中央本線に乗れ(4)
「JRの中央本線で、ここから東京まで行けるなんて、初めて知りました」
駅の案内板を見て、小声で傍らに立つ男に話しかけたのは、東条理沙──端末の能力を持つ少女であった。
小さな声なのは、こんな事を話題にしていると「どんだけ田舎者なんだ」と、周りの人達に思われることを心配してのことだ。だが、その所為で彼女の声が聞こえなかったのか? それとも全く興味が無いのか? 連れの男性は、ボウと突っ立ったままで、何の反応も示さない。古びた黒のコートを羽織り、鍔広の帽子を深く被ったその人こそ虫取り屋──この世界のデバッガの役割を担う存在である。彼のボンヤリとした腐った魚のような瞳は、掲示されている時刻表に向けられてはいたものの、発着時刻の数字をちゃんと見ているのかどうか……。
そんな二人に、明るい大きな声がかけられた。
「じゃ、理沙ちゃん。自分はこれからお弁当を買いに行きますので」
理沙が振り返ると、カッチリとした背広に、キッチリとネクタイを締めた大男が居た。彼は、鬼村拓哉。つい先日に知り合って、たまたま異形の存在──鬼と遭遇し、共闘することとなった男である。
だが、凶悪で戦闘的な怪物と渡り合うだけの実力を持っていた彼は、やはり只者ではなかった。
──皇宮護衛官
この国の象徴であり、霊的な要となっている天皇陛下や皇室の方々をお守りする警察庁のエリートである。名前に『鬼』の字を冠するだけあって、彼は鬼道──遥か昔に邪馬臺國の女王卑弥呼が使ったと言われる秘術の使い手であった。その実力は、鬼と遭遇してから後の現在でも、ちゃんと地面に足をつけて立っているどころか、五体満足であることから証明される。
そんな鬼村が、どうしてこんな片田舎に居たのかは疑問だが、彼の説明によると、
「法事のついでに観光でもしようかと思って」
だそうである。
本当かどうかは分からない。
しかし、その力と技で、ローカル線の電車で襲ってきた鬼達を撃退したり、皇宮警察本部のコネで一夜の宿を提供してもらえたりしたのだ。つい数日前までは、たった一人で鬼から逃げ回っていた理沙にとっては、虫取り屋同様、生命の恩人であった。
「鬼村さん、さっき、牛丼屋であんなに食べたのに、もうお腹が空いちゃったんですか?」
彼の食欲にさすがに呆れ果てた理沙が尋ねると、
「そうなんだよねー。それに、せっかく諏訪まで来たんだから、何か名物を食べたいと思うでしょう。ねっ」
と、四角い顔に極細の筆で描かれたような糸目を更に細くしていた。
「何が『ねっ』ですか。食べ過ぎでお腹を壊しても知りませんよ」
そう理沙が窘めても、全く平気な顔をしている。それどころか、
「理沙ちゃんは、お腹減らない? 特産品の美味しい物を買っておくなら、今のうちだよ」
と、応える始末。
「わたしは、もうお腹いっぱいです。お弁当を買いに行くなら、お一人でどうぞ」
と、少女は素っ気ない態度でそっぽを向いた。反動で、セミロングのサラサラの頭髪がふわりとなびく。
「そうですか~。それじゃ、自分は、チャチャッと買ってきますね」
と言って、鬼村は、そそくさとキヨスクか売店を探しに行ってしまった。
「ふぅ」
そんな彼の後ろ姿が見えなくなるのを待って、理沙は大きな溜息を吐いた。そして、傍らの冴えない男の顔を見上げると、こう言った。
「今のうちですね、虫取り屋さん」
そんな少女の言葉が届いているのかどうなのか? 反応を示さない虫取り屋に構わず、
