山越え(4)
座敷の間、中央の黒い漆塗りのテーブルを囲んで、三人の男女が座っていた。
ここは、『此泉坐天御魂神社』。鬼部氏系列の神社である。
理沙達は、列車で襲ってきた鬼達から逃れるために、山中に隠れるようにひっそりと建つ神社に逗留する事にしたのだ。
祭事に際して心身を清めるために、ここでは社に隣接する温泉の湯を使うのだそうだ。
理沙が列車内の惨劇で受けた汚れを払うには、好都合だった。ただし、『鬼』縁の神社ではあるのだが。
「むぅううー」
ワンピースを着て正座している理沙は、赤い顔をして唸っていた。さっきまで温泉の湯に浸かっていたのだが、湯中りした所為だけでは無いだろう。
列車の中で虫取り屋に昏倒させられた辺りから前後の記憶が無い。気が付いた時には、温泉の湯に浸かっていた。身体を包むものは、タオル一枚すら無かった。きっと、虫取り屋が脱がしてくれたのだろう。脱衣所でのやり取りを聞いて、彼女はそう推察した。
(くぅううううう。不覚。不覚だわ。男の人に裸を見られたなんて。しかも、全部……。その上、それが虫取り屋さんだなんて。うううう、……は、恥ずかしい)
理沙は、左隣に胡座をかいている虫取り屋の方を、見る事が出来なかった。
かと言って、鬼村の顔を見るのも、なんとはなく恥ずかしい。彼も、理沙が虫取り屋に服を脱がされた事を知っているに違いない。何せ、ここには三人しかいないのだ。消去法など使わなくても、すぐに分かってしまう。
彼女は、何だか自分の一番恥ずかしいところを知られたようで、二人の男性を視界に入れたく無かった。結局、顔を赤くしながら俯いている事しか出来ない。自然と、口数も少なくなる──と言うよりも、全く何も話せないでいた。
一方、鬼村はというと、今さっき火を入れ直した猪鍋を前に正座をしていた。ジッと直視はしないが、チラチラと理沙の方を見ては視線を鍋に移す。何回かそうしては、時折、理沙とは対照的に無表情な虫取り屋の顔を見たりする。
彼は、熱くなった鍋を持って来てからこっち、その繰り返しをしていた。
一見、これまで通りに人の良さそうな表情をしているが、糸のように細い両の目は、四角い顔の中で四時四十分を指していた。微妙な位置である。
鬼村は、ここに到着したままの背広姿だった。ただし、上着もシャツも、両肩から袖口までは鬼との戦いで布が失われたままである。鍛えられた筋肉のついた両腕が、肩口からむき出しになっている。まるで、お笑い芸人の罰ゲームのような彼の姿だったが、誰からも笑いを取ることは出来なかった。
それでは虫取り屋は? というと、さすがに食事をするのであるから、ボロボロの黒いコートと鍔広の帽子は脱いでいる。ただし、それらは彼の背中側にクシャクシャになって無造作に放り出されていた。
いつもなら、理沙が小言でも言いながらきちんと畳むように促すのだが、今日に限ってはそれも無い。
彼も、座敷に入ってからこっち、テーブルの前に座り込むと、じっと黙ったままであった。
投棄された列車から神社までの道程──三十キロもの距離を、意識を失った理沙を両腕に抱えて踏破してきたというのに、疲労感などは全く見られない。ボウッとした無表情な顔をして、沈黙を守っている。その腐った魚のように澱んだ瞳が、宙に向けられているだけだった。
三者三様に座ってはいたものの、誰一人、鍋に箸をつけようという者はいなかった。それ以前に、何か言葉を発する者も皆無だったのだ。
まるで、この静寂を破りたくないとでも言うかのように……。
(うう~、気不味いなぁ。何か話そうにも、わたしから話せる事なんて無いし。……このお鍋、鬼村さんが作ってくれたんだろうなぁ。お料理に興味の無い虫取り屋さんには、作れそうに無いもの。でもぉ……、折角作ってくれたんだから、冷める前に食べないとなぁ。でも、わたしから切り出すのは、何か恥ずかしいし。うう……、どうしよう)
理沙の心の内では、葛藤が渦巻いていた。
