鬼々怪々(2)
「鬼無 (キナシ)へ行く」
虫取り屋は、理沙にそう言った。
鬼無とは、四国にある桃太郎伝説縁の地のうちの一つである。地名の如く、この地で桃太郎が生き残りの鬼達を一人残らず殺したため、鬼がいなくなった⇒鬼がいない⇒鬼無となったらしい。
「鬼無へ行けば、鬼の追ってから逃れられるかも知れないのですね」
理沙は、虫取り屋の腐った魚のような目を見つめながら、そう言った。
「じゃ、そろそろ行くべ」
虫取り屋は、食べていたハンバーガーの包み紙を小さく折りたたむと、トレイに乗せた。
それを見た理沙も、包み紙や紙コップをトレイの上に置くと、それを持ってゴミ箱のところへ持って行った。紙とプラスチックを分別して棄てると、トレイをボックスの上に置いた。
理沙の行動を確認したのか、虫取り屋は席を立つと、店の出入り口へ向かった。慌てて理沙も後を追う。
出入り口の自動ドアが開いたところで、理沙は虫取り屋に追いついた。
「はぁ、やっと追いつきました。虫取り屋さん、先に行っちゃうなんて、ヒドイです」
少女は、少し<ムッ>として、先に立つ帽子の男に話しかけた。
「だったら、しっかりついてこい」
と、虫取り屋は、独り言のように答えた。彼は、すぐにそのまま通りへ出ると、右に折れてスタスタと歩き始める。
「あん、待って下さいよぉ」
理沙も慌てて店を出ると、彼を追いかけた。
「どこに行くんですか?」
理沙は、歩きながら虫取り屋に訊いた。
「取り敢えず、駅に行く」
少女は、きょとんとした表情で、男の言葉を待った。
「最寄りのローカル線で、とにかく東海道線まで行く」
「電車ですか」
「うむ。オレは、車は持っていない。『免許』は……持っている。教習所に通ったことは無いが」
理沙が、「えっ?」という顔をしたが、虫取り屋が気にしているようには見えなかった。
しばらくして、その意味に気がついた少女は、問い詰めるように虫取り屋に言った。
「あっ、『正式に取った事』にしたんですね。ズルイです」
少女のその言葉に、虫取り屋は一瞬足を止めると、
「ズルイ? オレがか」
と、答えた。こんな些細な事で彼が足を止めるとは、信じられないことである。
「そうです。虫取り屋さんは、ズルイです。アカシアの力を使い放題して。わたしには、そんな事は出来ないのに」
理沙は、不満そうにそう主張した。
神工知能アカシアには、アカシック・レコード──すなわち、この世の事象を書き換える力がある。理沙は、そのアカシアの端末なのだ。アカシアにコマンドを送る方法さえ分かれば、理沙にも事象を自由に書き換える事が出来る……はずだ。
「嬢ちゃん、願えばその通りになる。それは、ある意味、間違いでは無いが、願いを叶える為には努力が必要だ。覚えとけ」
虫取り屋は、さも知ったかぶりのように理沙に言った。そして、そのまま通りを左へ曲がると、スタスタと歩いて行った。
「アン、もう屁理屈ばかり言っちゃって。ちょっと、待ってください。置いてかないで」
理沙は、慌てて虫取り屋の後を追った。
そして、しばらく歩くと、二人は通りに設置してある立て看板の地図を見つけた。
「えーっとぉ……電車の駅は、ありませんね……。どうしましょう」
理沙が難しい顔をしていると、虫取り屋は、
「仕方がない。駅のあるところまで、バスで行くか」
と、言った。
「それしか無いようですね」
理沙も賛同した。
そこで、二人は地図からバス停を探し出すと、路地から大通りへ向かった。
タクシーを拾うという事も考えられなくは無かったが、貴重なお金をここで散財する訳にはいかない。それに、虫取り屋が一緒では、乗車拒否をされるかも知れなかった。
大通りへの道を、二人は黙々と歩いていた。交わす言葉は、ない。
理沙は、あまりの気不味さから、虫取り屋に声をかけた。
「バス停、見つかるといいですね」