「鬼村さんとは、ここでお別れ。これ以上、あの人を巻き込むわけにはいきません。わたし達が見つからなければ、このまま東京に帰ってくれるでしょう」
理沙は、鬼に追われ始めてからずっと、彼女の近くに居た人達が次々と殺されているのを見てきたのである。鬼村が皇宮護衛官で、物凄く強い人って事は分かっていたが、所詮はただの人である。アカシアのデバイスである自分や虫取り屋とは、根本的に存在そのものが違うのだ。
──もうこれ以上、自分の所為で人が死ぬところは見たくない
これが、彼女の嘘偽らざる思いであった。
(えっとぉ、……ごちゃごちゃしてて、分かりにくいなぁ。とにかく、折角JR線の駅まで来られたんだから、何とかして四国にまで辿り着かなけりゃ)
少女は、壁に掲示されている路線図を睨みつけると、それを解読しようと躍起になっていた。
(ここって、中央本線の駅だから、このまま新宿まで出られるのよね。そうしたら、東京駅から一気に新幹線で岡山にまで直行できるわ。あっ……でも、駄目だわ。それだと、東京に帰る鬼村さんと一緒になっちゃう。それに、東京みたいに人のたくさんいるところで鬼に襲われたら、大惨事になっちゃう。新幹線だって、時速二百五十キロ以上で走ってるのよね。鈍行の田舎のローカル電車の中でさえ、酷いことになったのに……。やっぱり、東京経由は諦めよう)
理沙は、数年前に同級生の鉄道ファンが、時刻表片手に難しい乗り継ぎの事を話題にしていたのを思い出していた。そんなことも、今では平和だった時の記憶の一欠片に過ぎない。
気を取り直して、もう一度路線図を見上げる。
東京経由のルートを捨てるとなると、諏訪から甲府へ出て、見延線で静岡に行くルート。
塩尻を経由して長野県を縦断し、一気に名古屋へ至るルート。
他は……、八王子を経由して横浜へ向かう。……いや、これは駄目。上り方向は、鬼村と同道することになる。
(それ以外だと……、高速バス!)
理沙は、日本各地に張り巡らされた高速道路を走るバスの事を思い出した。
「虫取り屋さん、高速バスを使うのはどうでしょうか。これなら旅費も節約できますし。最高速度が百キロくらいのバスだったら、いざという時には飛び降りられるでしょう」
確かに、速度が半分以下になった分、脱出は容易かも知れない。だが、
「高速を使うと、渋滞や事故に巻き込まれる恐れがある。SAでの休憩の時も、狙われやすいぞ……」
と、呟くような微かな声が降ってきた。駅の騒音で簡単に掻き消されそうなその言葉は、いつも通り、理沙にははっきりと聞き取ることが出来た。
「うーん……、そうですね。確かに……」
そう言われると、高速バスも危険なのには変わりない。彼女の記憶には無いが、以前にバスで移動をしていた時にも、彼女達は同乗していた鬼達に襲われているのだ。
自動車内だけではない。道路上で、鬼の運転する車に遭遇する事くらい、容易に想像できる。事故など起こしたら、一般車両や大型車を巻き込んで大惨事になる。可燃性の危険物や、毒劇物を運んでいるトレーラーだって走っているのだ。そうなれば、処理や救助に来た人達にも迷惑を掛ける。どころか、救援に来たその人達が鬼である可能性だってあるのだ。
では、公共の交通ではなく、自分で運転すれば……。もしかしたら、事故になる前に逃げ延びることができるかも知れない。この案はどうだろう?
