのは久しぶりだ。深夜なので声を上げて泣くことはしなかったが、落ち着いた時には何だかすっきりしてしまっていた。
「今日は持ち合わせが無かったから無理だったけれど、ここの場所でしか五円玉は渡せないものなの?」
「場所の条件は指定していないから大丈夫だけど、誰かに見られたらまずいことになるよ、きっと」
他人には死神が見えないらしい。誰もいないのに話しながら、何もない空中に向かって五円玉を差し出し、ふっとそれを消す私。不気味以外の何物でもない。
「出来るだけここで渡せるように頑張る」
「そうしてくれると助かるよ。僕と話す時の嬉しそうな顔を誰にも見せたくないからね」
死神はお休みと言って姿を消した。無自覚にそんな顔していたのかと残された私は両頬に手を当てる。恥ずかしさで顔から火が出そうだった。