こうなると、テーブルの鍋がかわいそうで、思わずチラ見してしまう。
その時に、鍋を挟んで正面に座っていた鬼村と、目が合って仕舞った。
「あ……」
「……あ」
二人は、共に思わず声を漏らしたものの、理沙は再び顔を赤くして俯いて仕舞った。湯気の向こうに僅かに見えた鬼村の顔も、赤くなっているように見えた。
そんな初心な男女と対照的に、無表情を決め込んでいた虫取り屋が、突然に口を開いた。しかも、仏頂面のまんまにとんでもない事を。
「嬢ちゃん……。何だぁ、そのう……、体毛の手入れはぁ……、しといた方がいいぞ」
彼女の方を見もせずにボソリと呟いたその言葉に、理沙は耳まで真っ赤になって仕舞った。
「な、な、な、なんて事を言うんですか。ちゃ、ちゃんとお手入れしています」
あまりの言葉に、理沙はそれこそ顔から火が出んばかりに真っ赤になると、吃りながらも虫取り屋に言い返していた。
しかし、それに応えたのは、もう一人の男だった。
「えっ、そうなんだ」
驚いたような声でそう言うと、鬼村は理沙を注視していた。
「あ、当たり前です。ってか、そんなに見ないで下さい!」
シモネタに引っ張られそうになるのを恐れた理沙は、鬼村を嗜めるように怒鳴った。
そんな理沙の態度を嘲笑うかのように、またもボソリと言う呟きが追い打ちをかけた。
「そうかぁ。結構、生えてたぞ」
抑揚の無い無感情な声であるだけに、少女へのダメージは大きいようだった。
「そんな事ありませんっ。わ、わたし、そんなに毛深くありませんから」
どの辺が『そんなに』かは分からないが、彼女は反射的にそう応えていた。
「あっ、えっ、マジですか」
またしても、鬼村が細い目でジッと理沙の方を凝視していた。
「き、鬼村さんは、黙っていて下さい。それより虫取り屋さんっ、いい加減な事、言わないで下さい」
二人の男性の間で、十代の少女は真っ赤な顔をしたまま抗議を続けていた。
「いやぁ、だがなぁ、見える事もあるだろうが。な、嬢ちゃん」
普段は何事にも無関心な筈の虫取り屋が、今回はどうしてか引き下がらなかった。
「うえっ。み、見えちゃうんですかっ」
皇宮警察であまり女性には縁の無かった独身男には、虫取り屋の言葉は衝撃的だったらしい。
しかし、当事者である理沙にとっては、それ以上だった。
「はみ出して見える程、生えてる訳無いです。って、そんなとこを詮索しないで下さい!」
そう否定したものの、彼女は自分が何を言っているのか、もう分からないでいた。
「そうかぁ。だが、袖から見える事もあるだろう。腋の下なんだから……」
「へっ?」
呆けたような声の内容を、少女が理解するには少し時間がかかった。
「……えっ。ええっとぉ……、腋? 腋の下……、です、か?」
唖然とした少女の言葉に、虫取り屋は、
「そうだな。チロッと、生えてるようだが。良いのか? なら、別に構わんが」
と言うと、この事に興味を失ったように、再度沈黙して仕舞った。
「……あ、は、……はは。わ、腋の下ですよね。……ちょっと、お手入れが行き届いていなかった……かも」
赤くなった少女の顔を、ダラダラと大量の汗が伝っていた。
「あっ、何だぁ、腋の下かぁ」
「ですよねぇ。わたし、女の子として、ちょっとだらしなかったかもぉ」
理沙と鬼村は、同じように頭を掻きながら顔を見合わせていた。
(あああああ。腋の事だったなんて。ナンテ事考えてたの、わたし。鬼村さん、変な事、想像したりしていないわよね。ううう。もう、恥ずかしい)
「自分、てっきり、アソコの毛の話だとぉ……」
鼻の頭を汗で濡らした鬼村が、そう言いかけたところ、
「それ以上は、言わないで下さい」
と、殺気を含んだ声が彼を制した。
細筆で描かれたような細い目が向いた方向には、まさしく赤鬼のような形相をした理沙の顔があった。さすがに角は生えていないが、これ以上余計な事を言えば、本当に生えてきそうな勢いであった。
「あ……、えーと、……はい」
少女にそう言われて、さしもの皇宮護衛官も黙るしか無かった。
