山越え(9)
翌日もよく晴れてはいたが、山奥の早朝では外は未だ薄暗かった。
「ふわぁー……、眠たい」
社務所の座敷で、理沙は眠気を噛み殺していた。
目の前のテーブルには、彼女の左側に虫取り屋、その正面に鬼村が座っていた。
三人の視線の交差点──テーブルの中央には、昨夜と同じ土鍋が置かれている。
それを鬼村は、ニコニコとあからさまに楽しげに見つめていた。
一方の虫取り屋は、相も変わらず腐った魚のような澱んだ瞳を前に向けていた。まるで、「朝食には全く興味がない」とでも言うように。分かってはいることだが、それは、起き抜けの少女を不快にさせていた。
「さぁー、お待たせしました。朝ご飯が出来ましたよぉ」
鬼村は、得意満面の笑顔でそう言った。そして、土鍋の蓋に手をかける。
「さぁ、頃合いです。玉子が上手く固まっていますように。……さんー、にぃー、いちぃー、じゃっじゃーぁん」
掛け声とともに蓋が開けられた土鍋から、白い湯気の塊が立ち昇った。
「出来てますねぇ。今朝は、昨夜の猪鍋のお出汁で作ったお雑炊です。……ほらぁ、美味しそうでしょう」
鬼村は、四角い顔に極細の筆で描かれたような目を更に細めて、理沙にそう話しかけた。同時に、食欲をそそる出汁と醤油の混じった香りが漂って来る。それは、鬼村でなくとも、自然に笑みがこぼれてきそうな程だった。
「ねぇ、理沙ちゃんも虫取り屋さんも、お腹空いてるよねぇ。食べたいでしょう。食べたいよねぇ。……今、お茶碗に注ぎますからねぇ」
彼は、さも楽しそうに手ずから玉杓子を取った。それを使って、それぞれの茶碗に、出来たての雑炊を注いでいた。
「ほらぁ、理沙ちゃんの分ですよぉ」
目の前に出された茶碗に、少女は自然に両手を差し出してしまった。
「あっ……」
何に気が付いたのか、彼女は一度出した手を引っ込めようとした。だが、それよりも早く、鬼村は茶碗を理沙の手に置いてしまっていた。
「恥ずかしいことなんてありませんよぉ。ちゃんとお腹が空くのは、健康な証拠です。はい、これがお匙ですよ」
有無を言わさず、彼女の手に茶碗と匙を持たせた鬼村は、いそいそと次の茶碗に雑炊を注いでいた。
目一杯雑炊を注いだ茶碗を自分の前に置くと、三杯目の茶碗を正面の虫取り屋に差し出す。
「虫取り屋さんもどうぞ」
鬼村の差し出した茶碗が見えているのかどうか? 見るからに貧相な虫取り屋は、畳に胡座をかいたまま、無反応のままだった。
「あれぇ、どうしたんですか? 美味しいですよ。……ああ、毒なんて入ってませんから」
そう言うと、鬼村は一旦茶碗を置いて、自分の分を食べ始めた。雑炊とは言え、茶碗いっぱいのそれをあっという間に食べ尽くすと、
「美味い! これは美味いです。猪と山菜の出汁が濃厚。柔らかくなったご飯が絶品。玉子が程よく蕩けていて食欲をそそる。これは、食べずにはいられない。……どうです、欲しくなったでしょう」
満足げな笑みで自画自賛をする鬼村は、たとえ毒が入っていようと平気に違いない。
「本当に美味い。これは止まりません」
彼はそう言って、おかわりを始めた。
二杯目を持ち上げたところで、「ハッ」と気が付いたように理沙の方を見た。
「あっ、理沙ちゃんもどうぞ。冷めないうちに」
そう言われて、彼女も、
「あっ、はい……」
と言って、茶碗を取り上げた。