確かに、この前、虫取り屋が運転免許証──正規に入手したものでは無いだろうが──を持っているところを見たことはある。しかし、レンタカーにしろ何にしろ、『虫取り屋が運転席に座って自動車を運転する』ところが想像できない。あまりにも不自然な光景に見えるに違いない。
虫取り屋に護衛をお願いしてから心に余裕が出来た理沙には、それくらいのリスクなら想像出来るようになっていた。改めて、彼女は、「はぁ~」と深い溜息を吐いた。
「やっぱり、電車かぁ」
公共交通機関には変わりないが、並走車がいないだけに、自分の身の回りだけを警戒すればいい。さすがの鬼達も、JRのように乗客の多い路線では、事故を起こすような大掛かりな事はしてこないだろう。
だが……、
(だからと言って、襲われないことなんて保証されていないわ。四六時中、狙われていると思わなけりゃ。でも、電車や自動車を使わないで四国までなんか行けない。江戸時代じゃないんだから、歩いて行くわけにも行かないし……)
折角ここまで来たのに、いざ電車に乗ることを考えようとすると、どうしても襲撃される危険を思ってしまう。だが、そんな事は言っていられない。これまでにも鬼は襲ってきたのだし、決して少なくはない犠牲者も出ているのだ。自分の所為で……。
であれば、四国の鬼無まで一刻も早く辿り着くのが、これ以上の犠牲者を出さない事につながる。
そんな事は、理沙にだって痛いほど分かる。分かりきっている。
でも、もしかしたら他にも方法があるのではないか?
自分は超次元演算知性体の端末なのだ。その気になれば、自由に事象を書き換える事が出来る。虫取り屋も、それに近い能力を持っているのだ。そんな、神の如き異能を以ってすれば、もっと良い方法が見つかるのではないか?
理沙は、どうしてもそれを考えずにはいられなかったのだ。
(どうすれば……)
思考の果てに、彼女は『あること』に気がついて、隣の帽子の男を見上げた。
「虫取り屋さんっ」
「…………」
理沙の問いかけに、虫取り屋は、鍔広の帽子を深く被ったまま、何の反応も見せなかった。
「虫取り屋さんっ」
「…………」
再度問いかけるも、結果は同じだった。
(負けるものか)
「虫取り屋さんっ、たらぁ」
「…………」
彼女の問いかけが届いているのかどうかも怪しかったが、理沙は諦めなかった。
「虫取り屋さん! お願いっ、返事をして。虫取り屋さん」
幾度も問いかける少女に、やっとこさ囁くような声が返ってきた。
「…………何だ」
──応えた!
少女は、この機会を逃すまいと、自分の意見がはっきりと伝わるように、しかし、言葉を選びながら虫取り屋に尋ねた。
「虫取り屋さん、アレですよ、アレ。瞬間移動。瞬間移動を使いましょう」
彼女の言葉に、黒いコートで包まれた人形に変化が表れた。両手をコートのポケットに突っ込んだままではあったが、その上の顔は理沙の方を向いたのだ。そこには、焦点を結ぶことのない腐った魚のような淀んだ瞳が見える。
彼女は、もう一度問うた。
「瞬間移動です! さっき、やりましたよね、虫取り屋さんっ」
理沙は、今朝、奥深い山中から諏訪まで移動したことを言っているのである。その能力を使いさえすれば、四国までなんて、あっという間だ。
「だから、虫取り屋さん。瞬間移動」
本当は聞こえていないのか、それともとぼけているのか。虫取り屋は、執拗に『瞬間移動』のことを繰り返す理沙を前に、目立った反応を示さなかった。
「虫取り屋さん、聞こえてますか!」
「……………………」
彼女は何度も何度も、繰り返し尋ねていたが、虫取り屋の反応は芳しく無かった。
「もうっ、早く教えて下さい。ぼやぼやしていると、鬼村さんが返って来ちゃいますよ。ねぇ、虫取り屋さんってば」
理沙の言った『鬼村』の事がキーワードだったのだろうか。虫取り屋は、ようやく重い口を開いた。
「……できねぇな」
しかし、出てきたのは、少女の期待した言葉では無かった。
「どうしてですか? ついさっき、やってくれたじゃありませんか。そのお陰で、あんな人里離れた山奥から、諏訪まで辿り着けたんですよね。だったら、もう一度、同じことをするだけじゃないですか」
