鬼々怪々(1)
理沙と虫取り屋は、ハンバーガーショップの窓際の席で、注文の品が出来上がるのを待っていた。
待っている間、理沙は、店員が出来たばかりのハンバーガーを紙で包んでいるところを眺めていた。店員はマニュアル通り、テキパキと仕事をこなしているように見えた。
ドリンクは、ホットコーヒーが二人分。それから、ポテトをスコップですくって紙袋に流し込む。これで注文のセットが完成する。
「お待ちどうさまでした。ごゆっくりどうぞ」
ハンバーガーとコーヒーが二人分乗ったお盆を持ってきた店員は、そう言った。テーブルの上に、注文した食事が乗ったトレイを置くと、代わりに番号の書いてある大きな札を持ち去っていった。支払いは、注文の時に理沙が払ってある。
「さ、虫取り屋さん、どうぞ」
理沙はそう言って、トレイの上に乗ったハンバーガーとコーヒーを、彼に薦めた。
虫取り屋の焦点の定まらない腐った魚のような眼差しが、目の前のハンバーガーとコーヒーを見ていた。いや、本当は目の前のテーブルの方に、顔が向いていただけなのかも知れない。
理沙は、トレイの上のハンバーガーを一つ取り上げると、虫取り屋へ差し出した。
「はい、どうぞ」
温かい紙包みを薦められた虫取り屋は、少しだけ不思議そうに少女の方を見た。
「これは、オレの分、なのか?」
虫取り屋の質問に、理沙は「はい」と答えると、半ば強引にハンバーガーの包を虫取り屋に握らせた。
彼は、仕方なく紙包みを受け取ると、それをしげしげと眺めていた。
虫取り屋がハンバーガーを手にした事を確認すると、少女は自分の分の包を取り上げた。紙包みを丁寧に開くと、パンズの端っこに小さな口で<カプリ>とかぶりついた。昨日よりも温かい感触が、口の中に広がっていく。
一方の虫取り屋は、目の前の包を開きもせず、じっと眺めていた。
そして、しばらくすると、
「これは、昨日のとは別の材料が入っているようだ」
と、呟くようなか細い声で言った。
「大丈夫ですよ。昨日のは『チーズバーガー』でしたが、今回は『ベジタブルミックス』というのを頼んでみました。少し味や食感が違いますが、野菜も摂れますし、美味しいですよ」
少女の言葉に促されて、虫取り屋がゆっくりと紙包みを開くと、中にはちぎったレタスと玉ねぎのみじん切りが、たっぷりと挟み込まれていた。
「これも……、美味い食べ物、なのか……」
虫取り屋が、独り言のように呟いた。
「はい。美味しいですよ」
理沙が続けて言うと、虫取り屋はハンバーガーの一端をかじり取ると、口の中で咀嚼していた。
「ど、どうですか?」
理沙が心配になって、虫取り屋の顔を覗き込んだ。
虫取り屋は、軍用のレーションか栄養補填剤の塊でもかじっているように、無表情で口の中のモノを咀嚼していた。
そして、充分に噛み砕いた後、<ゴクリ>と口の中のモノを喉の奥に流し込んだ。そして……、
──しばらくの間、沈黙が支配した
虫取り屋は、ゆっくりと顔を上げると、
「美味いな」
と、一言だけボソリと口にした。
「はい」
理沙はニッコリと微笑んで、そう応えた。
もう、彼のホームレスのような風体も、腐った魚のような生気のない瞳も、気にならなかった。虫取り屋は、今まで解らなかった自分の秘密を教えてくれたのだ。
(この人とだったら、きっと上手くやって行けるわ)
少女の思いは、確信に変わっていた。
二人はしばらくハンバーガーをかじっていた。特に虫取り屋は、一口々々を吟味するように、ゆっくりと食べ進んでいた。
傍目には、とても美味しく食べているようには見えなかったが、理沙は気にしなかった。
そんな食事の途中、虫取り屋は理沙に話しかけた。
「さて、お嬢ちゃん、これからどうすべ」
唐突な問に、理沙は満足な答えを出すことが出来なかった。
「……そうですね。しばらくは、このまま逃避行、……でしょうか。何か当てがある訳ではありませんし」
それを聞いた虫取り屋は、少し頷くと、
「なら、オレと一緒に来るか?」
と、理沙に問うた。
「ご一緒に、ですか? しかし、一体どこへ……」
しばらく、虫取り屋は黙っていたが、コーヒーを一口飲んでから、こう言った。
「四国へ行く」
「四国……ですか。でも、四国のどこへ」
「四国の高松に、『キナシ』と言う処がある。そこへ行く」
その言葉に理沙は、こう応えた。
「『キナシ』? ……ですか。どんなところ、なんでしょう」
すると、虫取り屋は、
「覚えが無いか? 『キナシ』とは、『鬼』が『無』しと書く」
「鬼が無し……『鬼無』ですか! それなら、母方の祖母の故郷です。小さい頃には年賀状が届いていて……。その時には、どう読むか、分からなかったのですが」
「やはり、そうか……」
虫取り屋は独り言のように呟くと、また黙々とハンバーガーをかじり始めた。
鬼無とは四国香川県にある町の一つで、桃太郎伝説縁の地の一つに数えられている。
その昔、孝霊天皇の第八皇子である稚武彦命がここを通りがかった時、この辺りに出没して悪事をはたらく『鬼』を退治したのだという。
稚武彦は瀬戸内海の小島をアジトにしている鬼たちに奇襲をかけ、大勝利となった。そして凱旋の後、復讐に訪れた鬼たちの生き残りを、この地で最後の一人まで殺し尽くした。そして、鬼は居無くなった。それに因んで、その地を鬼無と言うのだそうだ。
「鬼無へ行けば、鬼の手がかりがあるのでしょうか?」
理沙が、不安げに虫取り屋に質問した。
すると、彼は、
「物や土地の名前には、必ず意味がある。『言霊』という事を知っているか」
と、応えた。
「はい、聞いたことはあります。『言葉』には『魂』が備わっている。そのため、『口にした言葉は現実のものとなる』、と」
「そうだ。名前をつけるということは、そのモノを定義付けて認識することだ。そして、そのモノの名を口にすることは、そのモノを呼び出すことと同義だ。鬼無は、鬼が無しと書く。ということは、そこは『鬼が存在しない』という意味となる」
それを聞いた理沙は、少し明るい顔になった。
「それでは、鬼無へ行けば、『追ってくる鬼から逃げられる』ということですね」
虫取り屋は、少女の方をちらりと見ると、
「そういう事になるか……な。ま、気休めかも知れんが」
と、答えた。
「いいえ。今まで虫取り屋さんが教えてくれたことは、現実に起こったことを説明できていました。わたしは信じます。それに、虫取り屋さんも、アカシアの端末か何かなのでしょう。あなたも、既に起こった事象を変えることができました」
理沙はそう言うと、まだ温かいコーヒーを口に含んだ。
「ま、オレは、ただのデバッグプログラムなんだがな。そんな大層なモンじゃない」
虫取り屋は無表情にそう呟くと、もう一度ハンバーガーを口に運んだ。
(鬼無かぁ。そこへ行けば、何とかなるかも知れないわ)
──長い間、ただ鬼から逃げ続けていた。しかし、これからは違う。目的とする場所が出来た。
それは、理沙にとって、どんなに心強いことだろう。
しかし、そんな事など眼中に無いように、眼の前の貧相な男は、ただ黙々とハンバーガーをかじっていた。