別に毒を気にしていた訳ではない。鬼村の豪快な食事風景を目の当たりにして、呆気に取られていたのだ。
それでも、お腹が空いているのは事実だ。茶碗を口元に近づけると、匙で中身をすくい、口に運んだ。暖かく柔らかい雑炊の旨味が、舌の上に広がる。
「わぁ、美味しいですね、これ。昨日のお鍋の出汁が効いてます。それに、この玉子。こんな山奥の神社で、よく玉子なんて置いてありましたね。本当に美味しいです」
少女の顔が、一瞬で明るくなる。
「…………」
それに反応したように、虫取り屋は、無精髭をはやした顔を理沙の方へ向けた。
「ねっ、毒なんて入ってません」
追い打ちをかけるように、鬼村の言葉が続く。そして、それを聞いた理沙は、恥ずかしくなって頬を染めた。
「そのようだな……」
ようやく、虫取り屋が口を開いた。
「毒が入っていようが、オマエに効くはずもないからな」
独り言のような呟きが、皮肉のようなことを言う。
「それは、虫取り屋さんも同じでしょう」
鬼村も負けてはいない。微笑ましい笑顔を崩すこともなくそう言うと、虫取り屋の分の茶碗を再び差し出した。
「ふむ……。それもそうだな」
やっと納得したのだろうか。虫取り屋は、差し出された茶碗を受け取った。
そうして、左手の茶碗を、澱んだ目でまじまじと眺めると、
「美味かったか?」
と、呟くような言葉を発した。
「……へ? ……あ、はい。美味しかった……で、す」
それが自分に向けられたものだと、やっと理解した理沙は、慌ててそう応えた。
「…………」
彼女の応えに、彼は黙ったまましばらく沈黙していた。だが、少し経つと、手元の茶碗を眺めてこう言った。
「そうか……、美味いのか……」
そこで、初めて理沙は重大な事に気が付いた。
「……あ、虫取り屋さん。わたしを毒見役に使いましたね。酷いです」
先程のやり取りでも出たように、頑健な上に鬼道まで心得ている鬼村では、毒などお構いなしだと思ったのだろうか? それとも、理沙に味を確かめさせたかったのだろうか?
今に至っても、彼は、その身なりとは似つかわしくない、ピンクの花柄の茶碗を左手に持ったままの姿勢を崩していなかった。
「酷いなぁ。だから、毒なんて入っていないし、ちゃんと美味しいですから」
鬼村も不満を言った。ただし、三杯目の雑炊を喉に流し込んでからだったが。
「うぅー、もうっ。朝食は大事なんです。虫取り屋さんも、ちゃんと食べて下さい。ほら、冷めちゃう前に」
理沙は、半ば自棄糞気味に虫取り屋にも食べるように促した。
「うむ……」
彼は、少女に言われて、やっとテーブルの上の匙を取り上げた。茶碗の中身をそれで少しすくうと、口元まで運ぶ。匙から立ち昇る湯気が、血色の悪い顔に重なる。
もしかして冷ましているのだろうか──彼は、数秒間、そのまま目の前にある雑炊の乗った匙を眺めていた。
つられてしまったのか、理沙も鬼村も、なにかコンクールの審査員のような虫取り屋の振る舞いに、自分が食べるのも忘れて魅入っていた。
そんな二人の様子に気付いたのかどうか。彼は、おもむろに口を開くと、右手に握っている匙を口中に入れた。程なくして引き出された匙には、何も残っていなかった。
一方の彼の口はというと、投入された雑炊を吟味するように、モゴモゴと咀嚼する動きを見せていた。
「…………」
咀嚼物が喉を通るまでの数秒、理沙と鬼村は、固唾を呑んで見守っていた。
──果たして、虫取り屋の評価は?