「そ、それより、お食事にしましょうよ。わたし、何だかお腹空いちゃった。えっと、このお鍋、鬼村さんが作ってくれたんですか? 美味しそうな匂いですね」
照れ隠しもあってか、食事の事を理沙が口にすると、
「あ、はいっ。そうなんです。自分が丹精込めて作らせていただきました。野生のイノシシを使った猪鍋です。滋養強壮に良い効果のある山菜もたっぷり。身体に良く、美容にも効果あり。是非是非お召し上がり下さい」
自分の作った夕食の事を問われて、鬼村はここぞとばかりにアピールを始めた。
「え……。イノシシ……ですか。野生の……。な、なんか、凄いですね」
食材が野生動物と聞いて、彼女は少し引いて仕舞った。しかし、ここは、人里離れた山の中だと聞いた。ならば、野生のイノシシくらい居ても、不思議ではないのかも知れない。
「ああ、大丈夫ですよ。しっかり血抜きをして、鍋で煮込みましたから。寄生虫とかは気にしないで下さい。E型肝炎のウイルスを保持しているとも言われていますが、よく火が通っていれば安全です。それに、日本では、縄文時代からイノシシを食べていましたしね。イノシシの語源は『ヰの肉』だそうで、大和言葉で『ヰ』は猪のイ、『肉』はシシと言っていたらしいですから」
ここでも、鬼村はその博学ぶりを示した。仕事柄、日本の古代については得意分野であるのだろう。
「物知りなんですね」
食事に関心が移ってホッとしたためか、それとも本当に感心したのか、理沙は眼を丸くしていた。
「猪鍋というのか。……美味いのか?」
という呟きが脇から聞こえた。虫取り屋である。
「ええ、美味いですよぉ。山菜も一緒に煮て臭みも無く、美味な事間違いなし」
自分が調理したのだから、鬼村が不味いなどと言う筈が無い。
「…………」
しかし、その言葉に虫取り屋は反応せず、黙ったまま理沙の方へ顔を向けていた。
「え? へ、……あ、わたしは、……食べた事が無いので分かりませんが。……きっと、美味しいと思いますよ」
鬼村の言葉では信用できないのか、理沙がそう応えても虫取り屋は彼女の方を向いたままだった。
「ああっと、……じゃ、じゃあ、わたしが味見をしてみますから。……ええっと、それでは、いただきますね」
頑なな虫取り屋の態度に、彼女は自ら味見を買って出る事にした。
鍋の側に置いてある菜箸を手に取ると、未だもうもうと湯気の立ち上る汁の中に浮かんだ肉を、取り皿に移す。ついでに、山菜と思われる葉菜も少し取る。
改めて皿の中の肉を見ると、何とはなく豚肉っぽい匂いがしないではない。ツンと鼻腔を刺激するのはショウガだろうか。
「あ、理沙ちゃん。出汁の方は、塩と醤油くらいでしか味付けしていないんで、お好みで七味やポン酢を使って下さいね」
彼女が食べるのを躊躇しているように見えたからかも知れない。鬼村はそう言うと、理沙の近くに朱色の小瓶と、酸味の香りのする瓶を置いた。
それを見て少女はコクリと頷くと、取り敢えず薬味無しで食べてみる事にした。
左手の取り皿を口元に近づけると、箸で肉を摘み上げた。一旦口を付けたものの、未だ熱い。
彼女は、唇を尖らせて「ふぅーふぅー」と息を吹きかけると、再度それを口に含んだ。
なるほど、確かに豚に近いが、遥かに濃厚でコクのある旨味が口の中に広がる。それは、噛みしめるほどに湧き出して、少女の舌を満足させた。思わず顔がほころぶ。
「どうですか……」
それを見ていた鬼村は、彼女に感想を求めた。
「うん。美味しいです。イノシシって、こんなに美味しいんですね」
理沙の言葉に満足したのか、
「そうでしょう、そうでしょう」
と、やけに所帯じみた皇宮護衛官は、細い目を更に細めて何度も頷いていた。
「……そうか。美味いのか」
彼女の様子を黙って見ていた虫取り屋は、そうボソリと独り言のように呟くと、やっと鍋の方へ顔を向けた。
「はい。本当に美味しいです。虫取り屋さんも食べてみませんか」
そんな彼の態度に、少女は元気よく応えていた。