諦めのつかない理沙は、尚も追求していた。
「…………」
「ねえ、虫取り屋さん」
彼女がここまで駄々をこねるのは、近年まれに見ることだった。人に迷惑をかけないよう、鬼に見つからないよう、常に大人しくして影の中に身を潜めてきたのだ。
虫取り屋が、少女のそんな事情を知ってか知らずか。それとも、理沙の忍耐が勝ったのか。遂に男は続きを口にし始めた。
「……できねぇんだよ」
出てきた言葉は希望通りではなかったが、ここまで食い下がった理沙の粘り勝ちである。
「どうしてですか!」
出来ないなら出来ないで、その理由を知りたい。でなければ、理沙にとっても納得がいかない。
「それは……な。アレは、オレの能力じゃねぇからだ」
だが、彼が口にしたのは意外なことだった。
「移動ができたのは、偶然、地下の霊脈が繋がっていたからだ。昨夜泊まった社は、強い霊気を持っていた。その上、アイツ──巨鬼怒蘇の出現だ。多分、アイツも鬼部の霊脈を通して、オレ達の夢世界に乗り込んで来たんだろう。それが引き金になった。フォッサマグナと中央構造線の交差している諏訪に抜け出られたのは、それが都合良く働いただけに過ぎん」
だが、例え虫取り屋の言う通りだったとしても、同様の現象を彼が引き起こせないはずはない。だからこそ、この男は『虫取り屋』と呼ばれているのではないのか。
そう言いたげな理沙の胸の内を察したのだろうか? 彼は、言葉を続けた。
「前にも教えたよな。アカシアに働きかけてアカシック・レコードの内容を書き換えるってことは、恐ろしく危険なことだ。因果律を逸脱した改変は、アカシック・レコードに歪を生み出す。それは、大きなうねりを伴って全体に広がり、この世界の崩壊に繋がりかねない。アカシアは、アカシック・レコードをホロメモリとして駆動している。自身の破壊を引き起こしかねない事象を、アカシアは絶対に許さない」
そうだった。それは、理沙も重々承知している。でも……、
「でも、ちっぽけな人間の二人くらいの移動なら……。それも、世間から隠れて生きているわたし達だけなら……。であれば、それほど大きな歪には、ならないんじゃないでしょうか」
少女は諦めきれなかった。もっと安全で簡単な方法があるのなら、教えて欲しいくらいだ。
「……嬢ちゃん。人間の二人は、馬鹿にできんぞ。アインシュタインの式、E=MC²──二人合わせて百キログラムほどの質量だが、光速の二乗を掛け算する。これがどれほどのエネルギーになるか、計算してみるか。ましてや、それを支える情報量は、重力定数やアボガドロ数のほかにも、プランク定数分の桁数だけ倍加される。それは、とんでもない大きさなんだ」
虫取り屋が口にしたのは、彼の身なりや雰囲気とはかけ離れた、難しい専門用語だった。
「そ、そんな難しいことを言われても……、わたし……、分かりません」
理沙は、中学校の履修課程を途中にして、鬼に襲われ始めた。以来、ずっと鬼から逃げ回る暮らしだったのだ。それ故、同じ年頃の少年少女達が習っているような知識は、学習することができなかった。それは、彼女にとっては不幸なことであったし、彼女のコンプレックスとして、その身の奥底に染み付いているのである。
ましてや、大学に入って習うような公式や計算など、出来ようはずがない。
その事実は、『瞬間移動で一足飛びに目的地へ向かえない』こと以上に、彼女の心を暗くした。
「その、なんとか定数とか、エネルギーとか言われても……。わたし、ずっと学校に行っていなかったんです。わたし、そんな難しい事なんか言われても、分かるはずがありません。ましてや、計算なんて……。酷いです、虫取り屋さん。ひ、酷い……」
彼女には、『瞬間移動が出来ない』とか、『どの交通機関を使うか』などは、もうどうでもよかった。ただ、無性に自分が哀れに思えていた。
──どうして自分だけがこんな思いをさせられなければいけないのか
それが理不尽に感じられて、どうしようもなかった。
そんな小さな少女に、非情にも無機質で無感情な声がかけられた。
「行くぞ、嬢ちゃん。列車が来た」