「……そこそこ美味いな」
やっと虫取り屋の評価が聞けた。
「そうですよね、美味しいですよね。何しろ、自分が手づから作ったものですので」
「味が分かって何よりです」
よく考えると、そこまで大袈裟なことではなかったのだが、虫取り屋に『美味しい』と言ってもらえて、二人は安堵していた。
「じゃ、じゃあ、皆でいただきましょう」
大きく明るい鬼村の声に、
「はい」
と、少女は首を大きく縦に振って頷くと、改めて胸の前で両手を合わせた。
「いただきます」
理沙は明るくそう言うと、本格的に朝食の雑炊を摂り始めた。
──そして、土鍋の中が空になった
「いやぁ、喰ったくった。栄養が身体に行き渡るような気がしますね」
テーブルの前で正座をしていた鬼村は、そう言うと両手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
満足そうな顔の極細の目は、(⌒ ⌒)のような形を作って、如何にも満足げであった。
「ごちそうさまです」
理沙も両手を合わせていた。
「しかし、鬼村さん。お腹、大丈夫ですか? 鍋の中身、殆ど鬼村さんが食べてましたよね」
雑炊とは言え、五〜六合くらいの量は有ったはずだ。理沙とて、お代わりはしたものの、茶碗に二杯半が限度だった。更に虫取り屋といえば、せいぜい小さなお茶碗一杯でしかない。
「じゃぁ、片付けますね。理沙ちゃん、お椀取って下さい」
鬼村に言われて、ハタと気が付いた理沙は、
「あっ、洗い物だったら、お手伝いします」
と、自ら片付けの手伝いに立候補した。
「別にいいですよ。昨夜も大変だったんだから、座ってゆっくりしてて下さい」
そう言って、鬼村は遠慮していたが、
「鬼村さんにばかりにやらせるのは、気が引けます。せめて、片付けくらいは手伝わせて下さい」
と、彼女はきっぱりと言い切った。
「だとさ……。本人がしたいって言ってるんだ。好きにさせてやれ」
呟くようなか細い声は、虫取り屋だった。
「そうですかぁ。……じゃぁ、理沙ちゃん、お願いします。エプロンとか無いし、水は超冷たいけど。大丈夫?」
確かに、人並み以上の苦労をしてきた理沙だが、未だまだ十代の少女である。しかも、邪鬼に追われて、神経も参っている筈だ。
鬼村は、それを気にしているのである。
だが、彼女のコンディションなど、とっくにお見通しの虫取り屋が『やらせろ』と言うのだ。手伝わせるしかない。
鬼村は立ち上がると、土鍋の中に、テーブル周辺の小物などを詰め込むと、土間の向こうの流しに移動した。理沙も、茶碗や匙などを持って後に続いた。
「本当に冷たいですよ。自分が洗いますから、理沙ちゃんは食器を拭いて下さい」
彼はそう言って、氷点に近いはずの水を土鍋に流し込むと、おもむろに食器を洗い始めた。
「お匙なんかだったら、わたしにも出来ます。やらせて下さい」
頑なにそういう少女に、さすがの皇宮護衛官も気圧されてしまった。
「冷たいですよ」
「心配いりません。大丈夫です」
そう言って彼女は、土鍋の底に沈んでいる小物を取り上げるために、水の中に右手を突っ込んだ。予想以上の冷たさに、思わず声が出てしまう。
「うわっ、つめた」
それでも、握った匙と菜箸は離さなかった。
しかし、水から手を抜くと、気化熱で更に肌から熱が奪われる。『しばれる』とは、こういうことを云うのだろうか。
「ほうら、言わんこっちゃない。大丈夫じゃないじゃないですか」
鬼村の細い目は、(ー ー)な感じの表情を作っていた。
それでも受けた恩は返したい。自分は、人並みの暮らしなど出来ない。いつ失われる生命かも分からない。恩返しの出来る時に返しておかないと。鬼の前では、人間の生命など、いとも簡単に失われるのだ。その時に後悔するのは嫌だった。
「大丈夫です」
少女は、やせ我慢をして、スポンジタワシで洗い物を続けていた。
「仕方ないなぁ……」
鬼村の方も諦めがついたのか、もう一つのスポンジを取ると、土鍋にこびりついたご飯粒を擦り取っていた。
それでも、たかが三人分の献立である。十五分もすれば、食器も洗い終わる。二人は、カゴで水気を切っていた洗い物を布巾で拭いていた。
(何だか昔を思い出すなぁ。兄さんと二人で、よくお手伝いをしてたもん)
流浪の少女の意識の中で、遥か昔とも思える光景が甦る。
だが、それも薄ぼんやりとしていて、今の現実を思えば幻にも等しい。でも、それでも、それは理沙の大切な思い出の一つだ。
だから、しびれるような手の冷たさも、柔らかく温い布巾の感触も、全て愛おしかった。
「はい、ご苦労さまです。終わりました。理沙ちゃんが手伝ってくれたお陰で、片付けもはかどりました。ありがとうございます」
鬼村は、何歳も年下の少女に、丁寧に頭を下げていた。
「い、いえ。鬼村さんこそ、お食事を作って下さって、ありがとうございました。しかも、屋根付き、温泉付きの宿まで提供してもらって。こちらこそ、感謝です」
つられて理沙も、頭を垂れていた。
そんな可愛らしい行為をしてしまっている二人は、自分達のそんな姿を認めて、柄にもなくはにかんでいた。思わず笑みがこぼれそうになる。
──これをしも幸せと云うのだろうか?