「じゃぁ、自分もいただきます」
二人の様子を見て、鬼村は両手を合わせると、そう言って箸と取り皿を取り上げた。そして、鍋の中からごっそりと肉と山菜を掴み取ると、熱々なのも気にせずに豪快に食べ始めた。
「んー、美味い。コクがあるのにアッサリ味。薬味無くても、いくらでもいけますね」
列車の中での昼食の如く、鬼村は自分の胃の腑に、山の幸を止処もなく送り込んでいた。
それを見ていた理沙も、無くなる前に食べようと、彼に負けじと鍋のご馳走に舌鼓を打っていた。
虫取り屋は、しばらくそんな二人の様子を眺めていたが、彼もおもむろに箸を取ると、熱い汁の中の肉をつまみ出していた。
取り皿の中で、未だ白い湯気を立ち上らせるそれを、彼は暫しボウと見ていた。だが、遂に意を決したのか、それを箸で口に運ぶと、ハムハムと咀嚼する。十秒ほど無表情にそれを続けた後、虫取り屋は噛み砕いた肉をゴクリと飲み込んだ。
「…………」
何を思っているのか、猪肉を食べても彼の表情は全く変わらなかった。
理沙は、そんな虫取り屋を見て、
「どうです。美味しいでしょう」
と、ニッコリと微笑みながら話し掛けていた。
そんな彼女の方へ、虫取り屋は少し顔を向けると、一言、
「美味いな……」
とだけ呟くと、もう一度、菜箸で鍋の中をさらっていた。
「はい。美味しいですね」
昼間の惨劇も忘れたかのように、理沙は三人でする夕餉を心から喜んでいた。
(はぁー、本当に美味しいわ。お鍋を誰かと囲んで食べたのって、本当に久し振りだわ)
今朝までの逃亡生活で忘れかけていた暖かさが、少女の心身を満たしていた。
彼女は、肉だけでなく、充分に出汁が滲み出た汁も、温かいうちにすすっていた。
「お汁も美味しいー」
ショウガが効いているせいか、身体の芯からポカポカしてくる。
三人で山の物を煮込んだ鍋を囲んでいると、数十分もしない間に、中身はほとんど食べ尽くされていた。
「ああ、喰った喰った。ご馳走様でした」
自分の手料理で満腹になったのか、鬼村は箸を置いて両手を合わせると、満足そうにそう言った。
「ご馳走様でした」
それに習って、理沙も両手を合わせてそう言った。
「…………」
虫取り屋は、そんな二人の様子をボウと見ていたが、同じように箸を置いて両手を合わした。
「ご馳走様でした……」
か細い呟くような声は、何かの呪文でも唱えているようだ。
「はい、お粗末様でした。はぁー、やっぱり鍋は皆で喰うと美味いですよねー」
自分の手作りが『美味しい』と言われて、彼はそう言って何度も首を縦に振っていた。
「辺鄙な山の中なのに、こんな美味しいものをご馳走していただいて、ありがとうございました」
改めて理沙は、鬼村にそう礼を言った。
「なんのなんの。自分も、理沙ちゃんと一緒に夕ご飯が食べられて嬉しいです。いやぁ、満足満足」
と、四角い鬼村の顔の中に、如何にも『良い人』の表情が浮かんでいた。
それを見て彼女は立ち上がると、冷めかけた鍋を持ち上げた。
「じゃぁ、洗い物はわたし達でしますね。虫取り屋さん、お手伝いお願いします」
ご馳走で顔のほころんだままの少女は、テーブルの脇で胡座をかいている虫取り屋に声をかけた。
「…………」
その言葉に何を思ったのだろう?
虫取り屋は、おもむろに立ち上がると、テーブルの上の取り皿や箸を手に取ると理沙に着いて炊事場に向かっていた。
「ほう、ほう」
そんな彼の行動を見て、鬼村は思わず声を漏らしていた。
皇宮警察本部で聞いていた『虫取り屋』の情報には、そんな行動をとるなんて報告は無かったからだ。
だが、それ以上に、虫取り屋に、『美味い』と言わせたり、『手伝い』をさせた少女にこそ、彼は感嘆したのだ。
──何かが変わろうとしている
そんな事を予感させるような出来事だった。
しかし、そんな鬼村の心の内を知ってか知らずか、理沙は甲斐甲斐しく虫取り屋と洗い物をしていた。
そして、山の中の神域で、闇が濃くなっていった。




