端末の少女(3)
鬼に襲われたその日、理沙と虫取り屋は、泊まるところを探していた。
雨こそ降っていないが、気温は未だ低く夜には凍える程になっていた。辺りには、田んぼと畑が広がっている。少し町から離れた場所だった。
「お嬢ちゃん、どうすべ。今夜は野宿かなぁ」
虫取り屋は、隣に並んで歩いている理沙に訊いた。
「はぁ。それも、しかたがないかも知れません」
彼女は、抑揚もなく、そう呟くように言った。
「そうさなぁ。泊まれるだけの金はあるが、オレの場合、たいてい宿の方から断られる。オレだけならいいが、お嬢ちゃんを野原で寝かせるのは心苦しい。あんただけでも宿に泊まるか?」
そう言う虫取り屋に、理沙はこう言った。
「はぁ……。でも、野宿には慣れています。ずっと逃亡の毎日でしたから。それに、両親の残してくれたお金も、そろそろ底を尽きそうなので。あまり贅沢も言ってられません」
そう言う理沙の顔には、諦めとも思える表情が宿っていた。
「そうか……、ちょっと待て。確かその辺に、農家の物置が建っているはずなんだが……」
虫取り屋が少し背伸びをして、畑の方を見やった。
「おう、あったあった。今夜は、あそこで寝るかぁ」
虫取り屋がそう言うと、
「そうですね」
と、理沙も同意した。
畑の端っこにぽつんと建っている掘っ立て小屋は、屋根こそあるものの、若干の隙間があった。雨露はしのげるだろうが、せめて寝袋くらいは欲しい。この時期、明け方は特に冷え込むのだ。
彼等は小屋に近づいた。虫取り屋が<ガタガタ>と引戸をこじ開けると、そこには鍬などの農具と、藁束が重ねて置いてあった。
「お嬢ちゃん、運がいいな。干し草のベッドとまではいかないが、藁に包まっていれば、ちっとは暖かいだろう」
「そうですね。それに、虫取り屋さんと一緒なら、今夜は安心して眠れそうです」
理沙は正直にそう言った。これまで、いつ鬼に襲われるかを心配して、びくびくしていたのだ。当然、夜もろくに寝られなかった。
虫取り屋の見かけは貧相だが、あの鬼と戦って生きて帰れたのだ。しかも、鬼の片腕をも切り落として。「この人の実力は見かけでは判断できない」と、理沙は思っていた。
「虫取り屋さん、お腹空いてないですか? ハンバーガーは、食べる前に粉々にされてしまいましたし」
理沙が、申し訳なさそうに虫取り屋に言った。
「別に気にするな。俺も気にしない。それで、この件は終わりだ。いいな」
虫取り屋にそう言われて、理沙も「はい」と言って、この件はお終いになった。
虫取り屋は、小屋の中に積んであった藁をかき集めて、床に敷くと、そのままどっかと寝転がった。
「お嬢ちゃんもどうだい。思ったよりも寝心地がいいぜ」
虫取り屋が誘うと、理沙も藁束の上に横になった。
フンフンと鼻を鳴らすと、
「あら、本当。藁の香りが漂っていますね。いい香り。これなら、今夜はゆっくり眠れそうです」
理沙はそう応えて、虫取り屋の方を見るとニッコリと微笑んだ。
「そら良かった。今夜はオレも居るから、気にせずゆっくり寝るといい」
「はい。では、お言葉に甘えて」
理沙はそう言って横になると、スタジャンを掛布団代わりにして、ひっかぶった。
少女が眼をつぶってしばらくすると、スースーと寝息が聞こえて来た。安心して眠るのは久し振りだ。今夜はいい夢を見られるだろうか。
理沙が眠りに落ちるのを確認すると、虫取り屋は立ち上がって、足下の『鬼の手』が入ったレジ袋を取り上げて、しげしげと眺めていた。
十分くらいもそうしていたろうか。虫取り屋はふと顔を上げると、入り口に近づいた。そのまま引戸に手をかけると、スッと音も立てずに戸が開いた。そのまま外へ出る。戸を締める前に、一旦理沙の方を見やった。すやすやと眠っている事を確認すると、引戸をそっと閉めた。
虫取り屋は、小屋の前に立つと、そのままそこに突っ立っていた。微動だにしない。時折吹く夜風に、ボロボロの黒いコートの裾が揺れる。
彼は、しばらくそのまま立っていた。いつしか、天頂には少し欠けた月が、雲間から現れていた。しかし、その光は頼りなく、いつもの明るさを失っているようだった。