理沙の中の鬼村に、これまでとは少し違った修飾子が付け加えられていた。
「じゃぁ、理沙ちゃん。そろそろ、出発の用意をしましょう」
少女は、唐突にかけられた言葉で、我に返った。
「あっ、はい。そ、そうですね」
彼女は、一旦顔を上げて、隣に経つノースリーブの背広を着た男を見たのだが、すぐに頬を染めて俯いてしまった。
──親しくなりすぎてはいけない
今までの放浪生活を思い出して、理沙の中の禁忌が、再び頭を擡げた。
過去、親切にしてくれた人達が何人も鬼達の犠牲になっている。彼女は、鬼村にはその後を追って欲しくなかったのだ。
(JR線の駅までだ。そこまで行けたら、この男ともお別れしなくては)
それは、彼女の胸中で硬い決意に変わりつつあった。
「おい……、何してる」
そんな時、低い呟きのような声が、急に耳の後ろから聞こえた。
「ひっ、ひゃあっ」
彼女は、思わず飛び退って、声の主を凝視していた。
「な、なんだぁ。虫取り屋さんじゃぁないですかぁ。びっくりさせないで下さい」
「…………」
理沙の急な動きにも全く興味を感じないのか、虫取り屋は既にいつもの格好をしていた。
少し黄ばんだシャツにヨレヨレのジャケット。古びたボロボロの黒いコートを羽織り、頭には鍔広の帽子を深く被っている。その両の手はコートのポケットの中に突っ込まれていて、今急に敵に襲われたら、反撃も出来ないのではないか? そんな危惧を抱くような立ち姿だった。
相変わらずボウッとしていて、その腐った魚のような淀んだ瞳に何が映っているのか、理沙には想像もできなかった。
「用意は……、出来たか?」
つっけんどんな問に、
「こ、これからです。女の子には、たくさん準備が要るんですから」
と応えて、理沙はツンとした顔をして座敷から出て行った。
昨夜寝所にしていた畳の間に行くのだろう。そこには、理沙の僅かばかりの財産──着替えとちょっとした小物、そして少額の現金が入っているリュックが置いてあった。
出て行った少女に本当に感心があるのかないのか、虫取り屋は、さっきと同じ場所で同じように突っ立ったままだった。
その隣には、無敵の皇宮護衛官──鬼村が立っていた。きちんとノリとアイロンがかかったシャツに、落ち着いた柄のネクタイを締め、かっちりと背広を着ている。ただし、その肩から先は破れていて失われていた。
この寒いのに、ノースリーブの背広とはいい格好だ。しかし、これは、昨日の列車の中で、邪鬼を撃退した時に失われたのだ。
そんな姿の鬼村だったが、何を思ってか、拳法の型のように様々なポーズをとっては、「これじゃない」と言った感じで首を左右に振ると、またその繰り返しをしている。
もう十数回ほど、そんなことをしていたろうか。
遂に飽きてしまったのか、彼は虫取り屋の方を向くと、こう言った。
「やっぱり上手くいきませんね。夢の中では、ちゃんと背広の袖が再生したんだけどなぁ」
彼は、昨夜の夢の中の経験を活かして、その『見てくれ』を何とかしたかったらしい。
「虫取り屋さん。こういうのにも、コツってものがあるんでしょう。教えて下さいよぉ」
馴れ馴れしく教示をねだる鬼村に、虫取り屋はこう応えた。
「そりゃぁ無理だわ。……夢と現実は違う」
にべもない返事に、
「えー、いいじゃないですか。虫取り屋さんには出来るんでしょう。硬いこと言わないで、教えて下さいよぉ」
と、なかなか引き下がらない。
「それは出来ない相談だ。もし、出来てしまったら……」
鬼村に返事をしかけて、虫取り屋は言葉を切った。
その態度に、キョトンとしている大男に、
「その時は……、オレはオマエを不具合として処分しなくちゃならない」
と、虫取り屋は続きを伝えた。
「…………」
その有無を言わさぬ言葉に含まれた真意に、鬼村は気が付いたのか? しばらくの沈黙が、二人を包んでいた。
「や、やだなぁ。冗談ですよ、冗談……。もう、虫取り屋さんったら。本当に真面目なんだからぁ」
と鬼村は、はぐらかすようにそう言って、ハッハッハと笑っていた。
しかし、心身共に頑健な筈の皇宮護衛官の背中は、冷や汗でしっとりと濡れていた。彼にも、虫取り屋の真の姿が垣間見えたのかも知れない。