「そうだな」
「駅へ向かう路線だと、もっと嬉しいですよね」
「その通りだな」
「えーと、……」
虫取り屋の投げやりのような返事に、理沙は話すことが無くなってしまった。
──気不味い
「えっとぉ、ずっとハンバーガーばかりでしたから、今日のお昼は、少し違うものを食べましょうね」
彼女は、何とか場を和ませようと、そう虫取り屋に言った。
「ハンバーガーの他にも、美味いモノがあるのか?」
「はい。お蕎麦やうどん、お寿司とか。虫取り屋さんは、いつもは、どんなものを食べているんですか?」
理沙のこの問に、虫取り屋は足を止めた。そして、腐った魚のようなその瞳に、一瞬だけ意思が灯ったように見えた。
「そうさなぁ。オレは、普段は食い物を口にすることがない」
その答えに、理沙は驚いた。
「何も食べないんですか! お腹が減っちゃいますよ。だから、そんなに不健康そうな顔をしているんです。人間は、一日三食、きちっと食べないと、元気が出ないんですよ」
少女の言葉に、虫取り屋はしばし黙っていたが、「ふう」と溜息を吐くと、
「オレは人間じゃないからな。ただのプログラムだ。食事を楽しむようには創られてはいない」
と、諦めたような口調で言った。
「そ、そんな。それじゃぁ、もしかして、ハンバーガーを食べたのも……」
「ああ、初めてだ」
「だからなんですね。そんなんじゃ、人生、楽しみってものが無いじゃありませんか。だから、いつも不景気な顔をしてるんですね」
理沙に言いたい放題を言われて、虫取り屋も少し頭にきたのか、
「ほっといてくれ。これは生来だ。文句があるなら、プログラムを組んだアカシアに言ってくれ」
と、応えた。
すると、理沙はニッコリ微笑んで、こう言ったのだ。
「ああ、良かった。虫取り屋さんも、そんな風に怒ることもあるんですね。安心しました」
「安心?」
虫取り屋には、理沙の言った事が理解出来なかった。
「わたし、虫取り屋さんが、ただの無機質な『プログラム』じゃないんだって分かって、ホッとしました。虫取り屋さんは、ちゃんと独立した『人格』を持っているんです。そうじゃなきゃ、これから長い旅を一緒にすることは出来ません」
呆然としている虫取り屋に、理沙はそう言ってのけたのだ。
「…………」
虫取り屋には、この理沙の言葉がイマイチ理解できなかった。バグを消去する為にだけ生み出された自分に、人間らしさなど必要ない。いや、そんなことを考えたことすらなかった。
彼女の言動に心を奪われていた為だろうか? 虫取り屋は、しばし、路地の一角に棒立ちになっていた。
だから、彼の行動が一瞬遅れてしまったことに、誰が文句を言えようか。
理沙の目の前で、虫取り屋の腹は鮮血を吹き出していた。彼の背中には、凶悪な邪気を放つ人外のモノが立っていた。
「き、きゃあああ。虫取り屋さん!」
ほんの少しの、ただの一瞬の隙であった。しかし、その瞬間を『鬼』は見逃さなかった。
「オマエ、オレタチノジャマヲスル。オマエヲ、マズ、ハイジョスル」
異様な声が聞こえた。まるで、ヒトではないものが無理をして人語を発しているかのような、違和感のある声であった。
しかし、虫取り屋は、その言葉を最後まで聞くことは出来なかったかも知れない。彼は、腹から血を吹き出しながら、そのまま前のめりに地面に倒れ伏したからだ。
彼の倒れたあとには、左手を鮮血で濡らした『鬼』が立っていた。黄色のトレーナーを着たソレは、額に一本の角を生やしていた。そして、その憤怒の表情で、理沙を睨みつけていたのだ。
「あ、あああ……」
理沙は、それ以上の言葉を出すことが出来なかった。悲鳴すら忘れて、その場に立ち竦んでいた。
「ツギハ、オマエダ。オレトイッショニ、キテモラオウ」
ジリジリと近づいて来る鬼に怖気づいたのか、少女は逃げることも出来ずに、その場で震えていた。