「よう、いらっしゃい」
虫取り屋が、そう呟くように呼びかけた。腐った魚のような淀んだ瞳の先には、いつの間にか人影が浮かびあがっていた。
「やっぱり、片腕は不便か。まぁ、そうだろうな」
虫取り屋は誰に言うでもなく、そう呟いた。そして、ぶら下げていたレジ袋を、その人影に向けて放り投げた。地面に落ちた袋は、ゴロゴロと転がると、人影の目の前で止まった。
そいつは片手で袋をこじ開けると、中に入っていた『鬼の手』を取り上げた。それをそのまま、肘から先が欠損した腕に押し付けると、肉と肉がグジュグジュと溶け合い、腕は再び持ち主の物となった。
「おでの腕を切り落とした奴。絶対に許さん」
人影は、怨嗟の言葉を吐いた。頼りない月の光の照らす中、虫取り屋には、人影の頭に生えている二本の角と憤怒に燃えた表情を見て取ることが出来た。
「もう、腕は戻ったんだ。これくらいで許してもらえんか?」
虫取り屋は、抑揚のない口調で、鬼に問いかけた。
「いやだ。おで、お前を殺す」
「それは困ったなぁ。オレには、まだやることが残っているんだが」
虫取り屋が嘯くと、鬼は天高く跳躍した。天頂の月と、飛翔した影が重なる。
鬼は、高みから飛び降りざま、虫取り屋に鉤爪を振るった。
再び、<キン>という金属音が、夜の畑に響き渡った。またも鬼の鉤爪は、虫取り屋の鎌に受け止められていた。
「いつまでも、同じ手が通じると思うなよ」
鬼は嗄れた声でそう言うと、空中で凄まじい蹴りを放った。<ごぉ>っと風が舞ったようだった。
腹を蹴られた虫取り屋が、宙に飛ばされた。だが彼は、ヒラリと空中で一回転すると、静かに地面に降り立った。
一方、蹴り飛ばした鬼は、飛ぶような速度で近づくと、三度その豪腕を振るった。
誰も居ない畑に、赤黒い体液が散った。
「ぞ、ぞんな……、ばかな」
鬼が苦鳴を上げる。
薄暗い夜空に、鈍く光る鎌が見て取れた。鬼はその鎌で腹を裂かれていた。
「痛いか。鬼でも痛覚を持っているのだな」
虫取り屋が静かに呟いた。静かな夜風にもかき消されそうなその言葉は、何故か、鬼の耳には、はっきりと聞き取ることが出来た。
「ぬかったわ。おまえ、何者だ」
鬼が苦しそうに、問いかけた。
「オレは虫取り屋。この世に生じたバグを潰す者だ」
すると、鬼は驚いたような表情を見せた。
「お、おまえが、噂の……」
「オレは、鬼の世界でも有名なようだな」
言葉の内容とは裏腹に、虫取り屋は、何の感慨も無いように呟いた。
「お前は、第一級のバグだ。ここで消滅してもらう」
虫取り屋はそう宣言すると、両手の二丁鎌を振るった。
鬼は、この程度の攻撃は見切れると思っていた。確かに紙一重で躱したはずであった。
しかし、赤錆た鎌は、今度こそ鬼の両腕を肩から切断していた。赤黒い異形の体液が、無人の畑に飛び散る。
「息の根を止める前に、一つだけ質問させてもらおう。何故、あのお嬢ちゃんを追いかけている」
虫取り屋の問に、
「ぞんなごとは、おまえがじる必要はない」
と、鬼は、しらを切った。
「そうか……、ならばそれも良いだろう」
虫取り屋はそう呟くと、右手を高く掲げた。薄暗い月夜に、鬼の首が飛ぶ。鎌を振るった動作は見えなかった。
首を失った胴体は、そこにしばらく立ちすくんでいたが、その体液を流し尽くすと、ゆっくりと倒れた。
「デバッグ終了。これより後処理に入る」
静かな畑に、虫取り屋の囁くような声が響いた。
「何かありました?」
虫取り屋が小屋に入った時、その物音に理沙が気が付いた。まだ眠そうな顔をしている。
「いや。何でもない。ちょっとな……ションベンだ」
そう答えると、虫取り屋は何事も無かったように、藁の上に横になった。
理沙は、そんな虫取り屋の態度を不思議そうに見つめていたが、しばらくすると彼女も横になった。
虫取り屋の行動に、何かを思ったのだろうか。それも束の間、理沙も藁束の上でスースーと寝息をたて始めた。
理沙は何故、追われていたのだろう? しかも、伝説の怪物である鬼に。その理由が分かるのは、未だもう少し先の事だった。